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父が89歳の人生を終えて永遠の眠りに

2011-05-20 23:13:27 | Weblog

一昨日、私の父、新太郎が肺炎のため、89歳の人生を終えて永遠の眠りにつきました。父は1922年2月生まれ、戦争を体験しました。

昭和17年2月20歳となり、召集令 状が届き、徴兵されましたが、痩せてい たので丙(甲乙丙)の最低ランクづけさ れ、通信兵になりました。戦地には行かず、千葉県の小湊に配属。
米軍に通信が傍受されていく、暗号は通じない「この戦争は勝てない」と思ったと語っていました。


 

戦争が終わり、仕事につくが、定職に就かずフリーター先駆け  

本人に聞くと24種類の職についたとか大工、左官工、八百屋、魚屋、鉄工所職人、溶接工など、写真は稲葉鉄工所(北区)で 働いていたころ。
ついに日産化学豊島工場に就職。就職試験は学科と実技で第1次試験はパス したものの、それから第2次試験は毎日続 き、ついに2人のみ採用されたとか。30日もかかっての採用でした。

26歳で見合い結婚、母の 実家、北区豊島8丁目で八百 屋を営む、岩田家に同居。
まるで、婿さんです。したがっ て、一生、恐妻家でした。
当時、日産化学は職場が午後 4時に終わると4時30分に は家に帰っていました。
父が母と夫婦喧嘩で勝った ことはなかったと思います。 私の記憶では母に殴られたこ とは何回もありましたが、父 に殴られたことは一度もなく、やさしい人でした。

1969年(昭和44年)日産化学 豊島工場が移転しました。勧奨退職を受けた父は腕のいい職 人から自営業者の道へ。もっぱら母 が営業で仕事をとってきたようです。
 日立製作所亀有工場の下請けとして 新幹線のエアコンの部品を主に受注していました。

この頃、足立民商北足立支部に入会。中小企業家として自覚を高めていきました。
私も5年間、父のもとで働きましたが、途中で現在の道に転換しました。父にとってはショックのようでしたが、弟が父の後を継いでくれました。つづく。