実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『いつかは米俵百俵』 Ⅱ  実戦教師塾通信四百五号

2014-09-05 11:24:35 | 福島からの報告
 『いつかは米俵百俵』 その2
     ~教え子たち~


 1 変わる海岸

 よく被災場所保存の是非(ぜひ)が話題となる。忘れてはいけないとみんな思っても、それがつらいからだ。
 今回『いつかは…』のメンバーを海岸に案内するにあたって、やはり考えた。かつて無残(むざん)な姿を見せていた海岸一帯は今、もうほとんど名残(なごり)をとどめていない。私は案内する前、メンバーに「今はまるで『住宅の造成地』だ」と説明した。フェンスで囲われた一帯は、まったく立ち入りが出来なくなった。残っていた土台/基礎はすべて取り払われ、黒々と地面がのぞいている。
 これが二年前の写真だ。
      
      
 今度は、こう見えて昨年のものだ。
      
      
この大地の大きなうねりと裂(さ)け目は、今はすべて平坦(へいたん)にならされている。
 元の生活が取り戻されようとしているのは、いいことであるに違いない。しかし、こんなひどいことが起こったのだということを、みんなに見て欲しかった、と私は思う。より考えれば、私よりもっと早くここに足を運んだ人たちは、もっと早く来て見て欲しかったと思ったに違いない。そしてここに住んでいた人たちは、きっと自分たちのことを分かってもらえないと思っているのは間違いない。
 メンバーがお味噌を配った時のことを語った。

「ある人が、津波前の写真を見せて『どうして自分はここ(仮設住宅)にいるんだ
ろうって今も思う』って言ってました」

被災者自身が、いまだに何が起きたのかを捉(とら)えられないでいる。


 2 教え子たち
 団体『いつかは米俵百俵』とは、今はほとんどが私の教え子である。この私的な支援団体を立ち上げる時、私は自分の携帯アドレスから、協力して欲しい人を選んだ。ネットでやればすぐ集まるよ、と言ってくれる仲間もいた。しかし、古い読者は知っているが、私は福島入りした時から「顔の見える支援」をしてきたつもりだ。瓦礫(がれき)処理も、避難所回りもだ。それでこの時も、「不特定ではない」仲間に協力を頼んだ。
 応じてくれたのは半分以上が教え子だった。支援から抜ける人も多かったが、多くの教え子たちは支援を続けてくれた。そして新たに参入してくるのも、どこから聞いたやら、なぜか教え子たちだった。
 旅館「ふじ滝」でみんなが話した。
「福島にきた時と東京に帰った時。震災の頃と今。被災者の話を聞いた時とそのあと。その温度差をいつも感じる」
「震災をわすれてはいけないという思いでこの支援を続けてきた」
「忘れちゃいけないって改めて思った」
2020年東京オリンピック誘致(ゆうち)決定の興奮をテレビで見たおばちゃんたちが「あ、私たちは終わっちゃったんだ」という、その言葉を忘れられない。しかし、私たちは「根性(こんじょう)」で支援を続けているわけではないとも思う。まだ分からないでいるが、もっと別なものがあるはずだ、という気持ちは手放したくないと思うのだ。
「よく分からないままに味噌/醤油を送り続けて来た。リアリティのない気持ちと決着をつけたかった」「果たして『いつかは米俵百俵』なる団体は本当にあるのだろうか、と思うことさえあった」
この日この教え子はいわきまでやって来た。そして、リアリティと『いつかは米俵…』の存在を確認したのだ。私はこのたぐいのリアリティの行く先をたくさん見てきた。
「ホントに配ってんのか」
「ピンはねしてない?」
といった愚(ぐ)にもつかない言いがかりに、
「じゃあ、一緒に手伝って」
「信用できる機関を自分で探したら?」
といったバカバカしい応対を、私は実に数多くしてきた。そしてこういう奴らは、言うだけ言ったあと、ひどい時は一度も参加することなく姿を消した。
「支援てヤなことの方が多くありません?」
とは、前も紹介したがNPOの仲間が言っていたことだ。
 バカを言うバカは教え子にいなかったが、仲間とはどんなものかを、この支援活動は教えてくれたとも言える。
 私の話を聞いた教え子はみんな、
「ホントですか!」
と声をあげた。嬉しい。四年目の疲労がほどけていく。


 3 学級便り
      
 これが先生になりたての私が出していた学級便り『アゲイン』である。やたらに豪華な装(よそお)いをしているが、これは6年3組が卒業する前日の特別号だと思う。それにしては日付が3月24日だ。当時、こんなに卒業式が遅かったのだろうか。懐(なつ)かしい。絵も字も手書きだ。
 以下、いつもの私の学級便りふうに書いてみる。 

 あのあと、メールや手紙がオマエたちから届いた。
「今、着きました! いい経験になりました。いい思い出にもね! 先生、無理し過ぎないように!」
「本当はありがた迷惑なのかもしれないって……だから初めて仮設住宅のドアをノックするときは、かなりの勇気が必要だった。……でも、仮設住宅の人たちの笑顔は、私の不安だった気持ちをびっくりするくらい取り除いてくれたんだ! 本当に来て良かった」
「勇気を出して行って良かった」
「まずは体を休めてくださいね」

こういう便りが、何よりの薬だ。お味噌の数合わせや時間を気にして走り回ってばかりいたオレは、手伝ってもらっていながらまったく余裕(よゆう)がなかった。20人近い集団をリードするのは、瓦礫処理以来三年ぶりだった。何度ボールペンを見失ったというんだ。あいつにどうしてあそこであいさつしてもらわなかったんだろう。集会所で結局遠巻きでいたた若者たちやおばちゃんおじちゃんに、どうしてもっとサポート出来なかったんだろうなどという後悔が、こう見えてもあとからあとから来ていた。

 夕方、旅館「ふじ滝」のことで、以下もメール&手紙。
「もっともっと、みなさんと語り合いたかったです。また集まりたいですね」
「先生の教え子、年代問わず、仲良くできそうです」
「みんな先生を好きな人たちはいい方ばかりですね」
最後のは載(の)せるか迷った。教え子たち「みんないい」が嬉しい。あの時「このままここで泊まっていきたい」と言った奴もいた。また、二人の小さな子どものいる母親は、この日が「私の夏休み」だったらしく、解散予定の5時半をとっくに過ぎる8時を回っても舌はなめらかだった。こいつは、
「先生の前だからって、今までずっと遠慮してたのよ」
とはしっこのタバココーナーで堂々と煙を吐きながら、相変わらずの減らず口をたたくのだ。大体こいつは、牧場主さんのところで思いっきりやらかした(まあ悪いわけではなかったが)ことをすっかり忘れてる。車に近づくと自動的にロックが解除される車だったこいつは、車のそばで話を聞いてたものだから、バシャバシャとロックが閉まったり開いたりと、うるさいうるさい。
「うるさいよ」
と、オレに言われて助けられたはずだが、そこはこいつの鍛(きた)えぬかれた心臓。フン、と言って鍵を車に投げ入れるのだ。変わってねえよなあ、とオレは20年余りの時を飛び越える。
「『こんな父ですけど』……! 子どもだからこそ言えるこの言葉、良かったです。先生負けたね~」
この日ずっと影のようにサポートしてくれた娘は、「ふじ滝」ではずけずけとオレを言いまくった。言われっぱなしのオレだったのだが、
「お父さんが時間と労力を尽くして、色々な方たちと信頼を築(きず)いてきたことも、しっかり伝わってきたよ」
というメールが届く。ホッと大きなため息をつくオレだった。
「干物がおいしくて、家族(おみやげ)にも好評でした。食べてみないと分からないものですね!」
「仲村トオルさんとの写真を持ち歩いてます。かなりときめきました♡」
おっとこの二つ目、載せるかどうか迷ったぜ。どっかから「オメエラ何しにいわきまで行ったんだよ」ってチャチャがまた入るしねえ。まあ、外野は黙ってなさい。
「筋肉痛です~」
そっか~ この日は17人参加してくれた。でも17人が10個ずつだ。片手で5個ずつか。もうすぐ50路のメンバーにはきつかったようだ。

 帰りぎわ、姿が見えない「ふじ滝」の女将さんを探して手間取った。玄関に戻ると、スリッパが見事に並ぶ向こう側に、オマエたちも暗闇の中で並んでた。

 ありがとう、みんな。オレはもういつ死んでもいいよ。

とは、まだ思ってない。


 ☆☆
そのほか、不参加メンバーからもいろいろな連絡をもらいました。富岡町に実家を持つ教え子は、
「親戚には震災のことが聞きづらくて、まだ聞けないままでいます」
と残念しきりでした。また、
「俺は『いつかは米俵百俵』と『献血』にお金と身体を注いでいるから、ALSの寄付はまた今度。風呂で一人で水被(かぶ)ります」
と言えるようになりたいもんですという、悩める教え子。みんなありがとう。

さて「ふじ滝」での話は、そのほかに映画や子育て、恋愛と様々飛び交(か)いました。その中の昔話で、しまった、舌足らずだったな、と私が思ったことがあります。校内暴力をめぐるこの話には、とても大切なポイントがあったのです。次回?に書きたいと思います。

 ☆☆
最近だと思うんですが、脱原発のデモに日の丸が登場してるんですねえ。面白いなあ。可能性を感じますね。

 ☆☆
先月末、20歳の教え子が交通事故で亡くなりました。私の最後の教え子です。長野は車山のビーナスラインを同級生の3人と走っていた時です。バイクなんです。