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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信七十五号

2011-09-03 10:28:14 | エンターテインメント
現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 その弐』を見る 補足

2日の改訂版

*投稿したあと、ずいぶん慌てて書いたように思って、なにかこのままではいけないということになった。大した違いはないような気もするが、またそれで分かりやすくなるとも思わないが、やらせてもらいます。


 「役者」さんから「もう少し踏み込めないのか」とのコメントをいただいた。期待に添えられるだろうか。いくつか忘れていたこともあった。また、私たちが冒しがちな誤りも自覚しておきたいとも思った。しかし、「死」をめぐる私たちの思いはきっと終わることがない。親鸞の弟子の質問に対する嘆き、驚きとしてもそれは残されている。

「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、おなじこころにてありけり」(歎異抄)

私たちの「死」への不安は、ある時には「憧れ」のように見えて、それで不謹慎かと思ったりする。そのことでそれが「死」からの解放と思うと、結局また同じ場所に戻っている。そうして心細い思いに、膝を抱えたりする。この堂々巡りは私たちの「死」に対する変わることのない態度だ。同時にこのどうにもならないという気持ちは、もしかしたら私たちが「死」というものに近づいていけるのではないか、という気持ちを作っているとも言える。

 我が家の話になる。自宅の小さい庭で、気がつくとせっせとアゲハの幼虫が木の葉(山椒ではなかった)を食べてすっかり丸裸にしてしまっていた。体中を緑にして大きくなった幼虫は、サナギになることもなく忽如として姿を消した。多分、通りかかった小鳥の餌になってしまったのだ。私たちはこの蝶の生涯を思う。運が悪かった、もう少しで大空を舞うことが出来ただろうに、いや今度は蜘蛛の餌食になったのかも知れない、別な庭で思いがけず自分の伴侶と遭遇し子孫を残したかも知れない等々。そして、いや幼虫はそんなことを知る由もない、幼虫はそれでまっとうな生涯を送ったのだ、とも思う。
 「死」は、少しずつ時間をかけて人間の上に降りかかるかと思えば、この蝶のように思いもかけず訪れる。それは本人の「覚悟」とは別な場所で用意されている。思いもかけないその出来事に私たちは驚き、慌てる。仮にその「覚悟」を用意してくれた「死」の場合でも、その瞬間は一体何が起きたのか分からず逡巡する。この「何が起きたのか分からない」気持ち・経験は、小さい頃経験した「どうにも出来ない(出来なかった)」恐怖や不安と似ている気がする。何も見えない暗闇や、道に迷った時や、いつの間にかとんでもないところにきてしまったと思った時の恐怖(芥川龍之介『トロッコ』の良平がそうだった)など、それで私たちは闇雲に家に向かって走ったり、母親の懐に飛び込んだり、布団の中で恐怖におののいたりした。強風があたりを揺るがし、柱も傾いたあばら家の雨戸を叩いて暴れれば、あるいは同じことだが、自然体としての人間が、抗うことの出来ない何かに接した時、私たちは無抵抗に、黙って震えているしかなかった。それは、愛してやまない親や家族を失くした時の「一体誰を責めればいいのか分からない」「どうすることも出来ない」気持ちに似ているのかも知れない。
 今回の震災は、自然の理解し難い姿として私たちの上に大きくのしかかって、私たちに恐怖の闇となり、未だ私たちの歩みを止めている。そして、多くの人々が「愛する者の死」という理解し難い出来事を同時に経験している。「自然がもたらした死」と「死という自然な姿」の両方を私たちは手にして、解決しないといけなくなっている。
 「死者は死んでいない」とは、別な表現で「炎は燃えていない」「水は濡れていない」という範疇に置き換えてもいい。「死者は死んでいない」とはおそらく「体は死んでも魂は残る」だの「残された者の心に生きる」だの「歴史に名を残す」とかいうことではない。炎が燃えていることを知らないと同様、「死者」は自分の「死」を知ることがない。周囲が「分かったつもりでいる」だけだ。そのことをこの舞台では
「この人たち(死者)は自分が死んだということを知らないみたいだよ」(山田(仲村トオル))
と言っていたようだ。それは「死者」が分かっちゃいないとか、成仏してほしいとかいうことではない、もっと「死」に寄り添った場所があるんだ、と言っていたように思う。もっと「死」が私たちの近い場所にあるんだということを言っていたように思うのだ。

 結局「比喩」の問題としてしか扱えないのが「死」と言えるし、逆に「向こう側」からはずっとそういう問いかけがなされているとも言える。しかし、このことは科学者の間でよく言われる「比喩(詩)という表現は、科学のずっと先端にまで到達している」ということとは違っていると思う。

実戦教師塾通信七十四号

2011-09-01 11:18:40 | エンターテインメント
現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 其の弐』を見る その2

<不信>の解体に向けて


 出演者のあいさつで幕は閉じる。しかし、拍手はいつまでも鳴りやまず、結局その喝采に応えるため、彼らは二回戻ってきた。なぜだろう、全てが消えてなくなって、人々の上に大きな不幸が訪れたというのに、私たちはむしろさわやかな気分に覆われている。
 死者にしてやられたというのか、生と死の構造が綾なす舞台に引き込まれたというのか、教科書的に言えば、現し世と黄泉の国の交通にいたくリアルなものを感じたというのだろうか。死者は死んでいなかった。

 前号に、遠いところや近場からいくつかの賛否が寄せられた。まだ見ていない人たちから、「興味をそそる」「是非見てみたい(見てみたかった)」と共感をいただいた。それに対し、「そんなに難解なのか」というものもあった。私に言わせればお叱りをいただいているようなこの意見なのだが、そういう結果を生んだ私の勝手な言い回しについては、少し別なところから補足しておかないといけない。とりあえず、どんな観方をしてもいいという、そういう裁量をこの舞台は持っているということは言っておきたい。

 快い浮遊感はきっと、死者たちのごく当たり前の立ち居振る舞いがもたらすものだ。舞台は物語の過去と現在の間を行き来する。そこではその時にはいなかった筈の人物がそこにいたり、その時にいた筈の人物がいなかったりという展開がされる。そうして私たちは彼らが自由に行き来していることを知ることになる。結果、私たちは彼らが果たして生きているのか、死んでいるのかと考えて舞台を見るようになる。不思議な浮遊感。そしてそれは不愉快なものではない。そしてそれは「難解」とかいうものではなく、素直に自分の中に受け入れ可能なものとして提出される。
 もうひとつ、「『死者を悼んで弔う』のなら、今までだってやってきたではないか」という感想だ。「悼む」という行為のどこが新しいと言えるのか、というものだ。それは違う。その感想言う所の「悼む」行為は、一方的なものだ。<信>と<不信>にあえて分ければ、私たちの「悼む」行為は通常<不信>に支えられている。自分たち自身への<不信>に支えられている。まるで赦しを乞うかのような私たちの祈りは一方的なものだ。さて、もうひとつの<不信>がある。信と妄執は同在できると言ったのは吉本隆明だが、それは宗教的な出来事やあり方を指している。私たちが持つ「宗教的なものに対する絶望的距離」「宗教の絶対性に対する不信」は、おそらくそのことを意味している。私たちの「悼む」行為は、まるでその妄執とは別なところから発している行為のように見える。それは宗教性に対する<不信>に支えられてあるものだ。だからこそ私たちの「悼む」行為は一方的なものとなる。この舞台の「悼む」行為は何より「残された」者自身が持つ<不信>を解体したい、と欲する場所から出てきていると思える。山田(仲村トオル)の提示する「悼む」行為は、「残された」者と「残した」者をつなぐ行為だと思える。ここで提示する「悼む」は、赦しを乞うことではない、妄執という絶対的な場所でもない、自由で相対的な<信>の場所を見つける行為だと思える。
 そうしないと死者が浮かばれない、からではない。「死者は死んでいない」からだ。

 舞台が終わって私は思わず、頑張ろう、と意気込んだ。が、思い出した。「(先生は)間違いなくいいトシですから」という教え子の温かい言葉を。そうか、そうだった。そう思うと、この舞台も決して「熱い」わけではなかった。舞台は私たちと「死者」を包み込み、「鎮めて」いた。

 最後にエピソードをひとつ。あのテラカドのレポートにも触れてあったのだが、ナカムラは8月2日に訪れたホテルサザンにあの後、「気持ちばかり」にと、焼肉パーティ用「冷えた」ビールを贈っている。ホテルの受付さんが礼状と写真を送ってくれた。写真には、楢葉の皆さんがプレミアムの缶ビールを掲げて乾杯しているところ、支援物資として持っていった鍋・フライパンの抽選会(全員分はなかった)の様子が写し出されている。
 受付さんは言った。
「この鍋とフライパンは使わないんだってよ。やっぱり特別なもんなんだな」
鍋・フライパンの入った袋を持ってうれしそうに笑う写真。そうしてさらに、写真をちゃんと見たかい、と言う。あの乾杯のシーンの写真をちゃんと見たかいと言う。
「あのビールの栓、抜いてないんだよ。飲まないでみんな部屋までお持ち帰りだよ。別なのを飲んでさ」

 また胸が熱くなる。

実戦教師塾通信七十三号

2011-08-30 18:51:53 | エンターテインメント
現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 その弐』を見る その1

「向こう側」から見えるもの


 俳優仲村トオルに私は「あなたの仕事を全部追いかけていたら大変なことになってしまう」と良く言う。すると彼は必ず「(見なくても)いいんですよ」と言っていた。
 そんな彼が「是非見て下さい」と言ったのは二回目である。一回目は『空飛ぶタイヤ』(2009年放映WOWOW制作)、そして今回である。
 そっと彼の仕事を見守りつつ帰る、というこの日の私の予定は、終演後、誘われるままに楽屋に出向き、そこで我を忘れて「良くやった!」と言ってしまうという思いもかけない結果となった。

「今、この作品をきちんと創り 上演することはひとつの『使命』であり とても大切なことのように思えるのです」(舞台バンフレットより)

という彼の意気込みは、劇場のどこにも充分感じられた。演出・作/前川知大のこの作品、数年前の地震による災害で、多くの山間の住民の命を奪った、というもの。住民の命を奪った地下からのガスは、温泉の存在を保証していたが、温泉街として復興するだけの力が村には残っていなかった。となれば、もちろん私たちの現在の焦眉の課題、私たちのぶつかっている壁を思わないわけにはいかない。
 俳優仲村トオルは、さきのインタビューの部分を直前になって差し替えをしている。そこにはこのブログ64号「応援」のことが触れられていた。あの日は稽古休みの日だったという。そして久之浜で見かけた神社と鳥居の残骸。そして、そこにたてられていた『ここに故郷あり』ののぼり。

「その時は偶然の符号に驚きすぎて、しばらく思考停止のような状態になってしまったのですが、その後、いろんなことを考えて、戯曲が完成した今、あの場所で感じたことがこの作品を演じ、上演することの意味と重なっているように思えて来たんです」
これが仲村トオルの「使命」感を作った経過である。
 
 唐突と言われてもその通りであるが、この作品と共におおいに消化不良となっている、精神分析家ジャックラカンを解きあかすヒントとして私はこの舞台を感じた。だから、ジャックラカンが、この舞台を解きあかすヒントとして浮上していると勝手に考えたとも言っておく。今回はいつにも増して読みにくい部分が発生するかと思うが、そして極めて恣意的な私の、この舞台の「楽しみ方」となると思うが、私の消化不良に免じて許して欲しい。
 
 神社の床を模した舞台だ。奥行きのある部分は描いてあると思いきや、本当に奥まで続いており、ギャラリーに向かって斜になっている。客が見やすいようにとかいう安直な設定ではない。恐らく「向こう側」と「こちら側」が続いていること、「向こう側」と「こちら側」が不安定なバランスで保っていることを示している。それはこの神社の床のあちらこちらに見られる「穴」がそれを示している。「穴」が、こちらの油断を見澄まして大切なものを奪ってしまったり、また「患者」とつながるための電話や、精神医療の文献や、祭り準備に必要なものがその「穴」から出てきたりすることが、それを示している。
 多くの死者に関する逸話が展開される。それらはひとつのテーマに支えられている。ひとつ初めの方の逸話で考えよう。不慮の事故で死んだ息子は、その息子自身の生前の意思により、腎臓と肝臓を提供する。その息子の意思を知らなかった両親は、骨壺で帰って来た息子の死をどう受け止めるべきか悩む。母親は移植された腎臓と肝臓の中に息子は生きている、だからその移植先の人間を突き止めることが息子を探すことだ、とする。父親はそんなことをしても息子が喜ぶとは思えないと、母親をいさめる。遺族に、死者の死を受け入れる時間を提供しない現代医療の過誤と言えなくもないこの逸話は、実は三人目の人物「息子」が、もっと深い所に私たちを連れて行く。
 想像の行為によって相手を憎み、愛し、そして奪っていく(詐取)という症状をパラノイア精神病と言っておく。この行為は究極的に「おまえは私だ」という極限まで続いていく。これを病気と言わずに、ラカンは主体形成の過程と同じだという。パラノイア精神病の過程は「通常の」人間の主体形成の過程と同じものだという。そういう観点からラカンは「フロイトを越えて」患者に接し治癒していくのだが、さて、「私はこれだ」「おまえはこれだ」という袋小路が、死んだ息子のこの両親を通して見事に展開されていく。三人目の人物「息子」は二人の奥でじっと佇むばかりだ。
 似たようなことを、私たちは数多く経験してきたはずだ。その時私たちはきっと「おまえは分かっていない」「人の話を聞けよ」と言ったはずだ。「向こう側から考える」ことの難しさに私たちは苦り切ったはずだ。その「向こう側」は友人だったり、親だったり恋人だったり、「老い」だったりした。しかし、究極の「向こう側」は「死」だ。究極の意味することは、それが経験出来ないこと、死者からの話を聞けないこと、「死人に口なし」ということだ。

 3月11日から私たちは抜き差しならない状態に陥っている。村が町が、山が海がなくなり、多くの人がなくなったというそのことが、未だどういうことなのか私たちはつかめていない。では私たちの方から「向こう側」にいく手だては見いだせないのだろうか。「向こう側」は私たちの行く手を阻んでいるのだろうか。そんな筈はない。
 生者が死者をなつかしみ、そのおかげで生者同士が罵り合うという場面は、劇中、生者の死者をいざなう場面でもあった。死者はそんな中ためらいつつ「こちら側」に人知れず現れては消えていく。そんな死者を「悼む」ことが「向こう側」から考えるきっかけになるのではないか、それが「こちら側」と「向こう側」をつなげるきっかけになるのではないか、ずっと山田(仲村トオル)は語り続ける。
 あっと言う間にラストが来る。いや、始まりでもある。圧巻だ。静けさに心打たれる。数々の哄笑に癒されている私たちがいた。いやが上にも、舞台の中央にそびえ立つ「のぼり」に注目する私たち。


 ☆東京での千秋楽は9月1日 引き続き新潟、北九州、兵庫と公演されます。是非ご覧になるといいと思います。
 ☆この文章、携帯でなくパソコンで見てほしいです。携帯ではきっと分からないと思います。

実戦教師塾通信六十九号

2011-08-21 18:42:47 | エンターテインメント
「取り返しのつかない時間(とき)」は今



 ファンというものは「自分だけが分かっている」という幸福な誤謬を冒し続ける、とは前号で書いたが、この傾向をもっとも偏執的に持っているのは村上春樹氏の読者(ファン)だという。私は村上春樹の評論やエッセイを何冊か読んだが、まじめに読んだ小説は多分『ノルウェイの森』だけである。それだけで「分かったような顔」ができないのは分かっているが、「私だけが知っている」ことを標榜する上で、うってつけの作品がある。『バースデイ・ガール』(村上春樹翻訳ライブラリー『バースデイ・ストーリーズ』より)である。
 この作品、実は中三の国語の教科書(教育出版)に全文掲載されている。私はこの教科書で三年生を二十クラスくらい教えている。だから二十回読んでいる。ってそんなバカなことはない。その二倍、いや五倍ぐらい読んでいるのではないだろうか。つまり百回くらい。
 しょうもない連中が、秋の研修会だかに来る。そうして「子どもたちには何度も読ませないとダメです」と、よく私たちに「指導」する。何度も読まないといけない生徒ほど読みたがらない現実に、なんの指針も示せないこの無能な連中は、どうせ現場にいた時にろくな仕事をしていない。そういう生徒の現実をどうお考えですか、と私はおうむ返しのように言うこの連中によく言ったものだ。それでこの連中の「我々は指導に行ったというのに、とんでもない扱いを受けた」という怒りをかって、私の(教育)委員会での評判をさらに悪くしたという。
 いくら仕事だと言っても、興味のない教材に取り組むのはなかなか至難の業である。それで私の場合、最悪の時は「そこを飛ばす」という方法もよくとった。魯迅の『故郷』はいろいろな教材が消える中で、延々と教科書に残り続けているが、辛亥革命や袁世凱やという歴史的背景にまったく無知で無関心だったせいなのか、私にはさっぱり興味が持てず、「卒業近し」というこじつけで、私はよく魯迅を飛ばした。
 しかし、この『バースデー・ガール』は違っていた。ある「謎」が読者を惹きつけてやまないからだ。二十歳の誕生日に、飛び込みのシフトでレストランのバイトが入ってしまった女の子の話だ。このレストランの上階を住まいとする、従業員にとって「正体不明」のオーナーに、この女の子は夕食のチキンを持っていく。そして、そこで思いもかけずオーナーから「願い事」をかなえる、というプレゼントの提案を受ける。
 おそらく知的で、十二分に魅力的なこの女の子の「願い」を読者は知りたいと思う。意地悪なまでに「願い」を封じ込めたラストに、子どもたちは教科書に縛りつけられているかのようだ。
 おしゃれでしっとりとしていて、料理の蘊蓄もあるストーリーの小道具たちが、何度読んでも飽きさせない柱となっていて、この話を支えている。授業が終えても読み続けて悶々とする子どもたちを見て、私はやはりこの話、あるいは村上春樹、いいよなあ、と思ったものだ。
 私がこの「謎(願い)」が分かったのは、なんと私が退職する年だった。読む事百回に近づいた頃にようやく開眼した、ような気がする。ここでその答らしきことを披瀝すると、私が知っているだけでも五人、未だにこの「謎」で悶々としている成人・若者がいる。ので、やめとく。ちなみに、あの「指導書」とやらにはこの「答」は載っていたのだろうか。だとしたら許せない。この「答」を知ったものはみんな、それに触れないようにしようと思うはずだからだ。それを無神経にも軽々しく踏みにじることになるからだ。
 そのタブーを冒してあえてヒントめいたことを言えば、「願い」は問題ではない、そういうことだ。このことに気付けば、この作品はまた別な色彩を帯びてくる。「小さなため息」「バンパーにへこみのあるドイツ車」、あちこちに実はヒントはあった。そうして「失った時間(とき)の輝き」という、この作品のテーマが見えてくる。東京タワーが見える六本木のしゃれたレストラン、それは黄昏の色彩をいやが上にも帯びてくる。「取り返しのつかないもの」、私たちはそれを時間(とき)とともにそれを重ねる。
 
 私の好きな積水ハウスのCMがある。もう放映していないが、仕事を終えたサラリーマンのお父さんが、居酒屋の前で同僚の誘いを断っている場面でそれは始まる。そのお父さんは改札口でスーツのあちこちを探って慌てる。スーパーの商品売り場で携帯を手に笑う妻(母)と、空き地のサッカー練習を終えて帰り道につこうとしているまだ小さい息子、そして家の玄関前で道の向こう側を見つめ続ける柴犬。ラストは河原の土手をスーツ片手に歩くお父さんの姿。夕日がその姿を照らしている。一家団欒の幸せなショットに私は感慨を深くしてしまう。注意深く見れば、駅員のいない改札口でお父さんが探しているのはもちろん定期券などでなく、ICカード(スイカ)であり、息子やその仲間は見事にお揃いのサッカーチームのウェアだ。スーパーに店のオヤジやオカミさんがいるわけもない。見事に無人化・自動化し、成り上がった日本の姿が本当は見える。変わらずにあると思えたのは、暖簾の下がった居酒屋と、そこに誘っている仲間の顔。おずおずとした過去への郷愁、そんなCMに思えていとおしい。
 対称的と言っていいが、60年代のCMはそんなおずおずとしたためらいを全く見せない。例えば61年だったか、資生堂の口紅のCMは、4つつながった電話ボックスで話をする女たちがそれぞれ自分のカラーに染める(テレビのカラー時代の走りである)唇で、顔を演出する。自信たっぷりの女たちの横にボックスの「110番または119番に電話する時は…」という注意書きが見える。電話ボックスはスタジオのものでなく、実際のものを使っていたらしい。というのも、その電話の真新しさとおよそ釣り合わない瀬戸物製の「110番…」の注意書きは、実に使い込んでいるというか、年期を隠せない、年期を感じさせるものなのだ。使うものや使う人の新しさの勢いに、入れ物がついていっていない、というかそんな象徴性を感じさせる。
 少し風合いの変わったところで言えば、1995年日本公開の映画『フォレストガンプ』は、実に見事だった。足が不自由で「知能指数の低い」主人公は、ある日ホテルだった自分の家にEプレスリーを客として迎え、またその不自由な足が奇跡的に治り、大学時代のアメフトの優秀な成績をかわれてケネディ大統領と面会。兵役時代には、アフリカ系マイノリティをベトナム戦線で救い、私の記憶では帰国してのち、あのワシントンDCの反戦集会で昔の恋人に出会う、という実におあつらえ向きオンパレードの映画だ。カッコいいアメリカ・世界の平和に貢献し、身体障害、黒人差別をまで克服したアメリカ… この「失われたアメリカの夢(取り返しのつかない、と言ってもいい)」よ、もう一度というコンセプトのこの映画は、見かけはパワフルだが、哀愁に満ちた『一期一会』(知っていると思うが、この映画のサブタイトルである)なのだった。

 取り返しのつかない時間(とき)は、『バースディ・ガール』の上にどのような今後を用意しているのだろう。
 私たちは「現在(いま)」を生きる。積水ハウスのお父さんの「現在(いま)」が、悔いとともにあろうとも、それを踏みしめて生きたいと思う。


 ☆☆「被災地に行きました」という連絡や手紙をあちこちからいただいた。嬉しいです。テレビや写真では見えなかったことがやっぱり大切だ、ということが語られています。嬉しいです。

 ☆☆いわきにまた復帰します。ブログともどもよろしくお願いします。

実戦教師塾通信六十五号

2011-08-06 17:07:01 | エンターテインメント
「今日まで、そして明日から」 その2


(『接吻』)

 喫茶「パリー」でのランチは2時の約束だったが、30分遅れた。この日私は初めてこの店の名前が「バリー」でなく「パリー」であることを知った。そんな気分だったので、今日改めてここの看板を見た。すると「バ」でなく「パ」だったのだ。私のスコットランドの友人で「バリー」がいるので、それと同じだという思いが強烈に弾けたのが原因なのだろう。それにしても「パリ」でなく「パリー」って何だよって感じ。
 時間はランチとしてはギリギリの時間だったが、私たちはサザンからの移動の車でようやく空腹を感じた。それくらい満ち足りていて、そして気持ちが引き締まっていたのだろう。私たちはマスターが用意した和食膳を黙々と食べた。
 食後、被災地・被災者の話、原発の話、避難所や支援の話、6年3組の頃の話、私も先生になるまでのいきさつや「恥ずかしい」話をおそらく初めて話した。そして、映画の話になった。

 私は「映画好き」と言えるほど映画を見ていないが、映画を好きだ。特に単館上映の映画は、作り手の熱気というか執念と言えるまでの凄味が伝わってきて、堪らない。最近の例で言うと『海炭市叙景』(2010年暮公開・熊切和嘉監督・佐藤泰志原作)だ。
 映画『接吻』(2008年3月、万田邦敏監督)は「出会うはずのなかった男女三人が織りなす『究極の愛の物語』」というキャッチコピーのもと公開される。三人とは豊川悦史・小池栄子と、そして仲村トオルである。
 この映画、お勧めである。さんざん「パリー」で話したことは、幹事にとって「もう何万回も聞いた」ことかも知れないが、この場を借りてもう一度話したい。
 私たちは理解不能な出来事に遭遇した時、その対処の方法をそんなに数多く持っていない。

① その場から退散する。
② 理解出来ないで、あるいはたちすくんで凝視する。
③ 誰かなんとかしてくれと思う、あるいは言う。
④ そいつ、またはその出来事を消したい(抹殺したい)と思う。
⑤ 理解出来るまで立ち去ろうとしない。

本当は態度決定として二つしか存在してない。③④は①という態度と本当は同義である。②は⑤に行くのか、ほかに行くかどうかの境界線上にある。
 実は友人、山本哲士の〔山本哲士公式ブログ〕6月30日の記事に、興味深いレポートがある。山本氏は震災直後からずっと熱い、そして的確なメッセージを世界に発信している。今は物象化論を通し、国家・エネルギー・社会化批判を展開。そして新たな場所・環境設計を訴えている。
 しかし、なんの因果か、山本氏はこの6月30日に東京までだったか、講演に出掛けるので、いつもは乗らない電車に、いつもは乗らない時間に乗ってしまって登校途中の高校生(やはり正確には女子高校生と言うべきかも知れない)と遭遇する。
 私も下校途中の女子高校生のマナーの悪さは聞いていた。座席のすきまにガムや食べたアイスのバーを突っ込んでいるという。そんな場面に遭遇したいものだと思ってはいたが、私はせいぜいカバンを床においてそちこちにしゃがみ込む姿しか見てない(ちなみに満員電車ではなかった)。しかし、もちろんだが登校時の態度もよくないらしい。
 友人山本氏のこの時の態度は少し変わっていた。④と⑤が混じっているのだ。まったく反応を示そうとしない(女子)高校生に、山本氏は最後まで果敢にアグレッシブに挑んでいる。読めばわかるが、山本氏のいた本当は満員ではなかった車輛は、おそらく山本氏の怒りの叫びで鳴り響いていたと思われる。
 逆に、つまり高校生(女子)の立場から考えて見よう。高校生はおそらくシンプルに①という態度しか選んでいない。もちろんその場にはいるのだが、態度として退散している。とんでもなく変なオヤジと遭遇してしまった、こんな場所からはさっさとおさらばだ、そういう場所にあっと言う間に移動して、ヘッドフォンやら携帯に落ち着く。極めて低い位相ではあっても、お互い「逃げ場所のない」ところを見いださないと、両者は決別する。別に決別でもいいが、興味や面白さはそこにある。
 しかし、やはり面白いのは山本氏の果敢な闘いぶりだ。そこに「大人をなめるな」でもない、ましては「オレを誰だと思っているんだ」という見当違いの、間抜けな分別がないのはさすがというところだ。
 少し昔の若者だったらこういう時「こいつぶっ殺してえ」と言えた。それが「殺してはいけないですか」発言に象徴されるが、自らの意志の薄弱さを加速する。それまでずっと底流を覆っていた「ウザイ」「ダリー」のつぶやきだけが幅をきかしていく。人間存在の不条理は、ますます解きにくくなっている。
 裁判員裁判とやら、そういった傾向にますます拍車をかけている。
 「(死刑判決という判断をするのに)何度も泣きました、眠れませんでした」
だと!? 泣いてろよ、ずっと起きてろ!
 人の死というものに一体人間がどの程度向き合えるのか、ましてまったく赤の他人の死というものにどれほど向き合えるのか、こいつら考えたことがあるのか。それは被害者でもいい、加害者でもいい、あるいは自然死した身内の人間でもいい。そのことの意味や、自分がそこに落とす影を見ようとしたのか。どれほどのことが自分に関わっているのかいないのか、そのこと抜きに泣いてんじゃないよ。
 判断不能ならそれは表明出来る、と言えば「それは裁判員として無責任だ」という反論しかこういうやつにはできない。「被害者の気持ちはどうなる?」というわけだ。しかし、残念ながら分かったように言うオマエは被害者ではない。そう言うと「じゃあ、あなたが被害者だったらこの犯人を許せますか」と、紋切り型の詰問が待っているのだ。しかし、その問いに答えることを人間は可能とするのだろうか。
 私たちに最後まで要請される「誠実さ」があるとすれば、「どうしてだ?」と問い続けることしかないはずだ。
 やっとこさ、映画の話に戻る。実に不可思議な始まりを映画は見せる。「どうして?」という観客の思いをさらに「女」は深めていく。観客の「?」の思いを委託されたかのように「弁護士」が現れる。弁護士の「誠実さ」は、事件の糸口を少しずつみせるかのようで、実は別な物語が進行していく。そうして衝撃のラストに、映画は一直線に突き進む。
 この映画のタイトル『接吻』の意味することも、ラストまで見ないと分からない。そうして見ているものは思う。
「やっと始まったというのに…」
映画としてはSペキンパーの確か『ガルシアの首』だったと思うが、あのラストの時もそう思った。事件としては連続ピストル殺人事件犯の永山則夫(1969年逮捕)が死刑になった時もそう思った。やっと永山が自分を語り出したと思ったその時に死刑は執行された(1997年)。
 衝撃のラストだ。

 「パリー」は、ある時は笑いに包まれ、ある時はしんみりした。
 いわきは平を出て、私のお世話いただいている湯本の「ふじ滝」まで、6年3組は送ってくれた。手を振るみんなを見送って佇む私の胸には、40年近く逆上ったあのころ、私がよくくちずさんだフレーズが湧いてくる。

私は今日まで生きてみました
私は今日まで生きてみました
私は今日まで生きてみました
そして今 私は思っています
明日からもこうして生きていくだろうと (吉田拓郎『今日まで、そして明日から』)


 ☆☆今日を区切りに少し長い夏休みをいただきます。三年ぶりに北海道。早くても一週間後ですが、またこのブログ再開します。今後ともご愛読お願いします。