「道徳」正式教科に
~無理で無用な試み~
1 山下智久書類送検
元newsの山Pこと山下智久が書類送検された。ここんとこニュースでは小さく、ネットでは大きく報道された。22日に謝罪している。興味をそそった。山下が悪いのではないのだろう。有名人への一般人からの手ひどい扱いは、しばしば世の中の叱責(しっせき)や、慰みを生んできた。最近では、ふなっシーが数々の狼藉(ろうぜき)を受けている。また、名優である私の教え子は、街で買い物をしていたら、一緒にいた我が子を動画撮影された。しばしばあることらしい。もちろんことわりもなく、だ。子どもを撮るのはやめてくださいと頼んだそうだが、頼む時声が入るのでためらったという。まことに腹立たしいことが罷(まか)り通っている。
今回の事件、ご存じかと思うが、夜の六本木路上で、両方ともグループだった。話しかけられた山下側。だんだんこじれ小競り合いとなる。それを向こう側の女が動画撮影しようとした。山下はその携帯を取り上げて逃走したのである。その場で壊(こわ)さなかった。傷もなくもどり、示談も成立だそうだ。動画は削除したのかどうか。腹にすえかねたのだろう、とは私が思ったことだ。
写真は力のないものばかりでなく、力のあるものにも有効な手段だ。それは必要とされる時、証拠となる。しかしそうでない時は必要ないものだ。ケンカだったら、一般的に言ってどっちもどっちで、写真なんか出る幕ではない。しかし今、携帯で動画/写真を撮ることが、まったく違った意味合いを持っている。まったく私的なことであっても世の中にばらまかれる。この場合、山下側の暴力が限度を越えていたというなら話は別だ。でも、一方的に暴力をふるったらもうおしまい、の業界だ。その点から山下側はもうハンディを負っていると考えていい。
この撮影行為は、芸能人が興奮してるぜ、みんなに見せよう、動画アクセスでランクインだ、などというえげつない下心があることは見えている。暗闇でかざされるスマホかタブレットか、照明が煌々(こうこう)と、そしていかがわしく光る。
この件は、今回(21日)中教審が出した「道徳の正式教科」の思惑(おもわく)が無意味であることを示している。
2 大人の手が届かない場所
私個人で言えば、私は道徳の授業を率先(そっせん)した方である。変な言い方だが、別な授業やクラスの時間にあてる担任が多いという学校の実情である。「道徳」という名前に威圧感はあるが、子どもたちが「友だち」や「人生」、「平和」「国」について授業で話すことはまずない。だから面白い。ちなみに、
「友だちがメール依存。どうする」
みたいのは間違いなく面白い。みんながどんな感じ方や考えをするのか、今どきの子どもだからこそ、それを知らない。だから面白いのだ。
さて先日、子どもの味覚障害が30%なる報告(東京医科歯科大学)がされた。子どもの三人にひとりが、味が分からない(味わっていない)というおぞましい結果だ。この結果が「甘い」「辛い」ということはもとより、子どもたちが「おいしい」場所から遠くにいることを示している。
「おいしい」を形成する要因に、
① 共感する場所を持つ→食べる相手を持つ
② 確認できる場所がある→食べやすい環境
③ 専念できる時がある→食べることだけ出来る
などがあげられていい。だが子どもたちはコンビニの店頭やひとりのダイニングで、携帯の画面を見ながら「食事」をする。「おいしい」はずがない。ただし三人にひとりだ。それはやっぱり「多い」。これを私は「置き去りにされた子どもたち」と言っている。それではいけない、と言われないといけないのは、当然子どもたちではない。子どもたちにそれは直しなさい、と言っても無駄だ。そんなものは通じない。
私たちの身近な「味」という存在が、こんなに遠い存在となっている。方や山Pの例に沿って言えば、普段はメディアで見かけるだけの存在だというのに、今やすれ違う機会があれば、まるで知人であるかのようにすり寄っていく人々が数多い。「遠い存在」を遠いとも思わない現象が発生している。私たちはこのことを「自我の拡散(かくさん)」と言ってきた。「自我の拡張(かくちょう)」とも思いかねないこの出来事で、私たちは世界を手にしているわけではない。そんな勘違いだ。気がつけば私たちは、動画サイトに目新しいシーンを探し、ツィッターのその後を確認している。ボンヤリすることなどいつの時代のことだと思って愕然(がくぜん)とする。頬杖(ほおづえ)をつくなど、恥ずかしいと思う人さえいるに違いない。これが現在の私たちの場所である。
先日の文科省いじめ調査結果(16日)に対して、
「子どもたちが大人の手の届かない場所にいる」
とこぼしているのは、調査を担当した関係者や現場からの声である。それはネットでの出来事をさしている。子どもたちがそこに侵入(しんにゅう)し拡散していくのを、どうにも止められないと言っている。
ひるがえってみれば、子どもたちはもともと彼らの場所を持っていた。それが「秘密基地」であり、「かくれんぼ」だった。空き地がなくなっても、子どもたちは「代替地」をどこかで都合した。しかし、昔の「子どもの場所」というものは、やはり「子ども」の場所だった。だから、必要な時は原っぱまで探しに行けば、親はなんとか我が子にたどり着いたし、夕方になれば子どもは自分で家路についた。これがとてつもない変貌をとげた。探すといって、親はどこを探せばいいのか見当もつかない場所に子どもが行ってしまったのだ。例えば、いつの間に自分の娘が、親と同じパソコンからいい年のオヤジとコンタクトを取っていた。それが堂々の昼間の出来事だったりする。まあこういう行為は、ネット上のパトロールで一定対処可能となっているものの、ことは個人間のlineとなると対処不能状態である。
3 「今、ご飯中ですよ」
取り返しのつかない現実を前に、中教審が動いたのだ。「なんの足しにもならないと思うが」というただし書きでもあったら救いはある。しかし、相も変わらぬ「生きる力」を前面に立てたいい方は、どうにか出来るとでもお思いのようだ。教科書「私たちの道徳」が教室に置きっぱなしにされていると指摘し、まじめに通達まで出した。肝心の教科用教科書が机の中でぐっすり眠っているというのに、今さら副教材で驚いている。一体、子どもが家に教科書を持ち帰らなくなって、どれくらいの年月が過ぎただろう。
そしてこれも良くないのは、反論する側もまったく変わっていないことだ。「郷土愛を愛国に結びつける」「特定の価値観を国が強要」など。子どもの現実からかけ離れた中教審の報告に対しては「子どもの現実に即してない」との反論がされるべきなのだが、そうならない。要するに空中戦となっている。
答は結局、繰り返しとなるが、
「子どもが子どもらしく居られる場所」
をもう一度探し出すことでしか得られない。子どもは親や周囲の大人から、
「そうしてるのがいいよ」「そうしてはいけない」
「こうすればいい」「こうした方がいい」
と言われることで子どもでいられる。ある時それは命令/アドバイスで、ある時それは承認だ。大人の威厳(いげん)を取り戻したいのではない。その時その場で大切なことがなんなのか、大人は子どもより分かってないといけない。失った場所を「食う」「寝る」場所から考え直すことだ。それは「道徳」の「授業」では出来ない。
「今、ご飯中よ」
と親が言えなくてどうする。今ここで何が優先するのか、大人は子どもより分かっているはずだ。失った場所は「聞く」「話す」ことでしか見えて来ない。「道徳」の「授業」ではない。
「どうしたの」「良かったね」
と学校の先生が言えないはずがない。警察だ病院だと騒いでどうするのだ。
よく話してよく聞いて、私たちがそれでも子どもたちに憤(いきどお)りを感じるとしたら、それはきっと正しい行為だ。私たちはそれを「愛情」と呼んでいいのだ。
わずかずつだ。しかし、私たちは子どもたちの前に光をともせる。
☆☆
動画撮影と言えば、先日(13日)、経産省前の脱原発テントが、右翼と称する連中に破壊されたのはご存じと思います。あまり大きく報道されませんでしたが、テントの発行するブログ/メールによれば、テントメンバーは徹底的に非暴力で対応したと言います。でも、向こうは暴れる連中の他に、カメラを構える奴らも複数いたらしい。こちらが身体をはったら「証拠」にしようというのですね。卑劣なやつらです。右翼の風上にもおけません。
☆☆
我が家のストーブ設置、少しばかり延期になりました。まだ写真のような状態です。仲間の話によると、会津方面の仮設住宅でも設置されたタイプというので華奢(きゃしゃ)なものかと思ったら、けっこう立派でした。
脱原発を目指す仲間で、薪(まき)ストーブというのは、そこがポイントです。排煙のファンを回すため電気を使うのですが、その電源をバッテリーでまかなうというのが売りなんです。今はそのためのバッテリーリサイクル専門の会社もあるそうです。今年の冬が楽しみです。
~無理で無用な試み~
1 山下智久書類送検
元newsの山Pこと山下智久が書類送検された。ここんとこニュースでは小さく、ネットでは大きく報道された。22日に謝罪している。興味をそそった。山下が悪いのではないのだろう。有名人への一般人からの手ひどい扱いは、しばしば世の中の叱責(しっせき)や、慰みを生んできた。最近では、ふなっシーが数々の狼藉(ろうぜき)を受けている。また、名優である私の教え子は、街で買い物をしていたら、一緒にいた我が子を動画撮影された。しばしばあることらしい。もちろんことわりもなく、だ。子どもを撮るのはやめてくださいと頼んだそうだが、頼む時声が入るのでためらったという。まことに腹立たしいことが罷(まか)り通っている。
今回の事件、ご存じかと思うが、夜の六本木路上で、両方ともグループだった。話しかけられた山下側。だんだんこじれ小競り合いとなる。それを向こう側の女が動画撮影しようとした。山下はその携帯を取り上げて逃走したのである。その場で壊(こわ)さなかった。傷もなくもどり、示談も成立だそうだ。動画は削除したのかどうか。腹にすえかねたのだろう、とは私が思ったことだ。
写真は力のないものばかりでなく、力のあるものにも有効な手段だ。それは必要とされる時、証拠となる。しかしそうでない時は必要ないものだ。ケンカだったら、一般的に言ってどっちもどっちで、写真なんか出る幕ではない。しかし今、携帯で動画/写真を撮ることが、まったく違った意味合いを持っている。まったく私的なことであっても世の中にばらまかれる。この場合、山下側の暴力が限度を越えていたというなら話は別だ。でも、一方的に暴力をふるったらもうおしまい、の業界だ。その点から山下側はもうハンディを負っていると考えていい。
この撮影行為は、芸能人が興奮してるぜ、みんなに見せよう、動画アクセスでランクインだ、などというえげつない下心があることは見えている。暗闇でかざされるスマホかタブレットか、照明が煌々(こうこう)と、そしていかがわしく光る。
この件は、今回(21日)中教審が出した「道徳の正式教科」の思惑(おもわく)が無意味であることを示している。
2 大人の手が届かない場所
私個人で言えば、私は道徳の授業を率先(そっせん)した方である。変な言い方だが、別な授業やクラスの時間にあてる担任が多いという学校の実情である。「道徳」という名前に威圧感はあるが、子どもたちが「友だち」や「人生」、「平和」「国」について授業で話すことはまずない。だから面白い。ちなみに、
「友だちがメール依存。どうする」
みたいのは間違いなく面白い。みんながどんな感じ方や考えをするのか、今どきの子どもだからこそ、それを知らない。だから面白いのだ。
さて先日、子どもの味覚障害が30%なる報告(東京医科歯科大学)がされた。子どもの三人にひとりが、味が分からない(味わっていない)というおぞましい結果だ。この結果が「甘い」「辛い」ということはもとより、子どもたちが「おいしい」場所から遠くにいることを示している。
「おいしい」を形成する要因に、
① 共感する場所を持つ→食べる相手を持つ
② 確認できる場所がある→食べやすい環境
③ 専念できる時がある→食べることだけ出来る
などがあげられていい。だが子どもたちはコンビニの店頭やひとりのダイニングで、携帯の画面を見ながら「食事」をする。「おいしい」はずがない。ただし三人にひとりだ。それはやっぱり「多い」。これを私は「置き去りにされた子どもたち」と言っている。それではいけない、と言われないといけないのは、当然子どもたちではない。子どもたちにそれは直しなさい、と言っても無駄だ。そんなものは通じない。
私たちの身近な「味」という存在が、こんなに遠い存在となっている。方や山Pの例に沿って言えば、普段はメディアで見かけるだけの存在だというのに、今やすれ違う機会があれば、まるで知人であるかのようにすり寄っていく人々が数多い。「遠い存在」を遠いとも思わない現象が発生している。私たちはこのことを「自我の拡散(かくさん)」と言ってきた。「自我の拡張(かくちょう)」とも思いかねないこの出来事で、私たちは世界を手にしているわけではない。そんな勘違いだ。気がつけば私たちは、動画サイトに目新しいシーンを探し、ツィッターのその後を確認している。ボンヤリすることなどいつの時代のことだと思って愕然(がくぜん)とする。頬杖(ほおづえ)をつくなど、恥ずかしいと思う人さえいるに違いない。これが現在の私たちの場所である。
先日の文科省いじめ調査結果(16日)に対して、
「子どもたちが大人の手の届かない場所にいる」
とこぼしているのは、調査を担当した関係者や現場からの声である。それはネットでの出来事をさしている。子どもたちがそこに侵入(しんにゅう)し拡散していくのを、どうにも止められないと言っている。
ひるがえってみれば、子どもたちはもともと彼らの場所を持っていた。それが「秘密基地」であり、「かくれんぼ」だった。空き地がなくなっても、子どもたちは「代替地」をどこかで都合した。しかし、昔の「子どもの場所」というものは、やはり「子ども」の場所だった。だから、必要な時は原っぱまで探しに行けば、親はなんとか我が子にたどり着いたし、夕方になれば子どもは自分で家路についた。これがとてつもない変貌をとげた。探すといって、親はどこを探せばいいのか見当もつかない場所に子どもが行ってしまったのだ。例えば、いつの間に自分の娘が、親と同じパソコンからいい年のオヤジとコンタクトを取っていた。それが堂々の昼間の出来事だったりする。まあこういう行為は、ネット上のパトロールで一定対処可能となっているものの、ことは個人間のlineとなると対処不能状態である。
3 「今、ご飯中ですよ」
取り返しのつかない現実を前に、中教審が動いたのだ。「なんの足しにもならないと思うが」というただし書きでもあったら救いはある。しかし、相も変わらぬ「生きる力」を前面に立てたいい方は、どうにか出来るとでもお思いのようだ。教科書「私たちの道徳」が教室に置きっぱなしにされていると指摘し、まじめに通達まで出した。肝心の教科用教科書が机の中でぐっすり眠っているというのに、今さら副教材で驚いている。一体、子どもが家に教科書を持ち帰らなくなって、どれくらいの年月が過ぎただろう。
そしてこれも良くないのは、反論する側もまったく変わっていないことだ。「郷土愛を愛国に結びつける」「特定の価値観を国が強要」など。子どもの現実からかけ離れた中教審の報告に対しては「子どもの現実に即してない」との反論がされるべきなのだが、そうならない。要するに空中戦となっている。
答は結局、繰り返しとなるが、
「子どもが子どもらしく居られる場所」
をもう一度探し出すことでしか得られない。子どもは親や周囲の大人から、
「そうしてるのがいいよ」「そうしてはいけない」
「こうすればいい」「こうした方がいい」
と言われることで子どもでいられる。ある時それは命令/アドバイスで、ある時それは承認だ。大人の威厳(いげん)を取り戻したいのではない。その時その場で大切なことがなんなのか、大人は子どもより分かってないといけない。失った場所を「食う」「寝る」場所から考え直すことだ。それは「道徳」の「授業」では出来ない。
「今、ご飯中よ」
と親が言えなくてどうする。今ここで何が優先するのか、大人は子どもより分かっているはずだ。失った場所は「聞く」「話す」ことでしか見えて来ない。「道徳」の「授業」ではない。
「どうしたの」「良かったね」
と学校の先生が言えないはずがない。警察だ病院だと騒いでどうするのだ。
よく話してよく聞いて、私たちがそれでも子どもたちに憤(いきどお)りを感じるとしたら、それはきっと正しい行為だ。私たちはそれを「愛情」と呼んでいいのだ。
わずかずつだ。しかし、私たちは子どもたちの前に光をともせる。
☆☆
動画撮影と言えば、先日(13日)、経産省前の脱原発テントが、右翼と称する連中に破壊されたのはご存じと思います。あまり大きく報道されませんでしたが、テントの発行するブログ/メールによれば、テントメンバーは徹底的に非暴力で対応したと言います。でも、向こうは暴れる連中の他に、カメラを構える奴らも複数いたらしい。こちらが身体をはったら「証拠」にしようというのですね。卑劣なやつらです。右翼の風上にもおけません。
☆☆
我が家のストーブ設置、少しばかり延期になりました。まだ写真のような状態です。仲間の話によると、会津方面の仮設住宅でも設置されたタイプというので華奢(きゃしゃ)なものかと思ったら、けっこう立派でした。
脱原発を目指す仲間で、薪(まき)ストーブというのは、そこがポイントです。排煙のファンを回すため電気を使うのですが、その電源をバッテリーでまかなうというのが売りなんです。今はそのためのバッテリーリサイクル専門の会社もあるそうです。今年の冬が楽しみです。
小学校の頃は道徳の授業をわざわざNHK教育TV時間に合わせ
そのあともClass内で、話し合いをしましたね。
先生が中学校教師転身後も、当授業を大切にしたい気持ちがよくわかります。
私は芸能人が覚醒剤で逮捕されても、別にどうってことない奴なので
Idolなんて尚更なのです。
その点先生は永年の経験からして、子供たちが何に関心を持つかが
定年退職なさっても、これまた大切にしておりますね。
「六本木」も懐かしい響きです。
その後お変わりありませんか?
今日から沖縄県知事選挙が、告示となりました。
現職を含め4人が、立候補しておりますが
本島北部にある辺野古埋め立て基地移転が、最大の争点になっております。
今回こちらのtitleは「空手の日」です。
ご存知10月25日に、制定されました。
先生のほうも、新刊を御出版するに当たって
ご参考にしていただけたらと思っております。
では最後になりましたが HAPPY BIRTHDAY !!
先生が11月1日で、御実母様が24日生まれ。
うちは父親が12月2日で、私が25日生まれ。
どっちも誕生日が23日違いで、同月生まれなのに星座が違う。
すなわち先生‘s 御実母様とうちの父親が、同じ射手座と言うことになります。
私なんかにしてみれば「琴寄先生‘s 暖房器具」なんて、想像がつきませんが
過去のBlogに御実母様の形見について、ご掲載されておりましたね。