南斗屋のブログ

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文政11年2月上旬・色川三中「家事志」

2023年02月10日 | 色川三中
文政11年2月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年2月1日(朔)(1828年)
辛未 雨
#色川三中 #家事志
(コメント)本日は天気だけの日記の記載です。ここのところ書いていない日も多かったので、天気が書けただけでもやる気がでたのかもしれません。このあと日記は連日書き継がれます。

文政11年2月2日(1828年)
夜、伊勢屋のいせ太が来る。伊勢屋の身上(財産)について大いに話した。いせ太が帰ったのは九つ時(午前0時)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
伊勢屋さんとは親しくお付き合いをしています。1月下旬には伊勢屋で元服した者を書き留めていますした。今日は、夜になってから伊勢屋の財産について議論となり、真夜中まであれこれと話しをしたようです。



文政11年2月3日(1828年)癸酉 風
今日は霊社十三回忌。御神酒及び茶飯をお供えした(茶飯は、かわらけで洗米して炊いたもの)。高松大和守を呼び、祝詞をあげてもらった。以後は、忌にあたるごとに家内中仕事を休むこととする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
十三回忌の記事ですが、仏式ではなく神式です。国学の影響でしょう。三中は国学にはだいぶ入れこんでいたことがわかります。


文政11年2月4日(1828年)
大町金兵衛殿との件は、大変難しい交渉であったが、本日内済(示談)となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
内済というのは、示談のことです。江戸時代は内済と言っていました。大町金兵衛殿との件は、ようやく示談ができ、一息ついた三中でした。


文政11年2月5日(1828年) 晴
高津(土浦市)の名主の世話人方へ、与市を遣わした。金二朱を用意したが、それでは話しがつかず与市は戻ってきた。昼過ぎ、名主の世話人方から人が来て、再考してほしいというので、金百疋を上乗せして話合いに応じた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は先月18日に下総(千葉県)から土浦に戻ってきてくれました(1月24日条)。本日は高津の集落との交渉で、早速活躍しています。与市を交渉に向かわせていますから、一筋縄ではいかないようで、一旦は話合いを打ち切って戻ってきています。



文政11年2月6日(1828年)
利兵衛戻る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
利兵衛は色川三中の叔父。事業に失敗したのか破産となり、現在は三中の事業を手伝っています。その利兵衛が「戻った」というだけの記事。どこから戻って何をしていたのか書いていません。三中の日記にはこういう唐突な記事が多く、コメントを書きづらいことこの上なしです。

文政11年2月7日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月8日(1828年)曇
町内のもめごとが内済(示談)となった。今後はもろもろの勘定を行うにあたっては、高持百姓と小前百姓が一人ずつ立ち会うことが決まったとの町からお触れがあった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の記事の内済(示談)は、三中自身は関与しておらず、町からのお触れを書き留めたもののようです。高持百姓は本百姓ともいい、年貢付きの田畑を持って、持高相当の年貢、諸役を勤める中堅の百姓のこと。小前百姓はそれ以下の百姓。身分制下の対立が激しくなってきていることが窺えます。

文政11年2月9日(1828年)
(編集より)色川三中先生、本日は休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年2月10日(1828年)
夜、日向亮元の母親が危篤との連絡。江戸にいる日向亮元や水海道に住む関係者に飛脚で知らせる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「日向」は医師である日向亮元のこと。その母親が危篤。日向亮元は江戸にいるので、飛脚を使って急報を知らせます。三中は日向亮元が一人前の医師になるように骨を折っており、身内のような心配ぶりです。


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