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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百九十五号

2012-08-03 11:57:43 | エンターテインメント
 ロンドンオリンピック 1


 内村選手おめでとう!


 私たち1964年東京オリンピック世代が記憶に残る日本の選手の姿は、「東洋の魔女」と呼ばれた大松博文監督率いる女子バレーボールチームが象徴していた。今では当たり前の床で受け身をとりながら回転してレシーブする「回転レシーブ」は、この「魔女」の特許だ。猛特訓とペナルティも課した練習を繰り返したチームの試合は、決勝の対ソ連(今のロシア)戦でも忍者のような静けさで、得点して無言でうなずき合うだけの、今思えば気味悪いほどの重苦しさだった。相手方ソ連のミス(オーバーネット)で終わった瞬間、抱き合って泣き崩れる彼女たちの姿に私たちは感動していた。オリンピック期間限定で、近所の電気屋さんが貸してくれた中古のテレビで、我が家でもこの試合を観戦した。内職中の母も兄も、声をからし我を忘れる応援だった。ご近所の歓声が聞こえるその中継の視聴率は今も不動の80,3%だった。今なお存在し続ける「重圧からの解放」は、当時は比べようもなく大きかった気がする。ここのところ繰り返し流される東京オリンピックの映像を見ても分かる通り、開会式の入場行進は、当時極めて整然としていた。世界中の選手もそうだった。どっかのボランティアだか職員が、インドの選手団に紛れるなんていう「さばけた」雰囲気が当時は微塵もなかった。その中でも日本が送ったたくさんの選手団は、見事な行進をしていた。世界の晴れ舞台は「生易しいもの」ではなかった。
 あとで分かったことだが、この時メダルを量産した男子レスリングは、前回のオリンピックか大会か忘れたが、惨敗した選手の頭を剃りあげて雪辱を期したという。八田なんとかいう監督の『剃るぞ!』という本が後に出た。そして悲しい出来事として一番なのが、この時男子マラソンの銅メダルをとった円谷幸吉選手はこの何年かあと、体調を崩し「もう走れません」という遺書を残して自ら命を絶つ。この時の金メダルは「裸足の王者」として名高かったエチオペアのアベベだ。アベベはぶっちぎりでゴールした後、倒れこむどころかフィールド内でクールダウンを始めた。それが終わる頃に円谷が苦しそうな顔で競技場に入って来る。そして、そこを追い込んで来たイギリスのヒートリーに抜かれた。あの苦しそうな円谷の顔を、日本人の誰もが「幸吉はもう走れません」の遺書に重ねた。「重圧」というより「悲壮感」さえ見られた東京オリンピックだった気がする。
 10月10日開幕の東京オリンピックに向けて日本は押せ押せだった。首都高が8月に完成。9月に代々木体育館、同じく羽田-浜松町間をモノレールが開通。なんと10月に入ってから東海道新幹線が開業(1日)。また、最後の五輪会場である武道館が完成(3日)。思いっきり背伸びした当時の日本でもあった。新幹線の完成車両を広軌(広い幅を持ったレール)のあるところまで運んだのは、D51(汽車)なのだ! またこの年、都の銭湯組合は燃料費工面のため、ストライキをしている。飢餓感を充分に持っていた日本だ。だから日本の選手は、あの時は、はるかに「国の代表」であり「地元・地域の顔」だった。当時、選手たちのユニフォームにあるのは国を示すマークだけで、企業のロゴマークは皆無だ。
 さて、ローマの道を裸足で駆け抜けたアベベは、東京オリンピックでは「プーマ」の靴を履いていた。アベベの足をほぼ手中にしていたオニヅカは、この靴開発と入札でプーマに後れをとった。巨大産業としてスポーツが誕生し、グローバリズムの牽引役としてスポーツが台頭する。カールルイスかナイキか、のようにしか見えなかったのは私の偏見だろうか。私は選手の重圧の中に、スポンサーや指導者の影を疑わない。マラソンランナーで「国をあげて」育てられた選手がいた。彼女は「モノが違うよ」と小出監督に言わせた高橋尚子とは違っていた。結局高橋にははるか及ばなかったその彼女だったが、私には、
「一体オマエにいくらかかってると思ってんだよ」
という指導者(体制)の声が聞こえそうで、耳を塞ぎたくなる。
 「走る喜び、なんて感じたことないですよ、辛いだけです」と言ったのは、短距離界のかつてのエース伊東浩司だ。当時マラソンで復活した有森裕子が言った「走る喜び」を揶揄したものだ。限界の自分をさらに追い込むことのどこが面白いのだ、というインタビューだった。しかし高橋尚子は、自分を追い込むことでは共通しているが、その顔はいつも輝いていた。
「ホントは辛いんだよ」
なんて取り巻きのつまんないコメント、大きなお世話だから。
 そして内村航平は、ある時は「自分の限界を破る」という月並みなことも言うが、フジTVのインタビューだったか「限界という決め方をするのではなく、もっといろいろなことが出来る気がする」といった受け答えがとても秀逸だったと思う。内村という選手を育てるのに、さきほど取り上げた「経済」で考えると、どれくらいのものだったのだろう。おそらく相当「安上がり」だったのではないか。あそこまで超人だと、技の分析もこちらが依頼するどころか、向こうから勝手に最先端の技術で分析してくれる。おまけにその報酬まで得ている、のではないかという余計なかんぐりまでしてしまう。努力の人だとも言う。しかし「毎日1000本素振りをやればいいというものではない」と桑田が言う通り、適切な課題に向けた努力でなければ「なせばなる」スポ根で、身を持ち崩す道だけが待っている。内村は、内村にしか分からないものを内村自身が感知し、そこに向けた努力をしている。
 人間はこんなことが出来るのか、という驚きと感動を内村は日本のみならず、世界の人びとに与えている。影を引きずった押せ押せの1960年代日本とは違う、かつての勢いを転げそうな日本だ。その中で長崎は諫早出身の人間が、世界の注目と期待を一身に受けているというのは偶然なのだろうか。悲壮感など微塵もなく、うかつな「感動と希望を与えたい」なる言葉とも無縁な内村は、あくまで「好きで仕方がない」姿だけを世界やライバルに示している。今後も羨望と孤高の人でいて欲しいと願うばかりだ。
 おめでとう内村選手!


 ☆☆
柔道の松本薫選手に「もののけ姫」というネーミング(「週刊文春」?)、見事ですねえ。次回はロンドンの柔道で気がついたことを書いてみたいと思ってます。

 ☆☆
日本選手の活躍が、あちこちから「頑張るぞ」の声を生んでる気がします。昨日、遅ればせながらの感で「原子力規制委員会に脱原発のメンバーがいないのはどういうことだ」という意見が民主党内から相次いだといいます。それを内村選手の演技に触発された現象と思ったのは私だけでしょうか。

 ☆☆
山口県知事選、飯田哲也氏落ちましたね。残念。河村・名古屋市長は応援にかけつけたものの、維新の会かつてのブレイン飯田氏は、大阪市長・橋下氏の応援はいただけなかった様子。きっと「コスプレ騒動」で、応援はかえって逆効果と踏んだのですね。してみると、あの暴露は絶妙なタイミングでされたと見るべきでしょう。実にがっかりした思いですが、民主・自民・公明三党は飯田氏の得票結果に慄然としたといいます。さて、どうなのだろう。

 ☆☆
冒頭写真、ロンドンのスタジアムではありません。相馬野馬追の本祭場です。これで会場の4分の一くらいでしょうか。皆さんと夏の熱気で会場はフライパンのようでした。

『ハンドダウンキッチン』 実戦教師塾通信百七十号

2012-06-01 17:58:09 | エンターテインメント

 『ハンドダウンキッチン』を観る
       ~現在を「気持ちよく生きる」こと~


 
 『珈琲BEAN』


 以前よく行っていた南柏の喫茶店がつぶれた。駅東口の開発に伴い、あんなに賑わっていた西口の商店街は文字通りシャッター通りとなった。先日、そのつぶれた喫茶店をさらに線路沿いを行くと、新しい店が出来ているのに気付いた。ちょうどコーヒーの豆を切らしたところだったので、私はまるで昔の駄菓子屋のような風情の店『珈琲BEAN』のドアを開けた。
 焼きそばでも食べるようなテーブルと椅子の、そのひとつに腰掛けた歳の頃70にかかろうかという女の人は、私を見ると立ち上がって、いらっしゃいませと言った。豆をひいて欲しいんですが、と私が言うと、奥にいる旦那さんに尋ねている。老いた夫婦がちんまりとやっているらしいこの店は、これから豆をひくという。用足しがっあった私は、一時間もしたろうか、そのあとにこの店に寄った。香ばしい空気を道にまで漂わせて豆は待っていた。コーヒーを炒る釜は、道路のかぶりつきで働いていたのだ。
 いやぁせっかくこうして釜に火を入れたからね、こうやって別な豆も炒っているんだよ、そう旦那さんが言う傍らで奥さんがニコニコ笑って、お待たせしましたと言う。そして、少し食べてみますか、と旦那さんが私に目の前で炒っているコーヒー豆を差し出す。炒り立てだ、おいしいよと言う。食べられるんですか、という私に、食物(ショクモツ)ですから、と奥さんの勧められるまま、私は恐る恐るそれを口に入れる。
「コーヒーだ!」
バカみたいな言い方だが、温かい豆の殻を噛み砕くと、苦みとコクの中からほのかな甘味が口の中を流れてくる。それは新鮮な驚きだった。コーヒーでしょ?という優しい旦那さんの相槌が、そしてそれをまた、いい豆ですからね、と奥さんの言葉が追いかける。
 豆を慈しむようにしているこの夫婦の店へ、私は豆をまた買いに来ると思った。しかし、この店でコーヒーを飲もうとは思わなかった。二人の温かい空気は、店のたたずまいをすべて作り上げていて、そこに他人が入っていく余地がない気がした。「ご近所の憩いの場」としては最適なのかも知れないが…難しいものである。夫婦にとってこの店は近所のたまり場でいいのかも知れない。でもやはり、昼下がりか会社の帰りか、駅の近くのこの店にたまたま寄った客から「この店のコーヒーはおいしいですね」と、言われることをまた格別な喜びとしているに違いないと思えた。難しいものである。
 しかし、私はあの夫婦の笑顔が見られる豆屋さんにまた行くのだろう、それもまた確かなことなのだ。


 第三の道

 「田舎のめし屋が一番大変なんじゃないのかな」
ラストに近いところでシェフの父親勇次郎(江守徹)がそうつぶやく。いつも通り、そのセリフを私の勝手に解釈をすれば、自分なりという道は楽じゃない、ということだった。そんなに派手でなくともいい、しかし、妥協したくはない、そういうことは一体どこで折り合いがつくのだろう。
 「都会から遠く離れた山の麓にある…話題のフレンチレストラン」、その人気の秘密はどこに、というのがこの舞台『ハンドダウンキッチン』のテーマである。
「地に足のついた、軽くない、甘くない、中味の詰まった」
舞台です、是非観てください、とシェフで主役の誠(仲村トオル)は言った。これらを耳にした時、この舞台は私に勇気や力をくれる、そう思った。「小さな場所」と「華麗な場所」、そこでそれぞれ息づくものたちの切実な思いは、みんな行き場所を失っている。
 情けない政治のおかげで、よくポピュリズム(大衆迎合)という言葉を聞くようになっている。調理前に、お肉の繊維の向きと直角に包丁を入れるテクをご存知だろうか。言うに及ばず、そうすることによって繊維をつなぐ筋が切られ、食べる時に「柔らかい」からである。柔らかさをめぐって、様々な調理法やお店が、そして味わい方がと姦しい。確かに「柔らかさ(食感)も味のうち」ではある。恐らく初めのうちは違っていた。それまで食べていた肉にあった歯ごたえがない肉と出会った時の驚き、それは純粋だったはずだ。「これが肉1?」が「肉はこうでないと」に変わるには、しょうもない成り上がり根性が形成されるバブルという時期が必要だった。それから20年あまりが過ぎた。ちなみに欧米人からすると「柔らかい肉」への評はそれほど高くない。
「このレストランは最低だ! ここに来るテレビも雑誌も、ここにいる従業員も、ここで修行したいと言ってくる志願者もみんな、みんな最低だ!」
とシェフの誠が叫ぶ。椅子も鍋も飛ばす勢いで言う誠は、このレストランの下で修行したいとやってきた若き料理人(柄本ゆう)に、冒頭と違う激しさで迫る。
「どうしてここに来た!」
答えに窮する若者に、じゃあ言ってやる、と誠の口から次々と繰り出される言葉を、私たちは耳が痛い思いで聞くのだ。こんなことでいいのか、オレたちもオマエたちも、みんなみんなくだらない道へと突き進んでいるんだぞ、と誠は言っているかのようだ。
 しかし、誠もまたその道をゆくひとりだ。オレは店の借金を返し、店も大きくしたと誠は言い、父親もそれに感謝している。
「オレの料理ではこうは出来なかった」
と。フランス仕込みではあっても、新しさがないため流行らなかったと思っている父親。しかし、誠は今の状態を「最低のレストラン」と吐露した。
 では方や、信念に燃えた、あるいは「本来の」とかいうやり方はどうか。その愚直な姿勢は愚直なまま貫けばいい。愚直だからだ。その真剣勝負とやら、客である相手に押し付けた瞬間に愚直でなくなる。曰く、
「こっちは死ぬ気でやってるんだ。黙って食え!」だの「うちではうなぎと飯は分けて出すから。余所と違って乗せたりしないんだ。いやだったら帰ってくれ」
別に帰ってもいいんだが、怒ることはない。自分のやってることに自信があればこんなに怒ったり出来るものではない。曲がりなりにもこっちは注文する側の客だよ。そのお客に注文をつけるって世界は、間違いなく愚直ではない。
 どちらにせよ答えを見いだせず、身悶えする誠にスタッフたちは優しい。「オマエだってやめたがってるんじゃないのか」「この店をつぶすのは許さない」。二人のスタッフは、誠の中に残っている、引きずっている思いを見てきたからこそこう言える。それはそのまま誠の思いだ。きっと私たちもそんな思いでいつも生きている。
「もうこんな事続けるのやめようよ」
姉(YOU)がこう言うのは、インチキをやめようとか、金儲けはたくさんだとかいうことではない。結局、誠自身も逃れられない、持ち続けている(残している)気持ちがなんなのか、それを確かめないで店を続けるのはやめよう、そう言ってる。この舞台の場合、その鍵を握っているのは、父親と姉からわずかに、ほんとにわずかに口にされる死んでしまった「母」だと思われる。
「いつからこうなったのか」「どうしてこうなったのか」そして、
「これからどうなるのか」
姉と誠は初めて向き合う。姉とそして誠の中に「残り(残し)続けてきた」ものが何なのか、それを確かめるため向き合う。それを父親とスタッフが優しく見守る。
 そんなラストに私たちが向き合っている。
 良かったと思い、そして頑張るぞと思って向き合っている。
 拍手。カーテンコール。拍手。

 
 この公演、渋谷パルコは今月の3日(日)まで、そして5日福岡、9,10日が大阪、14日名古屋と続きます。是非観てください。これを読んでる福岡の方たち、お勧めですよ。



 太宰やバナナ

 公演終了後、主役と話す時間をいただけた。表現者としてのけじめなのだろう、この主役は意見や感想にあえて激しいリアクションをしない。しかし「いい俳優」という私の言い方は、この舞台の「いい味とは」「本格的な味とは」というテーマにも触れる。珍しく「それはあくまで『好みの俳優』ということであって、『いい俳優』というのとは…」とかぶりを振った、ような気がした。
 表現者の端くれである私は、
「自分はお客が喜ぶ料理を出したい。でも、それはあくまで自分の好みの味付けで」
という太宰治の言葉や、よしもとばななの
「電車に乗ったりして客を見ていると、あ、こういう話を書くと『売れる』と分かる」
という言葉を思い出す。
 この主役は、常に自分自身を監督の思い・考えに沿えるような「透明な」状態にしている。同時に、めまぐるしく移りゆく情報や時代の流れを引き受けながら自分の衣を変えている。と私は思っている。そして、その中から「滲み出て」くる自分を「待って」いるように見える。
 それは『いい俳優』とかいうことでなく、俳優にとって「楽しい」ことなのか、などと思いながら、帰りの電車はもうなくなろうとしていた。


 ☆☆
公演が終えてパルコのレストランを歩くと、
「ベンさんじゃないですか?」
と声をかけられました。懐かしい私のあだ名! ここは夜の渋谷のレストラン。なんという偶然。相手は下で映画を見たあとだという。このあだ名を言えるのは18~22歳までの年齢層。看護女子学校で研修中という、担任ではなかったけれど、授業は担当していた子でした。そしてこれも偶然ですが、この日の舞台の主役と同じ名前の子でした。
「気がついてくれてありがとう」と、まるで『奇ッ怪』(その1)に出てくるようなセリフを言ってしまいました。

 ☆☆
『いい俳優』についてはコメントしません。が、『いい先生』はいますね。「子どもを好きな先生」です。「オマエのためを思う」先生は『いい先生』ではありません。「オマエを好き」な先生を『いい先生』というのです。


バレンタイン 実戦教師塾通信百三十八号

2012-02-13 21:27:37 | エンターテインメント

 味噌とチョコ



 俳優の姿


 皆さんのご協力いただいた支援を、先日九日、団体『米俵百俵』としてやってまいりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 活動の経過を報告する前に、仲間であり教え子でもある仲村トオルについて書いておかないといけない。ナカムラ(以下呼び捨てで失礼します)ぐらいになると、様々な「雑用」はマネージャーや周辺がやる。今回の準備も「マネージャーがやったんでしょう」と、私の友人も言うのだ。当然のように。
 朝、私の宿「ふじ滝」にナカムラが着いたのは朝の10時30分だ。荷物(チョコ)を私の車に積み替える時ナカムラは、自分で数を数えて箱詰めしてきたから大丈夫です、と言った。事前に数量ばかりでなくチョコの大きさ、値段まで確認するという丹念な段取りもあった。値段は私の方から「気持ちをあげるということで、偏ったり華美になったり、ということは避けてほしい」と願い出たのだが、その再確認を自分でやったということだ。第一仮設で味噌とチョコを袋詰めする時に、この点は「大切なことなので」と皆さんに伝えた。ナカムラが自分の気持ちを送るという気持ちが嬉しかった。それが行き先の要所要所で出ているのに感心した次第だった。だから、私は八月の時もそうだったが、行き先にナカムラが出向いていくということを、いつも言う気がない。そんなことはナカムラにとって「どっちでも良かった」からだ。今回は特に「行きたいのですが」と連絡を受けたのが、二日前。第一仮設の自治会長さんには連絡したが、あとはぶっつけだった。来られる側からすればせっかくのチャンスなのに、ナカムラにも向こうにも悪いかなと思うこともあるが、やはり「どっちでもいい」かという方になる。
 第一仮設に行く前に、私は板さんたちの始めた「くさの根」を見て欲しいと思っていた。そして自立生活センターの理事長やパオのことも紹介したいと思っていた。結構なスケジュールだったのだ。中央台に着いた。この日私は、初めて自立生活センターの活動場所をお邪魔した。理事長が、そういうことなら是非来てほしい、みんなが喜ぶからと案内したのだ。以前も言ったが、ここは障害を持った人たちがその自立のため、技術を身につけるところだ。パオも自立センターも撮影やサインの興奮であったが、この日は味噌とチョコの配布がメインで、慌ただしく過ぎてしまった。色紙も有り合わせの上質紙だったり、パオの天井に直接施したりだった。でも、みんな「ラッキーな一日」と言ってくれたお昼だった。
 約束ギリギリの二時に第一仮設の集会所に着く。みんな今日のことを知らずにいたようだ。物資を袋詰めする手伝い要員の方が数名控えていた。私たち二人が到着すると少しあわてたようだ。ほどなくファンの方が駆けつけて来たという格好で、袋詰めは実に速やかに始まり、そして終了した。みんな女の人だ、ホントに女のひとばかりで、そして仕事が速い。
 これで、ここでの物資支援は二回目だが、協力してくれるメンバーの包みに気持ちを感じる。それこそ自分で段ボールを接ぎ合わせたもの、不揃いなサイズは前回もあったが今回は特大のサイズがあったり、自分で「白」と「合わせ」をパック詰めしたり、という方もいらした。そして、かわいいメッセージカードを添えてくださったりで、その都度、集会所の作業に「ありがたいね」の声が生まれる。大型サイズは「イベントに使いましょう」ということだった。
 配布の作業になった。前回は男の方が一緒に回ってくれたのだが、この日は女の方が一緒だった。この方はプレハブの入り口ばかりでなく、その内側の戸も開けて声をかけてくれた。
「仲村トオルさんからプレゼントですよ」
と言うもので、私は配布する前半では、
「チョコは仲村トオルからです。味噌は私たちからです」
と言わねばならなかった。
 中には「?」の反応の方もいたが、半分は「ナカムラさん…あー! 仲村トオルさん!?」と自分の顔か胸を押さえる。もう半分は、一旦は御礼を言って戸を閉めかけて、慌てて戸を開けて出てくる、という展開だった。ある時は影のように女の子が後を追い、ある時は修理に来ていた作業員の若者がカメラを構え、仮設の寒風吹きすさぶ快晴の昼下がりが過ぎていく。ナカムラは「大丈夫です」と段ボール一杯に入った味噌とチョコを抱えながら、その都度リクエストに応えていく。傍らで軒先の洗濯物が揺れている。
 「ちょっと違うな~ だって榊原郁江の旦那さんでしょ?」「それはトオルはトオルでも渡辺トオル」などという笑いも入る。いつの間にか社会福祉協議会からの取材も来ていて、顔なじみの職員さんの姿も見える。


 家族・仕事

 夕方、まだ少し時間があったので、喫茶「パリー」に寄る。そうしてナカムラに「聞きたい」はずのことが、いつも通り私が「話したい」ことになっている。何でも分かってくれる気がして、ナカムラに何でも話してしまう私だ。
 このブログの「<学校>と<子ども>」シリーズの「3」だったか、私はその時「法則化運動批判」をした。その中の「(跳び箱を跳べるかどうかなどということは)本当はどうでもいいことをやっている」くだりが、ナカムラの刺激になったという。「親の心配・気苦労」は大体が子どもの負担になっている、ということをつかんでくれたようなのだ。それでも今度は、
「お父さん(お母さん)は私のことが心配じゃないの!?」
と叩きつけたりするのが子どもだ。その時どんな対応が適切か、本当は「子どもの側にいる生活」が出来ていれば、大人の側では大体分かる。
 また、「親」の話にもなった。親は子どもを保護する立場から、逆に子どもから保護される時がやってくる。そんな話にもなった。だから私は自分の母の話をしてしまう。
 母はその昔、ずいぶんこぼした。「暑くてもう」「雨ばかり」「世の中はまったく」等々。私はだから「暑いから、雨が降るから、作物も育つ」「世の中の心配はもうしなくていいんだよ、自分のことだけ心配していればいい」などとかえしていたものだ。
 ある日、母が「どうせ私が一番早く死ぬんだ」と言ったことがあった。七十代の後半だったと思う。すると自分でも思いがけない言葉が自分の口から出た。
「それでいいんだよ」
言った後、その場に衝撃が走った。言った私もそばにいた娘も、もちろん母もしばし沈黙した。私は反芻した。「仕方がないんだよ」ではなかった。「いいんだよ」なのだ。でも、確かにそうだった。「それがいい」のだ。どう考えてもそうだった。
 人は「仕方がない」ことを普通積極的に受け入れられない。それがそうではないという姿は、「仕方がない」でなく「いい」と言う表現が選択されることで見えてくる。それは「子ども」を見る時も「親」を見る時も同じように思う。
 母が変わったのはこのポイントでだった気がしている。母はこの後「老い」を受け入れていく。「○○が出来なくなった」ではなく、「まだ○○が出来る」という生き方へと変化していく。この姿勢は私の老後の指針ともなることは間違いないと思っている。
 映画でもずけずけと私は話してしまう。ずいぶんと失礼なことを言っているはずで、いつだったか「先生はいつもダメだしで…」とこぼしたこともあった。でも、表現者というものはそういう場所にいつもさらされる。
 「でも、映画を見ないで言うのはまずいよなぁ」
とは、この次の日、『南相馬国際会議』の打ち合わせ後の食事の場所でのことだった。私が映画『三丁目の夕日』を見てもいないのにボロクソに言ったことで、『会議』のパネラーの岡本先生が笑いながら言った言葉だ。私の悪い癖で、でも直せない癖だなあと思った次第である。そのまた次の日の『会議』後の打ち上げ&ミーティングで、
「町づくりを農民の目線で見て作ったのが『七人の侍』、行政の目線で見て作ったのが『生きる』ですねえ」
と言ったのは、東工大の塚本先生である。こんな黒沢映画の観方もあるのか、と感心した。
 この「パリー」で映画の悪口になったわけではない。私が話したかったこと、聞きたかったことは、1970年の『よど号事件』、松本清張の『黒革の手帳』、三菱の『空飛ぶタイヤ』、読売大賞の『奇ッ怪』、いずれもナカムラのドラマ、映画、舞台のことである。「演じる」ことの未来と現在の話は際限なく、暗くなるまで仲村トオルは付き合ってくれた。
 ありがとう。


 ☆☆
今回の物資配布のとき、前回出来なかった「どんな物がいいですか」の質問が出来ました。みなさん一様に感謝しつつ、いきなりの質問だったらしくずいぶん迷っていました。
やはり「味噌」「醤油」「砂糖」が「助かる」のですねえ。

 ☆☆
『南相馬国際会議』の報告、次回でいたします。東大の児玉龍彦先生の姿勢と態度、ひたすら敬服でした。収穫の多い企画だった。できれば微力ながらもずっと協力していきたいです。


『麒麟の翼』 実戦教師塾通信百三十六号

2012-02-05 15:37:08 | エンターテインメント

映画『麒麟の翼』



 日本橋・麒麟


 日本一高いところにある駅、知っていますか、というクイズが昔あった。答は東京。ここは「上り」の終点であり、ここからはすべてが「下り」となるからだ。一番高い駅、東京の中心に日本橋はある。五街道の始点・終点として、その設立は家康の慶長八年(1603年)と言われる。東海道五十三次は広重の浮世絵『日本橋』、今でもよく使われる。現在の橋の完成は明治四十四年のことである。
 もう一つ。ビールのキリンの話。製品(ラベル)に印刷されている麒麟のイラストだが、麒麟の身体を覆う毛並みに、よく見ると「キ・リ・ン」と刻印されている。昔はたったひとつ「ラガー」だけが、それも633ミリリットルだけが製品だった。そのくびれのない瓶の麒麟に、よく見ると「キリン」がひとつずつバラバラに印字があった。今や無数の製品が乱立しているのはキリンばかりではないが、今もそのひとつひとつに「キリン」は読めるのだろうか。
 さて御存知の通り、麒麟は中国の神話に登場する、一日千里を走るという架空の動物である。馬の姿をしているが、立派な鹿の角をもっている。それでキリンは「鹿」辺や「馬」辺で書かれたりする。しかしその麒麟も、キリンの麒麟も「翼」は持っていない。キリンの麒麟に翼と見まがうものがあるが、よく見ると尻尾の立派な房である。
 日本橋にある麒麟像には翼があった。知っていただろうか。ついでと言ってはなんだが、獅子の像もある。そんなことを知らずに私は80年代、よく日本橋を横切っていた。きっとみんなそうだろう。覚えているのは、そして意識したのは重厚な橋の作りだけだ。そこに麒麟がいた。しかも翼を持っている。そんな日本橋の『麒麟の翼』が映画だ。


 再び「取り返しのつかないこと」へ

 メッセージ性の強い映画だった。「『新参者』の劇場版」と言われるように、あの時のテーマがそのまま息づいている。覚えているだろうか。
 「人は嘘をつく、ひとつは他人を欺くため、ひとつは自分を守るため、そしてもうひとつは愛する誰かを守るため」
というあのテーマだ。かみくだけば「事件の背後には必ず『人間』がいる、それは『いい』とか『悪い』と括れるものではない」、というものだった気がする。怠惰な私は東野圭吾の作品をひとつも読んでないが、
「簡単に書けていいですね、なんてとんでもない。死に物狂いで一行一行を編み出しているんです」
とは本人の弁である。この『麒麟の翼』でも、人間に対する愛情がそこここに溢れていて、その都度作者の深い場所を感じた次第である。
 私たちはこの『麒麟の翼』を見たあと「人はなぜ死ぬのだろう」と何度も思う気がする。それは、「死」が「取り返しのつかないこと」であり、それだからこそ、その「死」の前で「なんとか出来なかったのか」とじたばたするからだ。そういう意味で、「取り返しのつかなさ」の深みの極限を「死」は持っているのではないだろうか。「なんとか出来なかったのか」という思いは、人をして「取り返しのつかない」ことを「取り返したい」という思いへと駆らせていることに他ならない。そうして恋人は相手に償おう(近づこう)とするかのように、「犯人」を名乗り出る。父親は女性を騙る息子になりきり、第二の犠牲者が出たあとも、父親のメッセージに気付かなかった息子は沈黙を守る。みんなそれぞれ「嘘をつく」。そして物語は第三の犠牲者へと向かっていく…
 所轄の加賀(刑事)の、
「死んだもののメッセージを受け取ることが生きているものの義務だ」
という言葉は、この物語の鍵であり、救いとなっている。その加賀も、自分の父の死を看取った病院の看護士から、父親の気持ちを分かってないとなじられる。
「あなたが見てきたのは『人の死』じゃない。『死んだ人』よ!」
そう言われて加賀はハッとする。果たして自分は父のメッセージ(気持ち)をきちんと受け止めていたのかと、まさに虚を衝かれる瞬間だ。
 嘘の証言・発言を前に、いつも加賀はその相手をしばし見つめる。長い時間に思える沈黙の加賀は、
「あなたは嘘をついていますね」
「嘘をつく理由があるのですね」
「今は本当のことが言えないのですね」
「つらいことがあるのですね」
と語っているように見える。この文末につく「ね」が大事だ。どこまでも優しい筆者の語り口を、阿部寛は見事に演じている。一度だけこの加賀は激する。「いつまで嘘を続けるつもりだ!」という加賀の激しい詰問は、まるで生き残っている者の、死者への弔いであるかのようだ。それは、筆者がこの物語を通して投げかけている、生きている者すべてへの投げかけだと思えた。
 「嘘をつくな」と言っているのではない。「分かってくれる人は必ずどこかにいる」「希望は必ずあるのだ」と言っている。「それがまやかしだとか、出まかせだとか言われようとも、言わずにはいられない」とは、それに近い言葉で加賀の口から出てくる。
 『祭の準備』(黒木和雄監督)のラスト、原田芳雄が叫ぶ「万歳!」を偲ばせるかのような二人の切ないシーン。そして、さりげない福島への(福島からの)メッセージ。実にさりげないけれど、見る人は絶対見逃さない。
 ラストの『麒麟像』は、橋から見上げるようにアップされ、不細工な高架橋の狭間へと消えていく。麒麟が人々の愛憎を見守っていると考えたらいいのか、麒麟も人々と同じように辱めと嘲りを受けているとしたらいいのか。人々はそうして生きていく。そんなラストだった。

 感動します。是非見ましょう。
 

 ☆☆
『麒麟の翼』、連絡程度ですまそうとしましたが、気持ちがそうはさせなかった。皆さんにも是非スクリーンで見てほしいと思い、取り急ぎ書きました。自宅のDVD劇場でなくスクリーンで、という作品です。

 ☆☆
11日の『南相馬国際会議』が近づいてきました。この会議のパネラーでもあり、開催に大きい役割を果たしている岡本哲志氏は、『場所銀座』の設計をずっと担っています。以前、京橋に山本哲士主幹の文化科学高等研究院があったとき、何度かお顔を拝見しています。もしやと、この映画の関わりについて聞いてみたいです。


セナ 実戦教師塾通信八十七号

2011-10-02 09:25:14 | エンターテインメント

アイルトン・セナ


 凋落したモーターレース


 「number」今週号は、この9日に開催される鈴鹿グランプリとあって、「鈴鹿伝説」やらの特集なのだが、要するにセナ特集だった。だから買った。1994年、イタリアのイモラサーキットでレース開始直後、セナが事故死してから、ずいぶん色々な所で特集が組まれた。でも、セナファンはその特集に付き合えたのだろうか。あの事故直後、すぐ「さよならアイルトン」の特集がフジテレビで組まれたが、私は録画したものの、まだ一度も見たことはない。だから、去年公開となった映画『アイルトン・セナ-音速の彼方へ-』も見ようと思わなかったし、この「number」もセナの記事を避けながら目を通した。そのくらいセナの死を受け入れられなかったのだが、そういう人は多かったのではないだろうか。
 今、モータースポーツはどん底の危機に瀕しているという。以前なら鈴鹿までの道路は大渋滞で、多くのファンが鉄道!という方法でサーキットに向かった。スタートしてすぐ、セナと宿敵プロストがぶつかって大破し、鈴木亜久里が棚ぼたで日本選手最高位3位をもらった1990年のレースでは、サーキットは15万人を収容した。今は道路の渋滞もなく、チケットも簡単に入手できるという。
 時代が変わったのだという。もう、1㏄1000円というウルトラ価格のガソリンを湯水のように使ってスピードを競う時代ではないという。それで人々の心がモータースポーツから離れたのだという。そんなはずはない。2008年ホンダはレース界からの撤退を宣言した。「環境に役立つレースを」と当時その理由を掲げたホンダだが、その一方にはこの年の国際自動車連盟による「今後十年間は同じエンジンで戦わないといけない」という馬鹿げた企画(フォーミュラ)発表もあった。そのエンジン開発費毎年数十億円という支出はしかし、同時に新たな市場開発費でもあった。本田宗一郎いうところの、レーシングカーは「走る実験室」だった。
 人々の車、あるいはレースへの思いが変わったのは確かだ。しかしそれは環境への思いとかいうのとは別だと思えて仕方がない。レース界大変動の年、実はリーマンショックの影がどこの世界にも及んだのはもちろんだが、それよりも人々に「変える力」がなくなった、「変えようとする力」がなくなったというのが私の思う所だ。いやそれは結果であって原因ではない、不景気や資源不足から来る意欲ややる気の失速というべきではないか、と考える人も多いだろう。しかし、社会が人間を不能化、無能化、無力化して来たその結果が、今の現実を作っていると思えて仕方がない。日常生活を、人間同士で話すことなく処理出来る社会を作り、共通の趣味や嗜好を楽しむことなく、自分だけの世界で充足?満足?出来る社会を作り、退屈、または余った時間の処理をなんの苦もなく出来る社会を作った結果、ある意味脳のα波が出るようなスペースを最大級に排除することになった。その結果が今の不能・無能・無力社会だと思える。
 レース界においてもそうなのだ。今やレーシングカーの足元からはクラッチペダルが消え、それに伴いギア変速のシフトレバーも消え、変わってハンドルの向こうにオートマチックなスイッチが鎮座している。ブレーキとアクセルだけを操作するフルオートマの車は、もっと深いところで動いている。機械(コンピューター)の判断が人間(ドライバー)の判断を優先するケースが出てきている。レーシングドライバーがシフトダウンしようとしても、それに車が反応したがらない、などというケースだ。人間が車を操るのでなく、車が人間を操る事態が比喩でなく現出している。レースの魅力とは何だったのだろう、こんなことの一つ一つがモータースポーツ界を蝕んできたのは疑いがない。
 人間は「変えられる」、そう信じていたのがセナだったと思う。


人間の力

 宿敵プロストの信条は「レースは速くなくていい、勝つことは別な世界のことだ」であった。その通りにプロストは「機をうかがう」ことで確実にレースに「戦略としての」勝利をものにした。しかし、セナは違っていた。常にポールポジションからスタートし、そのままチェッカーを受けることに徹していた。常勝ホンダの歴史を刻んだF1の監督桜井淑敏の宿舎に、ある夜単身訪れて「ホンダのエンジンをください」と願い出たセナの話に、私たちは納得出来るのだ。どうしてそんなにも孤高で、そんなに生き急いでいるのかと私たちは思い、セナに吸い込まれていった。
 いくら二位との差が開いているとはいえ、こんなにゆっくり走るのはなぜなのかと私たちをやきもきさせたレースの最後は、ギアがすべて壊れていて、たったひとつのギアで周回を続けたというセナ。また、なぜか運に見放されて故郷ブラジルのグランプリだけは勝てなかったセナ。その1989年は、圧倒的な強さを誇っていたというのに、中盤で他のマシンと接触し自分のマシンを大破させる。その後無理やりサーキットに復帰したセナのマシンは、前半分のボディカバーを殆ど失っていた。しかし、自分は周回遅れながら一位を走っていたプロストを抜くということをやってしまった。ボロボロのマシンで、一周遅れのセナが一位のプロストを抜いた。サーキットもテレビの前の私たちも、惜しみない喝采をセナに送った。
 また、前述した1990年の日本グランプリの予選のことだ。鈴鹿のコースはほぼ1㎞近くの長さのストレートをふたつ持っている。ひとつはメインスタンド前の下り坂で、もうひとつはそれと反対側の山をバックにしたのぼりのストレート、そのバックストレートあとに、なだらかなカーブがあり、そのあとにメインスタンドに戻るという順である。なだらかな最後のカーブを、多くのドライバーはブレーキを踏み込まずそのまま突入する。それで事故が頻発したため、そのカーブ上に危険防止の曲がり角を作った。それが1983年に出来たシケインである。
 超一流の世界はすごい。そのシケインに時速120キロで入ることが至上命令となった時、時速119キロでは抜かれる、時速121キロではマシンがスピン(回転)してしまうという世界だ。この時、すでにホンダのマシンは圧倒的なアドバンテージを誇る時代ではなかった。各マシン・ドライバーが拮抗する中、セナの攻め方は他を寄せつけなかった。セナのマシンがシケインの縁石に乗り上げ激しく跳ね上がる様子を、僚友のマンセルが、いやいや、と首を振って見ている様子が画面で写し出されたのを覚えている。いや、とてもとても、というその表情はセナの走りを称賛するというよりは、あきれ果てているのだった。しかし、まさにサーキットはマシン対マシン、そして人間同士の闘いの場だった。
 それでこの際、セナ以外にどうしてももうひとり登場してもらう。アルゼンチン出身のファン・エマニエル・ファンジオ。ヨーロッパで始まったグランプリレースは1950年である。この初年度からレースに出場したファンジオはこの時、40歳である。この時アルファロメオで出走したファンジオは、ベンツ、フェラーリに乗ることも少しあったが、殆どをマセラティで過ごした。常勝のフェラーリの前に立ちはだかって、1957年、47歳で引退するまで5回のワールドチャンピオンに輝いている。誰も破れないと言われたこの記録は、それからおよそ半世紀の後、2003年にシューマッハによって破られることとなった。
 シューマッハが開発まで担当して駆ったのは、それまでずっと5位~10位を低迷していたフェラーリだったというのが、私には因縁に思える。フェラーリを凌駕したファンジオをフェラーリのシューマッハが越えた。
 今年の開幕戦は3月27日、オーストラリアにおいてだった。ここのところいつも開幕戦を担当したパーレーン。石油王が出資して出来たあの醜悪なバーレーンのサーキットはいつも観客席などガラガラで、ぽつりぽつり見えるのは多分だが王族たちの姿だけだった。そのバーレーングランプリは「アラブの春」のため中止の憂き目となり、開幕となった3月はあの震災直後だった。この通信でもレポートしたが、その時の感動を今でも忘れない。あのF1パイロットが一人一人、片言の日本語で「ガンバレ!」「マケナイデ!」と呼びかけていたことを。

 人間の姿のないところに、モノや価値というものが定着しないことは当然のことだと思える。