市内陸上競技大会
~8年ぶりの同窓会~
☆クラス会報告を本文で書くのは初めて。理由はあります。☆
☆プロローグ☆
幹事のいつもの気配りのおかげで、「小学校!のクラス」&52歳という高齢に関わらず、今回も20人を越える参加でした。
集合写真。最前列の老人が私です。なにげに写ってる人も。
40年ぶりの顔見せ、文武両道、すべてにわたってトップに君臨した天才少女は、この日のために3キロの減量をしたという。6年生当時、全世界の首都を言い当てたこの「女史」、40年後にトルクメニスタン、タジキスタンの首都を問われ、
「あの頃は全部ソビエト(現ロシア)だったのよ」
と、相変わらずの堂々。
仙台在住のたまドンは、千葉のサンマ(魚ではなくあだ名)と仕事の取引先で、ある日遭遇。会議の後に、
「(会議で)サンマと言うな」
「そっちこそ、たまドンと言うな」
ともに不満をもらしつつも、お互い本名が定かでなかったとか。
テロの煽りでリストラを食らったもの。またあるものは、親の病気や介護。また、ウサギとの同居あれど、未だ女性との同居を経験せずという男は、方や夫に先立たれ、子どものない美人の同級生がいることを、まさにこの日認知し心揺れ、二次会で告白……ってないなぁ。
最近開いた40年前の卒業サイン帳。私からのメッセージを読んで、
「私、ちっとも変わってなくて」
と思ったという、そんな女子たちの間で交わされる、カロリー対策&サプリメントの数々。
五十路のキャリアや立ち位置が、宴会場に行き交う。
☆エピソード 1 「30年目の時効」☆
30年前の話だ。近所のそば屋さんでバイトをしていたやつの話。同じくバイトで来てたかわいい女子高生が、ある日店に、
「家まで出前を」
の電話。その家まで二人前のそばを持って行くと、出迎えたのは、その子と、満々と笑みをたたえた同級生の野郎。
狐につままれたような不愉快な気持ちのまま、同じシフトの日、店で彼女に尋ねた。
「あいつとはどういう関係?」
笑って彼女は、
「仲いいですよ」
と言った。
さあそんなわけで、52歳の仲間たちは大変だ。現在のそいつの奥さんは4歳年下。では高校生はいくつ年下だったんだ、猛烈な追求。
「彼女は昭和○○年生まれで……」
と、しどろもどろの言い訳に、
「変な言い方はいい! いくつ年下だと聞いてる!」
6つ、というそいつの回答に、飛び交う罵声。今なら52歳と46歳で人畜無害なるも、当時は22歳なら相手は16歳。許せん!
30年後の復讐に燃える、そば屋のバイト君は、
「金を払ったのはこいつでした」
と、犯人を指さすのだった。
☆エピソード 2 「仕方がなかった」☆
この話は、ここで初めてではない。二度目、いや三度目かも知れない。でも思い出すたび、私になにかを教える。
小学校で私の担当した陸上部は、6年生最後の大会を目前にしていた。ボール遠投の選手選考。ひとりは50mを楽々と超えていたので、決まっていた。いや、もうひとりも実績は40m後半というものの、練習姿勢申し分なく、私の中で決まっていた。しかし、秋の転校生で、陸上部に入ったやつの、
「お願いですから、一度投げさしてください」
という、執念とも思える申し出を受け入れた私、そして立ち会った部員は驚愕した。そいつは軽々と60m付近までボールを飛ばしたのだ。
二日間、迷ったあげくの選手変更。
「仕方がなかった」
そいつの2年間毎朝毎夕の努力を無にした。一体オレは何をやってるんだ。二日間、選手と決めていたそいつの表情を読み取ろうともした。何年かして、いや何十年たっても、そいつとなぜ話し合わなかったのかとか、話し合えば余計にそいつを苦しめたんではないかとか、大会での成績を、結局オレは選んだのだとか……。また、卒業間際の、
「選手発表の日、どうやって家までたどり着いたのか」
教えてくれたそいつの話。いつも同じ場所をぐるぐる回った。
つい最近のことである。苦い思いをしたそいつが言ったのだ。先生、あれで良かったんです、と。出してもらったら、きっと余計いやな思いをしたと言う。
(1)自分は成績が評価されて選ばれていない
(2)間違いなく、大会で結果を残せていない
(3)そのことを周囲が許しても、自分は我慢できない
(4)それらが、もっと屈辱をもたらしたと思う
というものだった。
三人目の選手で良かったんではないか、という宴会場の声に、いや、選手枠は二人だったと、そいつは即答した。覚えているのだ。そして、先生、とその声は続けた。
「あの時あの二人は、大会遠投部門でワンツーを獲ったんですよね」
覚えているのだった。
私はまた考える。
「仕方がなかった」
とはどういうことなのだろう。この場合、少なくとも私が言うセリフではなかった。
このケースは「良かった」という形を迎えた。このように積極的な変容がなければ、おそらく「仕方がなかった」ことは、いつまでもそのままだ。そしてそれは言い訳だ。
「仕方がなかった」
ことの答は、きっとなかなか見つからない。不幸を見舞った本人に、それを繕(つくろ)う幸福が訪れる時が「解決」の機会なのだろうか。しかし、時間のかかる作業だ。焦ってはいけない、でも諦めたらだめだぞ、とそんなことを思ったのだった。
宴会は3次会、明け方まで続いたという。「年寄りはお先に」と引き上げた私の心は、みんなの笑顔に囲まれていました。
☆☆
最後の運動会のことも話題に。大接戦の選抜学級対抗リレーでバトンを落としたやつも、やはりそのことを鮮明に覚えてました。不動産の会社を立ち上げたそうです。ここで問題です。この写真の中に、不動産関係者は何人いるでしょうか。
そしてありがたい、みんなからの贈り物。お酒は宮城の「浦霞」、そして千葉県流山のおかきです。
締めに、今の時期よく見られる手賀沼の風景です。
~8年ぶりの同窓会~
☆クラス会報告を本文で書くのは初めて。理由はあります。☆
☆プロローグ☆
幹事のいつもの気配りのおかげで、「小学校!のクラス」&52歳という高齢に関わらず、今回も20人を越える参加でした。
集合写真。最前列の老人が私です。なにげに写ってる人も。
40年ぶりの顔見せ、文武両道、すべてにわたってトップに君臨した天才少女は、この日のために3キロの減量をしたという。6年生当時、全世界の首都を言い当てたこの「女史」、40年後にトルクメニスタン、タジキスタンの首都を問われ、
「あの頃は全部ソビエト(現ロシア)だったのよ」
と、相変わらずの堂々。
仙台在住のたまドンは、千葉のサンマ(魚ではなくあだ名)と仕事の取引先で、ある日遭遇。会議の後に、
「(会議で)サンマと言うな」
「そっちこそ、たまドンと言うな」
ともに不満をもらしつつも、お互い本名が定かでなかったとか。
テロの煽りでリストラを食らったもの。またあるものは、親の病気や介護。また、ウサギとの同居あれど、未だ女性との同居を経験せずという男は、方や夫に先立たれ、子どものない美人の同級生がいることを、まさにこの日認知し心揺れ、二次会で告白……ってないなぁ。
最近開いた40年前の卒業サイン帳。私からのメッセージを読んで、
「私、ちっとも変わってなくて」
と思ったという、そんな女子たちの間で交わされる、カロリー対策&サプリメントの数々。
五十路のキャリアや立ち位置が、宴会場に行き交う。
☆エピソード 1 「30年目の時効」☆
30年前の話だ。近所のそば屋さんでバイトをしていたやつの話。同じくバイトで来てたかわいい女子高生が、ある日店に、
「家まで出前を」
の電話。その家まで二人前のそばを持って行くと、出迎えたのは、その子と、満々と笑みをたたえた同級生の野郎。
狐につままれたような不愉快な気持ちのまま、同じシフトの日、店で彼女に尋ねた。
「あいつとはどういう関係?」
笑って彼女は、
「仲いいですよ」
と言った。
さあそんなわけで、52歳の仲間たちは大変だ。現在のそいつの奥さんは4歳年下。では高校生はいくつ年下だったんだ、猛烈な追求。
「彼女は昭和○○年生まれで……」
と、しどろもどろの言い訳に、
「変な言い方はいい! いくつ年下だと聞いてる!」
6つ、というそいつの回答に、飛び交う罵声。今なら52歳と46歳で人畜無害なるも、当時は22歳なら相手は16歳。許せん!
30年後の復讐に燃える、そば屋のバイト君は、
「金を払ったのはこいつでした」
と、犯人を指さすのだった。
☆エピソード 2 「仕方がなかった」☆
この話は、ここで初めてではない。二度目、いや三度目かも知れない。でも思い出すたび、私になにかを教える。
小学校で私の担当した陸上部は、6年生最後の大会を目前にしていた。ボール遠投の選手選考。ひとりは50mを楽々と超えていたので、決まっていた。いや、もうひとりも実績は40m後半というものの、練習姿勢申し分なく、私の中で決まっていた。しかし、秋の転校生で、陸上部に入ったやつの、
「お願いですから、一度投げさしてください」
という、執念とも思える申し出を受け入れた私、そして立ち会った部員は驚愕した。そいつは軽々と60m付近までボールを飛ばしたのだ。
二日間、迷ったあげくの選手変更。
「仕方がなかった」
そいつの2年間毎朝毎夕の努力を無にした。一体オレは何をやってるんだ。二日間、選手と決めていたそいつの表情を読み取ろうともした。何年かして、いや何十年たっても、そいつとなぜ話し合わなかったのかとか、話し合えば余計にそいつを苦しめたんではないかとか、大会での成績を、結局オレは選んだのだとか……。また、卒業間際の、
「選手発表の日、どうやって家までたどり着いたのか」
教えてくれたそいつの話。いつも同じ場所をぐるぐる回った。
つい最近のことである。苦い思いをしたそいつが言ったのだ。先生、あれで良かったんです、と。出してもらったら、きっと余計いやな思いをしたと言う。
(1)自分は成績が評価されて選ばれていない
(2)間違いなく、大会で結果を残せていない
(3)そのことを周囲が許しても、自分は我慢できない
(4)それらが、もっと屈辱をもたらしたと思う
というものだった。
三人目の選手で良かったんではないか、という宴会場の声に、いや、選手枠は二人だったと、そいつは即答した。覚えているのだ。そして、先生、とその声は続けた。
「あの時あの二人は、大会遠投部門でワンツーを獲ったんですよね」
覚えているのだった。
私はまた考える。
「仕方がなかった」
とはどういうことなのだろう。この場合、少なくとも私が言うセリフではなかった。
このケースは「良かった」という形を迎えた。このように積極的な変容がなければ、おそらく「仕方がなかった」ことは、いつまでもそのままだ。そしてそれは言い訳だ。
「仕方がなかった」
ことの答は、きっとなかなか見つからない。不幸を見舞った本人に、それを繕(つくろ)う幸福が訪れる時が「解決」の機会なのだろうか。しかし、時間のかかる作業だ。焦ってはいけない、でも諦めたらだめだぞ、とそんなことを思ったのだった。
宴会は3次会、明け方まで続いたという。「年寄りはお先に」と引き上げた私の心は、みんなの笑顔に囲まれていました。
☆☆
最後の運動会のことも話題に。大接戦の選抜学級対抗リレーでバトンを落としたやつも、やはりそのことを鮮明に覚えてました。不動産の会社を立ち上げたそうです。ここで問題です。この写真の中に、不動産関係者は何人いるでしょうか。
そしてありがたい、みんなからの贈り物。お酒は宮城の「浦霞」、そして千葉県流山のおかきです。
締めに、今の時期よく見られる手賀沼の風景です。