楽天が勝った
楽天が勝った。テレビから遠くなった自分は、テレビでやったのかどうかも知らず、ネットで知った。「絶対に勝ちたい、勝たないといけない試合だ」と前から言っていたまーくんが先発し、勝利して再び言ったという言葉だ。「耐えて耐えて、闘いぬきましょう」とは言っても、あえて「頑張ろう」を言おうとしないように見える星野監督が、笑顔でスタンドの声援に応えている。
何故だろう。自分は被災地の現場で片づけをし、避難所で被災者の切実な声に耳を傾けてきたが、一度として胸がしめつけられるような思いをしことがない。なのに、こうしてまーくんの声を聞き、ファン(それは野球場や避難所でと様々だ)の喜びの声を聞いていると、胸にこみ上げるものを禁じえない。
仙台が被災し、球場が使えなくなった楽天イーグルスの選手たちは、当初「野球をするよりやらないといけないことがあるだろう」と、九州のキャンプ地で口々に言った。その後、開幕のスケジュール調整があった。パリーグはそれほど議論せずに「やるべきこと、やってはいけないこと」が確認されたように見える。セリーグの醜悪な動向・調整の中で、セリーグをも含んだ選手たちに「自分たちが出来ること」が認識されていったのではないだろうか。
そうなのだ。関西であちこち居候の生活をしながら、楽天は「今までどおり野球を続ける」気持ちを固め、しかし「今まで通りの生活をすることの困難さと大切さ」をどこのチームより感じていたはずだ。「絶対貯金をして仙台に帰るんや」と強く言った監督。北京のオリンピックで「火だるま状態」になった闘将は、仙台に降り立ち「監督、お帰りなさい」の声に、わずか反応しただけだ。笑顔で応える時ではない、今は耐える時なのだ、と言っているようにも思えた。
そうして、まーくんはインタビューに応え「これほど声援が力になったことはない。野球人としてこんなに幸せなことはない」と言った。そうか、この人たち(イーグルスと東北仙台の人たち)は同じ道を探して歩いている、そんなことを感じ、分かったように思って自分は感動しているのだ、そう思った。間違ってはいけない。「この人たち」である。「私たち」ではない。そういうけじめは必要だ。
「昭和の大合併」いわき
以下は『いわき市誕生の記録』(いわき市発行)と『いわき市誕生の軌跡 14市町村合併後の記録』(レポート)によっている。要約が過ぎた紹介となるが、抜粋しておく。
市町村合併のために広域都市建設促進協議会が立ち上がったのが1961年。そして結局、この合併はもめにもめて1966年10月に終了する。5市5町5村合わせた日本一広い面積を擁するいわきは、その広さゆえ産業的・経済的・風土的な大きさを抱えていた。広域広範囲でサービスを要求されるいわきはその点でも不安を指摘されていた。
最初から合併に難色を示していた市町村がいよいよ激しく対立したのは(1)合併後の新しい都市名(2)本庁舎の建設場所(3)仮庁舎の建設場所、の3点だった。名前をめぐって、各地区で「磐城平市」「小名浜市」「常磐市」「勿来市」と名乗りをあげる。とりわけ「常磐市」(今の湯本地区である)は、「名前と温泉は余所にはやらない」と強硬に主張。調停に入った県議会調停委員会は「仮庁舎は平地区に、本庁舎は懸案事項」として、最終的に撤収してしまう。
私はボランティア活動に従事していて、「勿来」や「小名浜」が同じ「いわき市」のもとにある、と感じたことがない。いわき市は一緒の立場で活動していない。ましてはそれらの地域を指導する立場にあってそうしていない。「ここ(って『いわき』の『平地区』のことか?)の活動は小名浜よりずっとましだ、小名浜はメチャメチャだ」という発言が出てくること自体摩訶不思議なことなのだ。
さて、昭和41年(1966)と平成12年の比較表を見てみよう。全体の人口は33万人から3万人増の36万人。しかし、40%増加を示した平地区以外は9地区が減少。田人村地区においては55%も減っている。そんな中での全体人口微増だ。
さらに職員数の増減を見てみると、水道部では発足当時と殆ど同じ。教育委員会はなんと減少。病院勤務の職員は昭和の間増えるが、平成に入って減少の一途をたどっている。
別な資料によれば、病院の閉院と各事業(病院事業もだ)の民間委託があちこちに見える。つまり、いわき市という巨大な市の誕生以来(1)ライフラインの整備(2)ニュータウン事業の発足等の陰で、(1)公的サービスの劣化(2)民間委託に伴う財源確保(増税)等があるということだ。広域・広領域でのサービスを行うためには、本庁・支所の連携したきめ細かい対応が必要とされるのに、行政は肥大化・複雑化しただけで、結果は生んでいないという。
私は、避難所や海岸沿いの瓦礫地域での声を思い出す。原発建屋が爆発した3月12日のあとのことを人々は声高に語った。
・あのことがあって、いわき市の人口は一時半分になったんだ。
・市長が真っ先に逃げたんだ(避難所の掲示板におびただしい抗議・悪口を見た)。
・ここ(いわき市)の断水は他県の水道部の人たちが修復してくれた。ここの水道の連中はみんな逃げたんだ。
・避難所に来てくれるお医者はみんな遠くの人だ。すぐそこにかかりつけの医者がいるんだがな。どこに行ったんだか、出てきやしねえ。
・国立病院の職員が半分逃げて、近所の人たちまで介護や食事の手伝いをしてなんとかやってきたんだ。
どうやら私(たち)の動きづらさは、一般的な「お役所的な壁」によるものばかりでないようだ。いい人(職員)たちもいるのだが、指揮系統が不明瞭で、しかし、横に連携をとろうとすれば「それはまずい」とストップをかけてくる、そんな傾向は、「いわき市」の肥大化・複雑化した行政のしくみにもあるようだ。
楽天が勝った。テレビから遠くなった自分は、テレビでやったのかどうかも知らず、ネットで知った。「絶対に勝ちたい、勝たないといけない試合だ」と前から言っていたまーくんが先発し、勝利して再び言ったという言葉だ。「耐えて耐えて、闘いぬきましょう」とは言っても、あえて「頑張ろう」を言おうとしないように見える星野監督が、笑顔でスタンドの声援に応えている。
何故だろう。自分は被災地の現場で片づけをし、避難所で被災者の切実な声に耳を傾けてきたが、一度として胸がしめつけられるような思いをしことがない。なのに、こうしてまーくんの声を聞き、ファン(それは野球場や避難所でと様々だ)の喜びの声を聞いていると、胸にこみ上げるものを禁じえない。
仙台が被災し、球場が使えなくなった楽天イーグルスの選手たちは、当初「野球をするよりやらないといけないことがあるだろう」と、九州のキャンプ地で口々に言った。その後、開幕のスケジュール調整があった。パリーグはそれほど議論せずに「やるべきこと、やってはいけないこと」が確認されたように見える。セリーグの醜悪な動向・調整の中で、セリーグをも含んだ選手たちに「自分たちが出来ること」が認識されていったのではないだろうか。
そうなのだ。関西であちこち居候の生活をしながら、楽天は「今までどおり野球を続ける」気持ちを固め、しかし「今まで通りの生活をすることの困難さと大切さ」をどこのチームより感じていたはずだ。「絶対貯金をして仙台に帰るんや」と強く言った監督。北京のオリンピックで「火だるま状態」になった闘将は、仙台に降り立ち「監督、お帰りなさい」の声に、わずか反応しただけだ。笑顔で応える時ではない、今は耐える時なのだ、と言っているようにも思えた。
そうして、まーくんはインタビューに応え「これほど声援が力になったことはない。野球人としてこんなに幸せなことはない」と言った。そうか、この人たち(イーグルスと東北仙台の人たち)は同じ道を探して歩いている、そんなことを感じ、分かったように思って自分は感動しているのだ、そう思った。間違ってはいけない。「この人たち」である。「私たち」ではない。そういうけじめは必要だ。
「昭和の大合併」いわき
以下は『いわき市誕生の記録』(いわき市発行)と『いわき市誕生の軌跡 14市町村合併後の記録』(レポート)によっている。要約が過ぎた紹介となるが、抜粋しておく。
市町村合併のために広域都市建設促進協議会が立ち上がったのが1961年。そして結局、この合併はもめにもめて1966年10月に終了する。5市5町5村合わせた日本一広い面積を擁するいわきは、その広さゆえ産業的・経済的・風土的な大きさを抱えていた。広域広範囲でサービスを要求されるいわきはその点でも不安を指摘されていた。
最初から合併に難色を示していた市町村がいよいよ激しく対立したのは(1)合併後の新しい都市名(2)本庁舎の建設場所(3)仮庁舎の建設場所、の3点だった。名前をめぐって、各地区で「磐城平市」「小名浜市」「常磐市」「勿来市」と名乗りをあげる。とりわけ「常磐市」(今の湯本地区である)は、「名前と温泉は余所にはやらない」と強硬に主張。調停に入った県議会調停委員会は「仮庁舎は平地区に、本庁舎は懸案事項」として、最終的に撤収してしまう。
私はボランティア活動に従事していて、「勿来」や「小名浜」が同じ「いわき市」のもとにある、と感じたことがない。いわき市は一緒の立場で活動していない。ましてはそれらの地域を指導する立場にあってそうしていない。「ここ(って『いわき』の『平地区』のことか?)の活動は小名浜よりずっとましだ、小名浜はメチャメチャだ」という発言が出てくること自体摩訶不思議なことなのだ。
さて、昭和41年(1966)と平成12年の比較表を見てみよう。全体の人口は33万人から3万人増の36万人。しかし、40%増加を示した平地区以外は9地区が減少。田人村地区においては55%も減っている。そんな中での全体人口微増だ。
さらに職員数の増減を見てみると、水道部では発足当時と殆ど同じ。教育委員会はなんと減少。病院勤務の職員は昭和の間増えるが、平成に入って減少の一途をたどっている。
別な資料によれば、病院の閉院と各事業(病院事業もだ)の民間委託があちこちに見える。つまり、いわき市という巨大な市の誕生以来(1)ライフラインの整備(2)ニュータウン事業の発足等の陰で、(1)公的サービスの劣化(2)民間委託に伴う財源確保(増税)等があるということだ。広域・広領域でのサービスを行うためには、本庁・支所の連携したきめ細かい対応が必要とされるのに、行政は肥大化・複雑化しただけで、結果は生んでいないという。
私は、避難所や海岸沿いの瓦礫地域での声を思い出す。原発建屋が爆発した3月12日のあとのことを人々は声高に語った。
・あのことがあって、いわき市の人口は一時半分になったんだ。
・市長が真っ先に逃げたんだ(避難所の掲示板におびただしい抗議・悪口を見た)。
・ここ(いわき市)の断水は他県の水道部の人たちが修復してくれた。ここの水道の連中はみんな逃げたんだ。
・避難所に来てくれるお医者はみんな遠くの人だ。すぐそこにかかりつけの医者がいるんだがな。どこに行ったんだか、出てきやしねえ。
・国立病院の職員が半分逃げて、近所の人たちまで介護や食事の手伝いをしてなんとかやってきたんだ。
どうやら私(たち)の動きづらさは、一般的な「お役所的な壁」によるものばかりでないようだ。いい人(職員)たちもいるのだが、指揮系統が不明瞭で、しかし、横に連携をとろうとすれば「それはまずい」とストップをかけてくる、そんな傾向は、「いわき市」の肥大化・複雑化した行政のしくみにもあるようだ。