ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

倍音精舎

2010-08-01 04:11:23 | アジア


 と言うわけで。先日書いた次第で義母が亡くなり、線香くさい不祝儀な日々を過ごしていたのだった。まあ、人付き合いのいい加減な私は通常、葬式などはバイクに乗って会場に飛んで行き、とっとと焼香だけ済ませて帰ってくる。所要時間5分とかそんなものなのだが、さすがに義母となるとそうも行かず、久しぶりに通夜から告別式までフルに参加してしまったのだ。
 が、ともかく長い!葬式って長過ぎないか、お立会い?しかもこの、これでもかと言う炎天下。正直言って居眠りしたよ、何度か。しょうがないじゃないか。

 また、考えてみればあの宗派の式にははじめて出たのだが、なんというか盛り上げるような演出になっていないのだな。私の家の菩提寺の葬儀などはやたらと、「はい、お手元の本の何ページを開けてください」とか言って経文を唱和させる、オーディエンス参加型なのだ。しかもその間、鐘や木魚でリズムを打ち出し、かなりの音楽的演出がある。と言うことに今回はじめて気が付いたのだ、義母の家の宗派の葬儀に出席して。

 あちらはともかく坊さんの説教は長いし、それが終わったかと思えば、まあワールドミュージックで使われるような用語を使えば詠唱とかチャントとかいう部類に入るんだろう、リズム無しで御仏の教えとかを歌い上げるのであって、こちらはただかしこまってそれを聴いていなければならない。この炎天下、しかも所要時間も長い。しょうがないだろ、眠くなったってさ。
 無理やり分ければ、私の家の宗派はより音楽的、あちらの宗派は、いわば文学的なのだろう、リズムに乗った経文を僧と一緒に唱えさせて宣撫(なんていってはいかんのだろうが)を謀るのではなく、もっぱら唱え挙げる文章内容そのものによって説教を行なおうとするのだから。

 それでも読経がクライマックスに至ると、音楽的面白さは出てくるのであって。なんて事を書いていていいのかどうか知らんけどさ。ともかく、いつも複数の僧による読経を聴くと感じる、あの不思議な音楽効果は起こってくるのだった。
 作家の五木寛之によると、読経の技術が仏教と共に大陸から伝来した当時、お経と言うものはきれいな4パートに分かれたハーモニーを持っていた。それを動きの少ないモノクロームなメロディ進行に”退化”させてしまうのが日本の文化の傾向のようなのだが。いや、こうして聴いているとハーモニーの代わりになるものはあるではないか。

 それがいつも気になっている、あの倍音効果なのだが。今回の宗派で言えば、なんだかホーミーでも始まりそうな押しつぶした低音で歌いだされ、それに、微妙に音程が異なる他のスたちの読経が重なって行く。そのユニゾンのようでユニゾンでない、微妙な和声の中からフワ~ンとッ揺れ上がる倍音の響きがあるのだ。
 これはたとえば、アフリカ音楽のあるものに当たり前に聴き取れるものであって、大人数のユニゾンコーラスの狭間から、エフェクターでも使って作ったのではないかと思いたくなる玄妙な倍音の響きが満ちてきて、こいつがたまらなく魅力的なのだが、そんな倍音世界が、どの宗派の読経にもある。

 これ、意識してやっているのかなあ?坊さんが修行の際、「倍音を生み出す読経重唱の演習」とか言って、あれの練習をしているとはあんまり考えられないし。何となく、「こうしたほうがカッコいいな」なんて形で認識され、伝承されてきたんだろうか?そもそもあの読経の際の独特の節回し。あれはどのような背景と歴史を持つのだろうか?
 もしかして仏教音楽の世界、突っ込んでみたら面白いのかも?と思ったりするのだが、あまりにも地味そうで、そんなものを楽しめるほどの学者気質ではないしね、こちらも。

 などと言いつつ。盛夏、義母を送る儀式は進行していったのだった。合掌。しかし、暑いねえ。いつもの夏も、こんなに暑かったっけ?う~む。

 下に貼ったのは、この話題と関係あるのか分からないが、仏教音楽である”声明コンサート”の模様など。




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