ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”黄金の花”に偽善を読む

2008-08-20 01:08:05 | 沖縄の音楽


 というわけで今回は、主に沖縄音楽好きの間で評価の高いらしい”黄金の花”なる歌についてここで考えてみたく思います。

 岡本おさみ作詞・知名定男作曲。ネーネーズの歌唱がどうやらオリジナルで、その後、いろいろな歌手たちがレパートリーに入れています。
 この歌は沖縄音楽関係者の間で、すでに”名曲”みたいな扱いを受けている。それが定評、みたいになってるけど、私にはなんだか聴いていてどうにも気色の悪い気分になって仕方がないんですね。これについて考えてみたいというわけです。

 歌詞を載せていいのかどうか。幸い、全歌詞を掲載しているサイトがあったので、下にそこのURLをリンクしておきます。読んでみてください。

 ●”黄金の花”の歌詞●

 この歌、どうやら海外から日本に出稼ぎにやって来た人々に呼びかけるという仕様のようです。日本の生活のペースに巻き込まれ、心を曇らせないでと呼びかけているようなんですが。
 私がこの歌を聴いてまず首をかしげたのは、彼ら”きれいな目をした人たち”は「黄金の花はいつか散る」ことを、いちいち我々が”指導”してやらないと気もつけない連中なのか?ってことです。

 この詩を読んでいただければお分かりになるかと思うんですが、ここでは彼ら”他所の国の人々”は、ろくに判断力もなく、ただただ助力を必要としているひ弱で無能な人々、そんな風に描かれています。そんな風にしか私には読み取れません。
 少なくとも、彼らの伝統や文化に対するリスペクトってのはこの歌詞の中からはまったく読み取れませんよね?

 そう思って読み直してみればこの歌詞、物言いは丁寧なように見えますが、すべて上から目線です。この詩の中では海外からの人々はまるで、明日にでも死にそうな病人か老人みたいにみえます。
 彼らはあくまでも、”よりすぐれた上位者からの庇護や助言を必要としているひ弱な人々”なんですね。で、その上位者ってのは「もちろん、我が優秀なる日本民族である」なんて奢った意識、この歌詞の裏に脈々と息付いてはいないか、もしかして?

 だって、ここには彼らを、”もしかしたら我々の側こそが教えを請わねばならぬ貴重な文化をその内に秘めているかもしれない人々”なんて形で敬意を払おうなんて姿勢は覗えないんだから。ただただ”弱者”として、庇護の下に置かれるべき非力な人々として扱われているんだ。
 
 どうやらその辺で私は、この”黄金の花”って歌に、というかその歌詞に反発を覚えているようなのです。
 
 この曲の存在意義って、なんなのか?
 何のことはない、この歌を作り、あるいは歌い、あるいはひいきの歌手がそれを歌うのを聴き、「ああ、弱い立場の人々を思いやってあげている私って、なんて心優しく正しい人なのっ!」と自分に感動する、ための、自己陶酔するための、自己満足するための、お茶番ソングじゃないのか、つまりは。

 そう思うと、なんかムカムカしてくるんですがねえ。沖縄のミュージシャン諸氏よ、あの歌にそのような違和感を抱いたことってありませんか?


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20 コメント

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同じ思いですよ。 (メルメン)
2010-08-10 10:29:07
こんにちは。
私も全く同じ感想でしてね。ボランティアのママさんコーラスで歌われそうな、安っぽくペラペラな歌ですよ。
これは歌詞でしたが、私はThe BOOMの「島唄」のメロディーは沖縄民謡とは似て非なるものだと思うんです。
「島唄」に対してではないですが、確か普久原恒勇さんが「沖縄民謡というものは、ただ琉球音階をなぞれば良い訳ではない。その辺りが分かってない新しい歌が多い」と言っておられます。
新しい歌を作るのも、リミックスをするのもいい。
しかし、その中心に何があるのかを分からないでやると、意味のないものに終わってしまう。
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メルメンさんへ (マリーナ号)
2010-08-11 22:19:49
 いらっしゃいませ。
 そうですね。この歌とかあるいは”童神”みたいな歌は、”飼い馴らされた沖縄”を象徴するみたいな歌詞っていえるんではないかと。もっともらしくはあるんですが、沖縄ならではの野趣は失われてしまっている。
 そして確かに沖縄音楽、例の音階をなぞればそれらしいものが出来上がってしまう、という困った部分はある。かたちで示せない領域の話であるだけに、ますます危険を孕んでいるんでしょうね。
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理論≠感情 (メルメン)
2010-08-12 07:30:09
よく理系の実験で、バッハの曲のスケールをパソコンに入力して、それをランダムに鳴らすとバッハ風に聞こえる…というのがありますよね。一聴、変奏曲みたいにも聞こえるが、何の感動もない。
それと同じで、作る側にすれば「琉球音階の旋法には、この音の後にはこの音が続くという決まりがある」と普久原さんは言っているのです。
それとは別に、琉球音階を使っていない沖縄発のポップス、フォークソングにも何の味わいもない歌がかなり多くなったと思う。
そういう言い方をすると、「沖縄に対する差別ではないか。沖縄を特別視しているからではないのか」と言われるかも知れないが、昔の沖縄発の歌にはどのジャンルにおいても、独特な味わいがありましたよ。





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さらに言うならば…、 (メルメン)
2010-08-12 07:46:32
昔も今も沖縄人の郷土愛は存在するとは思うが、その形がかなり変わってきていると思うのです。
これだけテレビ、メディアが発達してくると、やっぱり若い人は洗いざらしのTシャツとジーンズより、きれいな服がほしくなるし、食堂でポーク卵を食べるより、カフェとかビストロに行きたくなる。
コンビニの中にもタウン誌、郷土食、泡盛はあるけれど、それ以外は東京と全く同じ空間ですから。
若い子にすれば、「タウン誌のネタとして郷土も扱うけど、いつまでも民謡とハードロックと泡盛ばかりでもないよな」という気持ちなんでしょう。
それは良くも悪くも、過去に対する大きな反動なんだと思います。






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メルメンさんへ (マリーナ号)
2010-08-12 23:58:04
 沖縄の特別視といえば、かっては「沖縄だから全部素晴らしい」って評価の仕方もありました。
 沖縄のミュージシャンも音楽も素晴らしい、沖縄産ならば例外なく全部素晴らしい、沖縄の音楽を評価しない奴は音楽がわかっていない、みたいな。これにサヨクの人々の沖縄贔屓(というかすり寄り)が入り混じり、おかしな支持者だらけで私は一時、沖縄の音楽に近付かないようにしていたものでした。
 そんな沖縄信仰の生き残ったものが、たとえば”黄金の花”みたいな歌礼賛に流れ込んでいるんでしょうけど。
 若い人たちの新しい動きには、むしろ期待したい気持ちはあるんですけどね。ただ結果として出てきた音がどうにもならん、ということで。
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少し脱線しますが。 (メルメン)
2010-08-13 13:42:20
政治も音楽も切り離せないという事で、少し脱線をお許し頂きますが、
サヨク文化人と呼ばれる人間にもいろいろいますが、永六輔や筑紫哲也あたりが沖縄の機嫌取りをして、マイノリティーを食い物にしているのは気分が悪くなりますよ。
その昔、沖縄を食い物にした本土企業を同じな訳で、沖縄人もこのようなエセ文化人に意見ができるようになってほしいものです。
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メルメンさんへ (マリーナ号)
2010-08-14 03:20:29
沖縄を食いものにするエセ文化人。サヨクばかりではなく昨今は島田紳助とか、ああいう連中も出てきました、臆面もなく。
 そしてそれをも受け入れてしまったり。沖縄の人たちは人がよすぎるんでしょうかねえ・・・
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県民性。 (メルメン)
2010-08-15 07:32:38
過去に沖縄ブームに対して異論を唱えようものなら、文化人からバッシングを受けるという風潮があったのと同じく、
今の沖縄においても、沖縄礼賛、沖縄の提灯を持つ本土の文化人、タレントに対して意見はできない雰囲気があると同時に、
県民気質的に「沖縄を賛美する人間イコール沖縄の味方」であるという考え方が強いと思う。
それは決して郷土愛ではないのだが…。
ベトナムの政治家、ヴォ・ドング・ジャングのこんな言葉がある。
「敵に批判されても別段恐れる事はない。賞賛された時こそ用心せよ」





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メルメンさんへ (マリーナ号)
2010-08-16 04:18:51
そうかあ・・・
なんか、安っぽい女たらしにとっては非常に騙し易い女、みたいな性格かもしれませんねえ、それは・・・
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経済。 (メルメン)
2010-08-16 12:31:46
 さらに言うならば、沖縄の中で事あるごとに「独立論」がお題に上るが、やはり経済的、産業的な地盤が弱すぎるのが最大の弱点。
もし沖縄が何かの拠点になるならば、沖縄人自体の発想と自信が変わってくる。
サービス業にしても、いつまで続くやら分からない業種が多く、小さな規模での連鎖倒産は日常的に起きていると思う。
そういう流れで、沖縄礼賛をする三流タレントを礼賛する、という媚びた姿勢にならざるを得なくなってしまう。
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