「やまゆり園」
~今という「居心地の悪さ」~
☆初めに☆
相模原の「やまゆり園」事件から一年。この事件についてまとまったことを書かないのか、といくつかの方面からお誘いを受けています。とりあえず、今は要点だけ述べます。
1 カッコいい話なのか
私に言わせれば、ニュースにあふれる意見や報告はすべて、
「上から目線」
に見えます。つまりこんな声。
「なんの罪もない人たちが」
「一生懸命生きていた人たちが」等々
私に言わせれば「殊更(ことさら)」な言い方です。障害者に限らず、今まで殺された人の99%が、きっと「なんの罪もない」「一生懸命生きていた」人たちです。
次に思うこと。この施設の周辺住民から聞こえる声に、施設の人たちとともに生き、ともに暮らしたと思えるものは皆無でした。私が気がつかなかっただけなのでしょうか。
「散歩している姿を見た」
「楽しそうだった」
声は、一緒に散歩し遊んだ人のものではなかった。施設と地域は、しっかり区切られていた。住民にとって、この事件は「かわいそうな」ものではあっても、「悲しい」事件ではないのです。遺族からの強い願いで、被害者の実名は伏せるという、異例の裁判が行われます。すべては複雑に絡(から)み合った現象であるのは疑いない。
容疑者には、なんらかの不満/不幸な事情があった。でないと人は殺しません。どんなに計画性があろうが、この事件のいきさつが語る容疑者の動機は、
「誰でも良かった」
です。職場から仕事から、そして周辺地域からも
「必要とされなかった」
ことが引き金になっていることは明らかです。
繰り返します。容疑者の言う、
「社会の役に立たない」「生きていてもしょうがない」
者とは、施設の入所者ではなく、容疑者自身であったことは言を待たない。世間から疎(うと)まれた容疑者が、世間から隔絶された場所で抱えた鬱屈を、どうすれば決着が付くと思ったのでしょうか。
容疑者と向き合い、ちゃんと話していけば、いわゆる「優生思想」が、いい加減なにわか作りのものだったことが明らかになる。私はそう思っています。そして、容疑者が育ててきた「憎悪」は、容疑者の負ってきた「傷」が根拠となっていることも明らかになる。私はそう思っています。
犯行計画/予告を、容疑者が衆議院議長に渡すという、私に言わせれば「アンバランス」な行為は、容疑者自身の「ためらいという名の確認行為」だったと思えて仕方がありません。
犯罪を犯すものは、生まれながらその遺伝子を持っているとかいう、いかがわしい「雑学」がはやっているようです。
「こういう信じられないことをするのは『キチガイ』だ」
なる考えこそ「優生思想」の肥やしになってきたことを、私たちは忘れてはならないのです。
2 ビューティフルライフ
「障害者に対して、一体どういうつもり!」
「オメエが障害者かよ!」
正確にはおぼつかないのですが、こういうやりとりだったか。2000年のテレビドラマ『ビューティフルライフ』(脚本・北川悦吏子)の一幕です。
難病に侵され、車椅子の生活をしている図書館の職員(常盤貴子)に、美容師(木村拓也)が言う場面。私の好きなシーンです。自然でイーブンで、オープンな関係が始まるのです。
対して、私が若かりし頃の話。養護学校義務化(1979年)に伴い、集会は参加ばかりでなく、企画もしました。その中で考えさせられたこと。
「普通学級の先生は楽でいいわね」
「普通の子どもを見てりゃいいんだから」
というお母さん(障害を持った子どものお母さんです)の発言です。
窮屈な社会では、窮屈な思想が育つんだなあ、と思ったことを覚えています。
☆後記☆
まあなんと言いますか、あの頃のキムタクは良かったなあ。俳優キムタクの演技にだまされたのでしょうか。それとも、あの頃は謙虚だったのでしょうか。もう顔も見たくないって。
今年の手賀沼の蓮、すごいことになってますよ。満開!
これは夏の陽を浴びている水面(みなも)。手賀大橋の上から。
☆ ☆
白鵬がいよいよ帰化して親方という話題、楽しみですね。モンゴルでも、白鵬の国籍変更は物議をかもして来ました。でも、お母さんの話では、障壁が低くなったことを感じさせます。あとは日本の親方衆の器量ですよ。白鵬が、いったいどれだけ大相撲に貢献して来たのか、そして支えているのか、肝に銘じた方がいいのです。
千秋楽での、
「白鵬はもう余裕がない。だからあんなにいろいろやる」
なる舞の海のコメントに、
「いやあ、余裕があるからあれだけいろいろな取り口をするんだよ」
と、速攻で反応。北の富士さん、舞の海を嫌いなんですねえ。
仲間だ。
☆ ☆
稲田辞めましたね。大切なこと、それは日報の組織的隠蔽や大臣の資質ではありません。南スーダンで何が起こっていたのか、本当は「戦地」だったはずの現実が明らかにならないといけない、そう思います。
柏近辺にお住まいの方々、あと二三日が見頃ですよ~
~今という「居心地の悪さ」~
☆初めに☆
相模原の「やまゆり園」事件から一年。この事件についてまとまったことを書かないのか、といくつかの方面からお誘いを受けています。とりあえず、今は要点だけ述べます。
1 カッコいい話なのか
私に言わせれば、ニュースにあふれる意見や報告はすべて、
「上から目線」
に見えます。つまりこんな声。
「なんの罪もない人たちが」
「一生懸命生きていた人たちが」等々
私に言わせれば「殊更(ことさら)」な言い方です。障害者に限らず、今まで殺された人の99%が、きっと「なんの罪もない」「一生懸命生きていた」人たちです。
次に思うこと。この施設の周辺住民から聞こえる声に、施設の人たちとともに生き、ともに暮らしたと思えるものは皆無でした。私が気がつかなかっただけなのでしょうか。
「散歩している姿を見た」
「楽しそうだった」
声は、一緒に散歩し遊んだ人のものではなかった。施設と地域は、しっかり区切られていた。住民にとって、この事件は「かわいそうな」ものではあっても、「悲しい」事件ではないのです。遺族からの強い願いで、被害者の実名は伏せるという、異例の裁判が行われます。すべては複雑に絡(から)み合った現象であるのは疑いない。
容疑者には、なんらかの不満/不幸な事情があった。でないと人は殺しません。どんなに計画性があろうが、この事件のいきさつが語る容疑者の動機は、
「誰でも良かった」
です。職場から仕事から、そして周辺地域からも
「必要とされなかった」
ことが引き金になっていることは明らかです。
繰り返します。容疑者の言う、
「社会の役に立たない」「生きていてもしょうがない」
者とは、施設の入所者ではなく、容疑者自身であったことは言を待たない。世間から疎(うと)まれた容疑者が、世間から隔絶された場所で抱えた鬱屈を、どうすれば決着が付くと思ったのでしょうか。
容疑者と向き合い、ちゃんと話していけば、いわゆる「優生思想」が、いい加減なにわか作りのものだったことが明らかになる。私はそう思っています。そして、容疑者が育ててきた「憎悪」は、容疑者の負ってきた「傷」が根拠となっていることも明らかになる。私はそう思っています。
犯行計画/予告を、容疑者が衆議院議長に渡すという、私に言わせれば「アンバランス」な行為は、容疑者自身の「ためらいという名の確認行為」だったと思えて仕方がありません。
犯罪を犯すものは、生まれながらその遺伝子を持っているとかいう、いかがわしい「雑学」がはやっているようです。
「こういう信じられないことをするのは『キチガイ』だ」
なる考えこそ「優生思想」の肥やしになってきたことを、私たちは忘れてはならないのです。
2 ビューティフルライフ
「障害者に対して、一体どういうつもり!」
「オメエが障害者かよ!」
正確にはおぼつかないのですが、こういうやりとりだったか。2000年のテレビドラマ『ビューティフルライフ』(脚本・北川悦吏子)の一幕です。
難病に侵され、車椅子の生活をしている図書館の職員(常盤貴子)に、美容師(木村拓也)が言う場面。私の好きなシーンです。自然でイーブンで、オープンな関係が始まるのです。
対して、私が若かりし頃の話。養護学校義務化(1979年)に伴い、集会は参加ばかりでなく、企画もしました。その中で考えさせられたこと。
「普通学級の先生は楽でいいわね」
「普通の子どもを見てりゃいいんだから」
というお母さん(障害を持った子どものお母さんです)の発言です。
窮屈な社会では、窮屈な思想が育つんだなあ、と思ったことを覚えています。
☆後記☆
まあなんと言いますか、あの頃のキムタクは良かったなあ。俳優キムタクの演技にだまされたのでしょうか。それとも、あの頃は謙虚だったのでしょうか。もう顔も見たくないって。
今年の手賀沼の蓮、すごいことになってますよ。満開!
これは夏の陽を浴びている水面(みなも)。手賀大橋の上から。
☆ ☆
白鵬がいよいよ帰化して親方という話題、楽しみですね。モンゴルでも、白鵬の国籍変更は物議をかもして来ました。でも、お母さんの話では、障壁が低くなったことを感じさせます。あとは日本の親方衆の器量ですよ。白鵬が、いったいどれだけ大相撲に貢献して来たのか、そして支えているのか、肝に銘じた方がいいのです。
千秋楽での、
「白鵬はもう余裕がない。だからあんなにいろいろやる」
なる舞の海のコメントに、
「いやあ、余裕があるからあれだけいろいろな取り口をするんだよ」
と、速攻で反応。北の富士さん、舞の海を嫌いなんですねえ。
仲間だ。
☆ ☆
稲田辞めましたね。大切なこと、それは日報の組織的隠蔽や大臣の資質ではありません。南スーダンで何が起こっていたのか、本当は「戦地」だったはずの現実が明らかにならないといけない、そう思います。
柏近辺にお住まいの方々、あと二三日が見頃ですよ~
軽薄なことが、両方の出来事に共通していることです。
ところで舞の海、相撲内容は措きまして、考え方が私もあまり好きではありません。以前、外国人の力士が増えていることに関して、排外的なことを言っていたからです。