徳川慶喜の謹慎は解除せず・仮刑律的例 48の2
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(要旨)徳川慶喜の謹慎の解除は認めない
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【駿河府中藩からの伺い】
明治2年3月、 駿河府中藩主徳川家達の家来からの伺い
徳川慶喜公は昨年の春以来、深く恐れ入っており一室に謹慎しております。元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています。恐れ多いお願いではありますが、どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか。私たちとしてはこれが精一杯のお願いであり、どうかこの事情をお汲み取りいただき、許可していただけましたら、これほどありがたいことはありません。以上の件、何卒ご理解の上、お願い申し上げます。
【明治政府からの返答】
〈刑法官意見〉
この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます。
〈議参意見〉
刑法官の見込みのとおり、容易には採用致しかねる。
※議参とは、議政官の議定と参与のこと。
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(コメント)
徳川慶喜は、1868年(慶応4年・明治元年)江戸開城後に水戸・弘道館から宝台院に移り、静岡での謹慎が始まりました。
今回の伺いは明治2年(1869年)2月になされております。伺いによれば、「元々、慶喜公は気鬱の性格でありますが、この度のことで自然と鬱閉弱骸となるのではないか深く心配しています」とのことであり、体調を心配してのことで、謹慎の全部を解除せよというのではなく、
「どうか月に一度か二度だけでも、久能山の墓参などを許していただけないでしょうか」というお願いでした。
しかし、この時期は北海道で戊辰戦争が継続しており、明治政府からすれば、徳川慶喜の謹慎は一部解除であっても時期尚早であったようです。
刑法官の意見が、「この歎願は決して御採用になってはいけないと存じます」となっているのは、このような考え方が背景にあるのでしょう。
徳川慶喜、謹慎が解かれたのは、戊辰戦争の終結(1869年(明治2年)5月)からも4ヶ月もあとの、同年9月のことでした。
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刑法官 けいほうかん
明治初期の司法権を担当した政府機関。1868年(明治元)閏4月の政体書発布にともない京都に設置された。同年10月の東京移転までに捕亡(ほぼう)・鞫獄(きくごく)・監察の3司を備えたが,民事裁判は民部省が管轄したままで,刑事裁判についても各府藩県の裁判所に対し刑の適用の大枠を示す程度の機能をはたすにすぎなかった。翌69年5月には監察司が独立して弾正台となり,7月刑法官は司法省の前身にあたる刑部(ぎょうぶ)省へと改組された。
(山川 日本史小辞典 改訂新版)
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