実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信二百二号

2012-08-29 15:42:18 | エンターテインメント
 『往復書簡』(湊かなえ)を読む



 第三者委員会発足


 報道によれば、大津の越市長は、
「学校でなにがあったのかという事実の解明を一番の目的」
としたい旨のあいさつをした。第三者委員会の発足席上である(8月25日)。先だって殺されかけた教育長の、
「家庭にも問題があったんじゃないんですか」
という立場とは違っていると思えた。それにしても教育長、死ななくて良かった。こいつが死んだら、正義がこいつの方に行ってしまう。襲った若者の気持ちも分からないではないが、死んじまったらまずい。
 「死んではいけない」などと安直に訴えることが、どんなに無力で無責任なことかこの第三者委員会で明らかになることを願う。尾木ママさんよ、頼むぜ。さてしかし、事実が明らかにされることはは無惨なことでもあるはずだ。そんな酷いことがあって、それで被害者は究極の選択をする。例えば、あえて具体的に記述しないが、ネット・携帯を使ったいじめに我慢出来ず、とうとう同級生をカッターで殺してしまう女の子がいた。そんな事実ひとつとっても、「殺してはいけない」「死んではいけない」ことは分かり切ってるということだ。ひとつひとつが具体的・切実である。


 『告白』あるいは露悪

 さて、子どもや若者「が」どう思っているのか、また子どもや若者「を」どう感じているのかという点を、湊かなえは展開して見せる。その一点だけ湊かなえを支持する。湊は「死んではいけない」「殺してはいけない」、そんな愚かな繰り言を一掃する。そして湊は小説だから言える、小説でないと言えないんではないかという表現で書いて見せる。それは世相・世論を敵に回す勢いか、と思わせる。
「子どもは大人に虐げられていると思われがちですが、みんなのほとんどは、勉強してください、ご飯をたべてください、などと大人に頭を下げられながら大切に大切に育てられてきたのではないでしょうか」
「ひきこもりの原因は家庭にある。その理屈で考えると、直樹(息子)は絶対に『ひきこもり』ではありません」(以上『告白』より)
実に湊の主張がたくさん散りばめられている作品なのだ。大ヒットしたこの『告白』は映画化もされた(私は見ていないが)。主人公の悠子先生のようになりたい、生きたいと思う人はたくさんいたのだろうか。作中のこれらの言葉が一体どこに行くのか、湊は触れることなく作品を閉じる。この場合「そんな言葉の行方など、ミステリーなのですから」という弁明を言うとしたら、あまりに都合がいい。
 言っていいのかどうか、現実の言葉にしてしまっていいのかどうかという迷いを今の社会が捨ててしまったかのように見える。本当は違う。つい一、二年ほど前まで「仮面をつけて生きることに疲れ果てた」などという言葉が紙面に溢れていた。前も書いたが、仮面とは自分の個性の萌芽である。例えば子どもの「真似」がそうだ。居心地がよければその「まね=真似」は「まな=真名」となる。そんなことを繰り返して、子ども(人間)は、仮面(personaペルソナ)を個性(personalityパーソナリティ)としていく。「仮面をつけて生きることに疲れ果てた」のではない、今つけている仮面が、今は馴染めない・負担になっているだけだ。また、耳や目を覆うような言葉がネット上に溢れている。そこにあるのが現代社会の「本音」だとしょうもない警鐘を乱打するものがいる。しかし、そこにある「本音」とは、
「言いたいことが言えない」
「どうにでもなってしまえ、と思ったところでどうにも出来ない」
「暇つぶしといってこれぐらいしか思いつかない」
連中の胸の内の方だ。本当は「死ね」「クズ」と言いたいわけではない。また言うが、スケボの國母が全世界に向けて
「チッ、うっせえなぁ」
と言ったのとは違うのだ。ああいうのが本音という。
 その「もの言えない」連中の心を真っ向から湊は受け止めた、いや代弁している、かのように見える。もしかしたら同じ仲間なのだろうか、と疑っても見る。氷の魔女のような悠子先生を生んだのは、そしてそれを支持するのは、やはりこんなネット社会だと私には思えた。今の人間たち、社会はこんなにも堕落し、どうしようもない、ウソを偽ってもだめですよ、と人の暗部にどんどん踏み込んで暴き立てているように見える。「希望」という虚像にすがっていてはだめですよと、どうにも嫌な気分にさせてくれる。よく言う話だが、影は光がないと出来ないのだ。でも、世界は影(だけ)で出来ている、とそれを否定する人たちが出てきたのは、近代以降だったはずだ。こういうのを「露悪」と言うのだ。さもあらん、影ばかりを書く湊が『告白』で書けなかったことは、影を演出する光の当たる部分-「愛するものへのまなざし」である。救いようのないこの小説で唯一の救いであったのは、悠子先生の一人娘愛美だ。この娘を失った悲しみと憎しみが悠子先生を変身させた、という設定なのかも知れない。しかし、悠子先生からその深い悲しみが残念ながら窺えない。上っ面では語っているものの、なるほど悠子先生の激しい憎悪が理解出来ます、という娘への深い愛情がついに見当たらない。この部分があれば、復讐劇も納得、後味も悪くなかっただろう。しかし、それがないことによって「世の中はみんな悪い人ばかりがいる」作品となった。娘はそれを語るためのスケープゴートのようだ。


 『大鹿村騒動記』のように

 予め断るが、これは映画『北のカナリアたち』のダメだしをするためのものではない。私はこれが胸を温め、気持ちを鎮める映画であることを願っている。いや、信じている。
 さてそんなわけで、私は一抹の不安を抱えながら、同じ作家の『往復書簡』を読んだ。湊かなえの作品を二度と読まないと決めていた私があえて読もうとしたのは、前も書いたけれど、この作品が11月に封切られる『北の…』の原案になっていたからだ。
 本の帯には「驚きと感動に満ちた…ミステリ」とある。そうかハッピーエンドになるのなら安心して読んでいいのだ、と思いつつ読んだ。が、だめだった。確かにハッピーエンドではある。しかしそれは『告白』で見せた娘への愛情に似て、とってつけたようなものだった。読むものには、「そうなんだ、どっちかと思ってはいたけれどこっちだったのか」とまあ、淡々とした気持ちにさせるものだ。堰を切って溢れる感動、といったものとはほど遠い。
 そういった気持ちにさせる原因ははっきりしている。ミステリーにつきものの「登場人物が抱えている秘密、そしてそれにまつわるウソ」にリアリティがないことだ。秘密を隠すことのつらさが、ちっとも真実味を帯びていないことだ。「隠していてゴメン」ではいかにも軽すぎる、そのいきさつと内容。「二十年後の宿題」で、担任の先生が教え子に頼んだ動機と苦悩。それはいかにも脆弱ではないのか。
 ひとつ考えよう。2006年、福岡市の職員が泥酔運転で橋上の追突。会社員男性の子どもたち3人を死に追いやったという事故。2007年、この事故がきっかけとなり、道路交通法に「危険運転致死傷罪」が加えられる。この時、同乗していた妻が夫の制止を聞かずに何度も海に飛び込んで子どもたちを救おうとした。「究極の選択」的問題(クイズだ、こんなもの)で、これに似た設定がよくある。橋の上から、または岸辺から「誰か助けて!」と叫ぶのが女の役割というわけではないのだ。湊かなえは、さもありなんという答を携えてこの問題に回答する。しかし、本当はこんな「究極」の場面でも無限の回答を現実は持っていて、おそらくその場の選択は「自動的」とさえ言える不可避のものとなるはずだ。湊かなえの答は私に言わせれば、悪意に満ちている。巻末インタビューの吉永小百合みたいに、肯定的に考えることは私には不可能だった。
 振り回されているのは登場人物ではなく、読者だ。担任の先生が秘めた思いと、隠す行為の乖離を感じるのは私だけなのだろうか。先生、苦しかったでしょう、と子どもたちはみんな了解してしまう。ひとりをのぞいて。どうして初めに言ってくれなかったのですか、と誰も言わない。思うのは読者だけだ。言っても良かったこと、話しておいて良かったことがあちこちに点在している。なのに了解してしまう。「和解する」とはこんなに簡単なことなのだろうか。先生はその度小さなウソをついて生徒の心に入ろうとしている。その苦しみがまた軽い、あるいは読む側に伝わらない。また、このことで彼と彼女と二人の間に生じたであろう疑いとわだかまりはどのように解決されたのか、それは明らかにされないままエンディングとなるのだ。東野圭吾の作品は、むしろ逆だ。秘密が暴かれるのを恐れるのは犯人ばかりではない、読者・観るものさえそのことに恐れおののく。作者の優しさが、人を追い詰めることを嫌っているからだ。
 さて、これだけのケチをつけても私はこの映画を信じる。吉永小百合、柴田恭平、仲村トオル、また宮崎あおい、森山未来が演ずる映画だ。意地悪で軽い作品であるはずがない。そしてここでもほめちぎった南アルプスのふもと『大鹿村騒動記』を監督した阪本順治の映画だからだ。原田芳雄の遺作は「忘れられないけど、思い出したくもない女が帰って来た」温かい映画だった。
 『告白』も『往復書簡』も2011年より前の作品だ。しかし『北のカナリアたち』クランクインは震災後なのだ。監督・スタッフ・キャストは、震災をくぐり抜けたものを送ってくれるに違いないと私は思っている。


 ☆☆
ホントに暑いですね。暑い時はカレーに限ります。カレーは本格派であろうが、ルーであろうがタマネギをしつこく炒めることがこつですね。昨日はゴーヤを入れてみました。いけてましたよ。

 ☆☆
夕方、ふと気がつくと我が家の郵便受けの上に猫チャンが寝てました。猫は涼しい場所・あったかい場所をみつける名人だそうです。涼しいのかな。おかげで一時間ほど外出の足止めをくらいました。