色川三中「家事志」文政10年閏6月中旬
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
1827年閏6月11日(文政10年)
病、少々落ち着く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日三中自身も発熱してしまいましたが、すぐに落ち着きました。しかし、なかなかよくならないのです。三中が外出できるのは、閏6月27日まで待たなければなりません。
1827年閏6月12日(文政10年)その1
病の為、胸肋痛甚し。川口隠居(祖父)も風邪でよくない。水海道の秋葉可明老(医師)に往診を頼むべく店の吉兵衛を遣わす。木之下庄右衛門殿(惣代)の一人娘さわが、本日亡くなる。
#色川三中 #家事志
1827年閏6月12日(文政10年)その2
このような病人の多いことは、たとえようがない。風邪が流行し、暑邪難病が競って起こる。至るところ大病人。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・感染症の大流行です。「風邪の流行」と書いていますが、おそらく津軽風邪もいわれるインフルエンザ。
・さわさんが亡くなってしまいました。三中と同年(26歳)。閏6月2日条で、産後に病気となり重態との連絡があったと記されていました。それから10日での最悪の結末。感染症に対応する医療システムがありませんから、弱者に病が襲いかかリます。
1827年閏6月13日(文政10年)
木ノ下の一人娘(さわ)の葬儀。店に人がいれば十人講の外に手伝い人を出すのだが、人がいない。水海道に行っていた吉兵衛が帰ってきたので、天蓋持ちのために行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日亡くなってしまったさわさん(三中と同年齢の26歳)。本日はその葬儀。三中自身、発熱していますので、人を遣わすことしかできませんが、人のやりくりも大変。水海道の医師を呼びに行っていた吉兵衛が帰ってきてくれたので、なんとかやりくりをつけられました。
1827年閏6月14日(文政10年)
秋葉可明様(医師)が本日往診に来られた。前と同じく小陥胸(漢方薬の名前)を処方していただいた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
秋葉医師が水海道(茨城県常総市)から 往診に来てくれました。12日に呼びに行かせたので、医師が来るまでに2日かかってます。三中は胸肋痛があったので、それに効く小陥胸(漢方薬)が処方されました。仕事柄(薬種商)、薬の名前はきちんと書き残しています。
水海道と土浦の位置関係
1827年閏6月15日(文政10年)
・快晴、炎暑、立秋。夕刻より甚だ冷気、にわかに秋風が立つ。
・今日まで天王様。閏6月の先例で前殿まで出輿。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「天王様」は土浦市真鍋にある八坂神社を差します。応永年間(1394~1428)に現在の真鍋の地に鎮座されたと伝えられ、江戸時代までは牛頭天王社(俗に天王様)と呼ばれ、土浦城の鎮守として城主土屋家の崇敬を受けていました。
1827年閏6月16日(文政10年)
風邪で引きこもる。叔父も昨夜からまた具合が良くない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の症状は一進一退。「風邪」と書いていますから、今のインフルエンザでしょう。叔父も同じ感染症と思われます。
1827年閏6月17日(文政10年)
昨日、隣の主人(横田権右衛門)が来て、新宅(色川惣三郎)の畑のことについて話す。この畑、叔父が勝手次第で荒らし放題にしてしまったのである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
トラブルの解決のために、病の中でも友人と協議を続ける三中です。新宅の畑の件というのは、縁戚関係での土地トラブルであり、長期化している問題です。
1827年閏6月18日(文政10年)
(三中殿は本日日記を書いておりません。体調がお悪いのではとお察し致します。)
#色川三中 #家事志
1827年閏6月19日(文政10年)
先月23日の大雨から今日に至るまで30日ほど雨が降っていない。炎熱で堪え難い。風邪の流行により引き続き諸病多し。町でも地方でも病人が多く、これほどのことは今までに覚えがない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今月15日の日記に、「立秋。夕刻より甚だ冷気、にわかに秋風が立つ。」と書いていましましたが、やはり炎暑が続いています。あちこちで病人が増え続けており、未曾有の事態です。
1827年閏6月20日(文政10年)
間原らが金子50両を作ってくれた。
間原は書付の案文を作成できないので、書付けの案文は私の方で作成した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が病気であっても、債務整理は進みます。知人が一時金を融通してくれる算段がつきました。病中ではありますが、三中が書付の案文を作成しています。