実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信六十九号

2011-08-21 18:42:47 | エンターテインメント
「取り返しのつかない時間(とき)」は今



 ファンというものは「自分だけが分かっている」という幸福な誤謬を冒し続ける、とは前号で書いたが、この傾向をもっとも偏執的に持っているのは村上春樹氏の読者(ファン)だという。私は村上春樹の評論やエッセイを何冊か読んだが、まじめに読んだ小説は多分『ノルウェイの森』だけである。それだけで「分かったような顔」ができないのは分かっているが、「私だけが知っている」ことを標榜する上で、うってつけの作品がある。『バースデイ・ガール』(村上春樹翻訳ライブラリー『バースデイ・ストーリーズ』より)である。
 この作品、実は中三の国語の教科書(教育出版)に全文掲載されている。私はこの教科書で三年生を二十クラスくらい教えている。だから二十回読んでいる。ってそんなバカなことはない。その二倍、いや五倍ぐらい読んでいるのではないだろうか。つまり百回くらい。
 しょうもない連中が、秋の研修会だかに来る。そうして「子どもたちには何度も読ませないとダメです」と、よく私たちに「指導」する。何度も読まないといけない生徒ほど読みたがらない現実に、なんの指針も示せないこの無能な連中は、どうせ現場にいた時にろくな仕事をしていない。そういう生徒の現実をどうお考えですか、と私はおうむ返しのように言うこの連中によく言ったものだ。それでこの連中の「我々は指導に行ったというのに、とんでもない扱いを受けた」という怒りをかって、私の(教育)委員会での評判をさらに悪くしたという。
 いくら仕事だと言っても、興味のない教材に取り組むのはなかなか至難の業である。それで私の場合、最悪の時は「そこを飛ばす」という方法もよくとった。魯迅の『故郷』はいろいろな教材が消える中で、延々と教科書に残り続けているが、辛亥革命や袁世凱やという歴史的背景にまったく無知で無関心だったせいなのか、私にはさっぱり興味が持てず、「卒業近し」というこじつけで、私はよく魯迅を飛ばした。
 しかし、この『バースデー・ガール』は違っていた。ある「謎」が読者を惹きつけてやまないからだ。二十歳の誕生日に、飛び込みのシフトでレストランのバイトが入ってしまった女の子の話だ。このレストランの上階を住まいとする、従業員にとって「正体不明」のオーナーに、この女の子は夕食のチキンを持っていく。そして、そこで思いもかけずオーナーから「願い事」をかなえる、というプレゼントの提案を受ける。
 おそらく知的で、十二分に魅力的なこの女の子の「願い」を読者は知りたいと思う。意地悪なまでに「願い」を封じ込めたラストに、子どもたちは教科書に縛りつけられているかのようだ。
 おしゃれでしっとりとしていて、料理の蘊蓄もあるストーリーの小道具たちが、何度読んでも飽きさせない柱となっていて、この話を支えている。授業が終えても読み続けて悶々とする子どもたちを見て、私はやはりこの話、あるいは村上春樹、いいよなあ、と思ったものだ。
 私がこの「謎(願い)」が分かったのは、なんと私が退職する年だった。読む事百回に近づいた頃にようやく開眼した、ような気がする。ここでその答らしきことを披瀝すると、私が知っているだけでも五人、未だにこの「謎」で悶々としている成人・若者がいる。ので、やめとく。ちなみに、あの「指導書」とやらにはこの「答」は載っていたのだろうか。だとしたら許せない。この「答」を知ったものはみんな、それに触れないようにしようと思うはずだからだ。それを無神経にも軽々しく踏みにじることになるからだ。
 そのタブーを冒してあえてヒントめいたことを言えば、「願い」は問題ではない、そういうことだ。このことに気付けば、この作品はまた別な色彩を帯びてくる。「小さなため息」「バンパーにへこみのあるドイツ車」、あちこちに実はヒントはあった。そうして「失った時間(とき)の輝き」という、この作品のテーマが見えてくる。東京タワーが見える六本木のしゃれたレストラン、それは黄昏の色彩をいやが上にも帯びてくる。「取り返しのつかないもの」、私たちはそれを時間(とき)とともにそれを重ねる。
 
 私の好きな積水ハウスのCMがある。もう放映していないが、仕事を終えたサラリーマンのお父さんが、居酒屋の前で同僚の誘いを断っている場面でそれは始まる。そのお父さんは改札口でスーツのあちこちを探って慌てる。スーパーの商品売り場で携帯を手に笑う妻(母)と、空き地のサッカー練習を終えて帰り道につこうとしているまだ小さい息子、そして家の玄関前で道の向こう側を見つめ続ける柴犬。ラストは河原の土手をスーツ片手に歩くお父さんの姿。夕日がその姿を照らしている。一家団欒の幸せなショットに私は感慨を深くしてしまう。注意深く見れば、駅員のいない改札口でお父さんが探しているのはもちろん定期券などでなく、ICカード(スイカ)であり、息子やその仲間は見事にお揃いのサッカーチームのウェアだ。スーパーに店のオヤジやオカミさんがいるわけもない。見事に無人化・自動化し、成り上がった日本の姿が本当は見える。変わらずにあると思えたのは、暖簾の下がった居酒屋と、そこに誘っている仲間の顔。おずおずとした過去への郷愁、そんなCMに思えていとおしい。
 対称的と言っていいが、60年代のCMはそんなおずおずとしたためらいを全く見せない。例えば61年だったか、資生堂の口紅のCMは、4つつながった電話ボックスで話をする女たちがそれぞれ自分のカラーに染める(テレビのカラー時代の走りである)唇で、顔を演出する。自信たっぷりの女たちの横にボックスの「110番または119番に電話する時は…」という注意書きが見える。電話ボックスはスタジオのものでなく、実際のものを使っていたらしい。というのも、その電話の真新しさとおよそ釣り合わない瀬戸物製の「110番…」の注意書きは、実に使い込んでいるというか、年期を隠せない、年期を感じさせるものなのだ。使うものや使う人の新しさの勢いに、入れ物がついていっていない、というかそんな象徴性を感じさせる。
 少し風合いの変わったところで言えば、1995年日本公開の映画『フォレストガンプ』は、実に見事だった。足が不自由で「知能指数の低い」主人公は、ある日ホテルだった自分の家にEプレスリーを客として迎え、またその不自由な足が奇跡的に治り、大学時代のアメフトの優秀な成績をかわれてケネディ大統領と面会。兵役時代には、アフリカ系マイノリティをベトナム戦線で救い、私の記憶では帰国してのち、あのワシントンDCの反戦集会で昔の恋人に出会う、という実におあつらえ向きオンパレードの映画だ。カッコいいアメリカ・世界の平和に貢献し、身体障害、黒人差別をまで克服したアメリカ… この「失われたアメリカの夢(取り返しのつかない、と言ってもいい)」よ、もう一度というコンセプトのこの映画は、見かけはパワフルだが、哀愁に満ちた『一期一会』(知っていると思うが、この映画のサブタイトルである)なのだった。

 取り返しのつかない時間(とき)は、『バースディ・ガール』の上にどのような今後を用意しているのだろう。
 私たちは「現在(いま)」を生きる。積水ハウスのお父さんの「現在(いま)」が、悔いとともにあろうとも、それを踏みしめて生きたいと思う。


 ☆☆「被災地に行きました」という連絡や手紙をあちこちからいただいた。嬉しいです。テレビや写真では見えなかったことがやっぱり大切だ、ということが語られています。嬉しいです。

 ☆☆いわきにまた復帰します。ブログともどもよろしくお願いします。