”SLEEPY LAGOON”by Harry James & His Orchestra
以前、買ったばかりのあるウクレレ奏者のアルバムを聴きながら車を走らせていて、「うわ、この曲には子供の頃の思い出が大量に詰まっているぞ」と、強烈に意識されるメロディに出会い、突然に膨れ上がった懐旧の念に胸かきむしられた事がある。ともかくその曲を聴いていると、今はすっかり様相を変えてしまった、家の裏口から続いていた横丁の風景や物音、通りの臭いまでもが実に生々しく脳裏に蘇ってくるのだ。なんだなんだこの曲は。
家に帰ってからジャケの曲名を検めてみると、”SLEEPY LAGOON ”とあった。眠れる珊瑚礁、か・・・曲名には特に心当たりはない。そもそも懐旧の念と言っても、この曲が私の心に蘇らせたのは、私が物心付いたばかりの頃の思い出であって、もちろん当時は音楽ファン開眼はしていないし、洋楽をタイトルまで把握しつつ愛聴なんてしていたはずもない。
この種の思い出というのは結構いい加減なところがあって、後付けの記憶が折り重なってイカサマの思い出を形成している場合もあり、中学時代の出来事のBGMと信じ込んで来た曲が、ハタチ過ぎていなければ聴いているはずのない曲であったりする。今回の件も、子供の頃に聴いた似たような別の曲と取り違えていたりしている可能性大なのだが、まあ、確かめるすべもないことだし、この曲を聴いて子供時代を過ごした事にしてしまう。
というわけでこの曲、タイトル通り南の陽の下で珊瑚礁が昼寝でもしている様子を描いたもののようだが、独特の南国感覚というべきか、ハワイアン調でもなし、ちょっと東洋風でもあるような、不思議な異国情緒と哀感が漂うメロディラインである。
ひょっとしてこの独特のエキゾティックは、当時の欧米人にとっては南太平洋などなかなか行くことも出来ない憧れの地であったがゆえにでっち上げられた、人工的な異世界風味ではなかったのか?などと想像しているのだが。
作られたのは1930年代、詞が付けられ、人気トランぺっターのハリー・ジェイムスの楽団に取り上げられてヒットしたのが1940年代初期というのだから、私が子供時代に聴いた、と考えるのは苦しい。当方としてはいつもの遊び場である横丁で鬼ごっこかなんかしている際に、どこかの家の窓辺に置かれたラジオから流れていた、なんて状況を想定しているのだが。まあ、懐メロとして流れていたという設定もありではあるのだが。
先に書いたように、曲を覆うのはちょっと人口的な匂いもするリゾート感覚であり、そのメロディに浸っていると、確かに緑の水の広がりの中を行くような感触に包まれるのだが、そこに潮の香は感じられず、気が付けば自分は非常に小さな体となってラムネのビンのガラス球の中を泳いでいるのである。右手に水泡と見えたものは、ガラス球の中に出来た細かい空気の泡である。下方に見える珊瑚礁もどきは、同じようにガラスの壺に入れられた量り売りの駄菓子のようだ。
いつの間にか自分は仲間たちの溜まり場である駄菓子屋の店先にいて、皆と一緒に強そうなベーゴマの品定めをしている。ニッキ水やヤキイカの香りがして、午後の日差しはもう西に傾きかけている。ほどなく、夕食の時を告げる母親の声に、仲間たちはそれぞれの家に帰って行くのだろう。喪われてしまった。そんな路地の楽しみは、とうの昔に。
仲間たちは長じて、職を求めて他の土地に居を移し、いつの間にか帰郷する事もなくなった。
なんだか取り残されてしまった感じの私は、これだけは昔と変わらぬ陽光の元で”SLEEPY LAGOON ”を聴いている。夕暮れがやってきて、海からの風が残暑の町を吹き抜けていった。
以前、買ったばかりのあるウクレレ奏者のアルバムを聴きながら車を走らせていて、「うわ、この曲には子供の頃の思い出が大量に詰まっているぞ」と、強烈に意識されるメロディに出会い、突然に膨れ上がった懐旧の念に胸かきむしられた事がある。ともかくその曲を聴いていると、今はすっかり様相を変えてしまった、家の裏口から続いていた横丁の風景や物音、通りの臭いまでもが実に生々しく脳裏に蘇ってくるのだ。なんだなんだこの曲は。
家に帰ってからジャケの曲名を検めてみると、”SLEEPY LAGOON ”とあった。眠れる珊瑚礁、か・・・曲名には特に心当たりはない。そもそも懐旧の念と言っても、この曲が私の心に蘇らせたのは、私が物心付いたばかりの頃の思い出であって、もちろん当時は音楽ファン開眼はしていないし、洋楽をタイトルまで把握しつつ愛聴なんてしていたはずもない。
この種の思い出というのは結構いい加減なところがあって、後付けの記憶が折り重なってイカサマの思い出を形成している場合もあり、中学時代の出来事のBGMと信じ込んで来た曲が、ハタチ過ぎていなければ聴いているはずのない曲であったりする。今回の件も、子供の頃に聴いた似たような別の曲と取り違えていたりしている可能性大なのだが、まあ、確かめるすべもないことだし、この曲を聴いて子供時代を過ごした事にしてしまう。
というわけでこの曲、タイトル通り南の陽の下で珊瑚礁が昼寝でもしている様子を描いたもののようだが、独特の南国感覚というべきか、ハワイアン調でもなし、ちょっと東洋風でもあるような、不思議な異国情緒と哀感が漂うメロディラインである。
ひょっとしてこの独特のエキゾティックは、当時の欧米人にとっては南太平洋などなかなか行くことも出来ない憧れの地であったがゆえにでっち上げられた、人工的な異世界風味ではなかったのか?などと想像しているのだが。
作られたのは1930年代、詞が付けられ、人気トランぺっターのハリー・ジェイムスの楽団に取り上げられてヒットしたのが1940年代初期というのだから、私が子供時代に聴いた、と考えるのは苦しい。当方としてはいつもの遊び場である横丁で鬼ごっこかなんかしている際に、どこかの家の窓辺に置かれたラジオから流れていた、なんて状況を想定しているのだが。まあ、懐メロとして流れていたという設定もありではあるのだが。
先に書いたように、曲を覆うのはちょっと人口的な匂いもするリゾート感覚であり、そのメロディに浸っていると、確かに緑の水の広がりの中を行くような感触に包まれるのだが、そこに潮の香は感じられず、気が付けば自分は非常に小さな体となってラムネのビンのガラス球の中を泳いでいるのである。右手に水泡と見えたものは、ガラス球の中に出来た細かい空気の泡である。下方に見える珊瑚礁もどきは、同じようにガラスの壺に入れられた量り売りの駄菓子のようだ。
いつの間にか自分は仲間たちの溜まり場である駄菓子屋の店先にいて、皆と一緒に強そうなベーゴマの品定めをしている。ニッキ水やヤキイカの香りがして、午後の日差しはもう西に傾きかけている。ほどなく、夕食の時を告げる母親の声に、仲間たちはそれぞれの家に帰って行くのだろう。喪われてしまった。そんな路地の楽しみは、とうの昔に。
仲間たちは長じて、職を求めて他の土地に居を移し、いつの間にか帰郷する事もなくなった。
なんだか取り残されてしまった感じの私は、これだけは昔と変わらぬ陽光の元で”SLEEPY LAGOON ”を聴いている。夕暮れがやってきて、海からの風が残暑の町を吹き抜けていった。