内村選手おめでとう!
私たち1964年東京オリンピック世代が記憶に残る日本の選手の姿は、「東洋の魔女」と呼ばれた大松博文監督率いる女子バレーボールチームが象徴していた。今では当たり前の床で受け身をとりながら回転してレシーブする「回転レシーブ」は、この「魔女」の特許だ。猛特訓とペナルティも課した練習を繰り返したチームの試合は、決勝の対ソ連(今のロシア)戦でも忍者のような静けさで、得点して無言でうなずき合うだけの、今思えば気味悪いほどの重苦しさだった。相手方ソ連のミス(オーバーネット)で終わった瞬間、抱き合って泣き崩れる彼女たちの姿に私たちは感動していた。オリンピック期間限定で、近所の電気屋さんが貸してくれた中古のテレビで、我が家でもこの試合を観戦した。内職中の母も兄も、声をからし我を忘れる応援だった。ご近所の歓声が聞こえるその中継の視聴率は今も不動の80,3%だった。今なお存在し続ける「重圧からの解放」は、当時は比べようもなく大きかった気がする。ここのところ繰り返し流される東京オリンピックの映像を見ても分かる通り、開会式の入場行進は、当時極めて整然としていた。世界中の選手もそうだった。どっかのボランティアだか職員が、インドの選手団に紛れるなんていう「さばけた」雰囲気が当時は微塵もなかった。その中でも日本が送ったたくさんの選手団は、見事な行進をしていた。世界の晴れ舞台は「生易しいもの」ではなかった。
あとで分かったことだが、この時メダルを量産した男子レスリングは、前回のオリンピックか大会か忘れたが、惨敗した選手の頭を剃りあげて雪辱を期したという。八田なんとかいう監督の『剃るぞ!』という本が後に出た。そして悲しい出来事として一番なのが、この時男子マラソンの銅メダルをとった円谷幸吉選手はこの何年かあと、体調を崩し「もう走れません」という遺書を残して自ら命を絶つ。この時の金メダルは「裸足の王者」として名高かったエチオペアのアベベだ。アベベはぶっちぎりでゴールした後、倒れこむどころかフィールド内でクールダウンを始めた。それが終わる頃に円谷が苦しそうな顔で競技場に入って来る。そして、そこを追い込んで来たイギリスのヒートリーに抜かれた。あの苦しそうな円谷の顔を、日本人の誰もが「幸吉はもう走れません」の遺書に重ねた。「重圧」というより「悲壮感」さえ見られた東京オリンピックだった気がする。
10月10日開幕の東京オリンピックに向けて日本は押せ押せだった。首都高が8月に完成。9月に代々木体育館、同じく羽田-浜松町間をモノレールが開通。なんと10月に入ってから東海道新幹線が開業(1日)。また、最後の五輪会場である武道館が完成(3日)。思いっきり背伸びした当時の日本でもあった。新幹線の完成車両を広軌(広い幅を持ったレール)のあるところまで運んだのは、D51(汽車)なのだ! またこの年、都の銭湯組合は燃料費工面のため、ストライキをしている。飢餓感を充分に持っていた日本だ。だから日本の選手は、あの時は、はるかに「国の代表」であり「地元・地域の顔」だった。当時、選手たちのユニフォームにあるのは国を示すマークだけで、企業のロゴマークは皆無だ。
さて、ローマの道を裸足で駆け抜けたアベベは、東京オリンピックでは「プーマ」の靴を履いていた。アベベの足をほぼ手中にしていたオニヅカは、この靴開発と入札でプーマに後れをとった。巨大産業としてスポーツが誕生し、グローバリズムの牽引役としてスポーツが台頭する。カールルイスかナイキか、のようにしか見えなかったのは私の偏見だろうか。私は選手の重圧の中に、スポンサーや指導者の影を疑わない。マラソンランナーで「国をあげて」育てられた選手がいた。彼女は「モノが違うよ」と小出監督に言わせた高橋尚子とは違っていた。結局高橋にははるか及ばなかったその彼女だったが、私には、
「一体オマエにいくらかかってると思ってんだよ」
という指導者(体制)の声が聞こえそうで、耳を塞ぎたくなる。
「走る喜び、なんて感じたことないですよ、辛いだけです」と言ったのは、短距離界のかつてのエース伊東浩司だ。当時マラソンで復活した有森裕子が言った「走る喜び」を揶揄したものだ。限界の自分をさらに追い込むことのどこが面白いのだ、というインタビューだった。しかし高橋尚子は、自分を追い込むことでは共通しているが、その顔はいつも輝いていた。
「ホントは辛いんだよ」
なんて取り巻きのつまんないコメント、大きなお世話だから。
そして内村航平は、ある時は「自分の限界を破る」という月並みなことも言うが、フジTVのインタビューだったか「限界という決め方をするのではなく、もっといろいろなことが出来る気がする」といった受け答えがとても秀逸だったと思う。内村という選手を育てるのに、さきほど取り上げた「経済」で考えると、どれくらいのものだったのだろう。おそらく相当「安上がり」だったのではないか。あそこまで超人だと、技の分析もこちらが依頼するどころか、向こうから勝手に最先端の技術で分析してくれる。おまけにその報酬まで得ている、のではないかという余計なかんぐりまでしてしまう。努力の人だとも言う。しかし「毎日1000本素振りをやればいいというものではない」と桑田が言う通り、適切な課題に向けた努力でなければ「なせばなる」スポ根で、身を持ち崩す道だけが待っている。内村は、内村にしか分からないものを内村自身が感知し、そこに向けた努力をしている。
人間はこんなことが出来るのか、という驚きと感動を内村は日本のみならず、世界の人びとに与えている。影を引きずった押せ押せの1960年代日本とは違う、かつての勢いを転げそうな日本だ。その中で長崎は諫早出身の人間が、世界の注目と期待を一身に受けているというのは偶然なのだろうか。悲壮感など微塵もなく、うかつな「感動と希望を与えたい」なる言葉とも無縁な内村は、あくまで「好きで仕方がない」姿だけを世界やライバルに示している。今後も羨望と孤高の人でいて欲しいと願うばかりだ。
おめでとう内村選手!
☆☆
柔道の松本薫選手に「もののけ姫」というネーミング(「週刊文春」?)、見事ですねえ。次回はロンドンの柔道で気がついたことを書いてみたいと思ってます。
☆☆
日本選手の活躍が、あちこちから「頑張るぞ」の声を生んでる気がします。昨日、遅ればせながらの感で「原子力規制委員会に脱原発のメンバーがいないのはどういうことだ」という意見が民主党内から相次いだといいます。それを内村選手の演技に触発された現象と思ったのは私だけでしょうか。
☆☆
山口県知事選、飯田哲也氏落ちましたね。残念。河村・名古屋市長は応援にかけつけたものの、維新の会かつてのブレイン飯田氏は、大阪市長・橋下氏の応援はいただけなかった様子。きっと「コスプレ騒動」で、応援はかえって逆効果と踏んだのですね。してみると、あの暴露は絶妙なタイミングでされたと見るべきでしょう。実にがっかりした思いですが、民主・自民・公明三党は飯田氏の得票結果に慄然としたといいます。さて、どうなのだろう。
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冒頭写真、ロンドンのスタジアムではありません。相馬野馬追の本祭場です。これで会場の4分の一くらいでしょうか。皆さんと夏の熱気で会場はフライパンのようでした。