新たなブーム!?
~父親殺し/共犯~
1 フジテレビドラマ『カラマーゾフの兄弟』
体罰からちょっと脇道に入る。と言っても全く別な話というわけではない。「若者」と「暴力」の話だからだ。
以前ここで触れたフジテレビの深夜ドラマ『カラマーゾフの兄弟』が好調だ。深夜番組なのだが、読売の番組案内で先日取り上げられた。すると今度は、一昨日、朝日の文化欄で亀山郁夫が寄稿している。亀山郁夫と言えば、新訳『罪と罰』で始まる平成ドストエフスキー流行の立役者だ。その亀山が黙っていられなくなったということである。それも、「凄まじい熱気」の撮影現場や着想をベタにほめちぎっている。私はやはり深夜番組という理由で、第一回のあの後を見てない。しかしこれらの評を読むと、うまく作りなおしたよな、との私の感想は間違ってなかったようだ。この放映もあと三回で終了らしい。その終了前に、ここで触れておきたい。それが、この間書いてきた「少年たちの過ち」と通じるところがあるからだ。
2 ドストエフスキー
傷ついた心はどのように処理されているのか、しているのか。そこで人々、そして私たちは笑ったり憎んだり、引きこもったり飛びこんだりしているのだ。
このカラマーゾフ家の三兄弟は、みんな饒舌である。おしゃべりとまでは言えないかも知れないが、それぞれの個性をもて余すところなく良く話す。今の若者がこんなに良く話すのかと言われれば、そうではないのだが、三人をその底で支えているものは、それぞれに「憎悪」と「絶望」なのだ。そう思えば、彼ら三人の姿は、今、貝のように押し黙っている若者の実像とも思えて来る。

すこしドストエフスキーに触れておく。
ドストエフスキーの顔と言えばこれが出てくる、それくらいに思われているペロフによる肖像画である。癲癇と浪費癖(賭け事)の代名詞とも言われたドストエフスキーは、お世辞にも人格者とは言えない生活ぶりだった。少女への性的暴行を先頭に、使用人への口汚い罵り、女々しい言い訳。あまり大きくなかったというその身体から出されてくる執拗さと、おびただしいまでの悪口雑言は、まるで『カラマーゾフ…』の誰あろうフョードル(父・黒沢)のようだったという。
ドラマ版の父に対して、こんな奴殺されても仕方がない、と思う人が多いと聞く。それは違う。ドストエフスキーの深遠なる暗部が呼び込んで問いただしているのは、人が持つ憎しみの「育ち方」、そして「向かう場所」であり、そこに関わる人々の「共犯関係」だ。いつの間にか「他人事ではない」入れ込みと、「共感」にも似た気持ちで私たちが作品にのめり込んでしまうのはそのせいだ。ドラマが支持される所以は、この「憎悪」と「絶望」の場所に、リアリティがあるからだと思えた。
次男のイワン・勲(市原隼人)は、この積みあがった憎悪を乗り切る武器を「知性」と考えていた。そこからの絶望脱却を試みる。このイワンが、同時代19世紀の歴史世界で、観念論の頂点を極めたヘーゲルを代弁していたことは間違いない。それは無惨に敗北する。「知性」が現実を変えた試しはない。それは、
「世界を解釈しただけで、世界を変えるものではなかった」
のだ。言い方を変えれば「知ってるからどうだと言うのだ」という敗北をしていく。原作でもドラマでもいいが、この敗北を私たちは予測したはずだ。市原隼人カッコいいけど、実にはまり役なんだが、仕方がない。最期もカッコ良く終わるはずだが、負けは負けなのだ。
父殺しの犯人は、ドラマでもおそらく二人となるはずだ。正確に言えば「強力な」共犯者の存在なくして、父親の殺人は行われなかった。いや、むしろ主犯がどっちなのか、とうろたえるほどの現実感が圧倒するはずだ。この作家の長編作品には、必ずこの強力なパートナーが登場する。そして、ドストエフスキーの恐さはここから更に深く踏み込んで来る。長男も三男も、殺害行為への自分たちの関わりで苦しむことになっていくからだ。
「無関係だと思うなよ」
「共犯者なんだ、オマエも」
というわけだ。
3 再び荒川沖駅事件
覚えていると思うが、2006年、奈良県で16歳の少年が自宅に放火し、就寝中の母と弟妹を殺害するという事件があった。それを以前一度取り上げた。
DVを受けていた母が父と離婚、その離別後は、少年は母との面会を父から禁止されていた。父の意思を受け継いで医師になろうと努力した少年に、父はテストの結果が悪いと暴力を振るった。父は新しい母を迎えるが、少年はなじめないまま、ある夜自宅に火を放つ。この日、父が不在だったことを少年は知っていた。
ここまで書けば、この少年の「憎悪」と「絶望」が、実は少年のひたむきさがあったからこそ大きくなったことが私たちは分かるはずだ。「殺意」を生んだ源には多くの人間がいる。あるいは社会がある。カラマーゾフの三兄弟、そして今生きる若者たちと私たちの中に煮えたぎっている憎悪と絶望があるとしたら、それはひたむきさが生んでいると思って間違いない。だったら、解決を見いだし希望に導くものを見つけられないはずがないのだ。私たちは「ひたむきさ」から出発しているからだ。
事件後、息子に謝罪した父親は、泣きながら
「お父さんが悪かった。二人でやり直そう」
と言っている。ようやく親子が出発する。少し余談となるが、ここに水を差したのが、草薙なんとかいうプー女の「ジャーナリスト」だ。少年の鑑定結果を担当の精神科医に提示させたあげく、こっそりデジカメで撮影し、『ぼくはパパを殺すことに決めた』なるポンコツ本を発行する。発行した出版社がこれまた立ち上げたばかりの会社だ。下心はバレバレであった。本当は余談などと言っては済まされないのだが。
この放火事件の犯人はひとりではなかった。そういうことだ。そのことに父親が気がついたのだ。
では、2008年の荒川沖駅での金沢真大はどうか。真犯人たる父親は、ついに名乗ることをしなかった。のではないのか。父親が謝罪に回ったうちのどこかひとつでも、
「アンタが殺したんじゃないのか」
と言ってあげたところがあったらいいのに、と思う。
ドラマ『カラマーゾフの兄弟』にも、これからあるはずだ。直接父親に手を下した犯人が、
「アンタがやれって言ったんじゃないのか」
と、「共犯者」に言うくだりがあるはずなのだ。
そして慌てふためく「共犯者」との激しいやりとりが圧巻だ。
4 ついでに
では『カラマーゾフの兄弟』の勝者は誰なのか。原作では三男アリョーシャ(涼)になるかのような結末だ。
「アリョーシャ万歳!」
がラストなのだから。しかし、この『カラマーゾフ…』には原案があり、そのメモ(だったかな)では『偉大なる罪人の物語』となっている。つまり、イワン(勲)のあとを引き継ぐも、結局堕ちていった人間が設定されている。多分、三男アリョーシャ(涼)は、このあと罪人になると思われる。
まことに私たちの行方を照らす光は、どのようなものだったのか、この大作家からもう少し示唆を得たいと思うのは私だけではあるまい。
また、この『カラマーゾフ…』には、死んだはずのキリストが降臨し、この時、世の中すべてを取り仕切っていた大審問官(裁判官と思ってもらっていい)と対決する、といういわくつきの「大審問官の章」がある。1969年の映画(当時はソ連)は、ここを全部カット。賢明な判断だ。ドラマももちろん避ける場所だと思う。
☆☆
前号への反響がずいぶんあって、読者もずいぶん多くてありがたいです。みなさんにお礼申します。ご存知の通り、普段このブログ上にコメント少ないのです。みなさん直接メールや電話なのです。別にそれが不満というわけではないのですけどね。内容に立ち入ったコメントはさらにないのです。仲間に言わせると、
「いやあ、コメント、入れづらいなぁ」
ということなんだそうです。でも、久しぶりに内容に踏み込んだものをいただいています。ありがとうございます。
☆☆
NHKのニュースで桜宮高校、渦中の教師がインタビュー(記者会見?)したそうですね。なんか言い訳ばかり、自分が正しい、みたいな内容だと聞いてます。
体罰「学校版」、次回こそ出したいと思ってます。