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実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

重信房子 実戦教師塾通信八百十五号

2022-07-01 11:43:27 | 戦後/昭和

重信房子

 ~ビートたけしの作品に思う~

 

 ☆初めに☆

重信房子が出所した時、彼女や連合赤軍のことについて書かないのかという問い合わせを何件かいただきました。私が重信房子について知ることは何もない。ただ、連合赤軍や「新左翼」へ勝手放題言ってる連中に、反論することは山ほどあります。そしてなぜ、ビートたけしなのか。諸作品を貫く心情が、余りにも近くに思えるからです。

 

 1 離陸には成功した

 少し前の話だ。思いがけない場所(東京)で、50年前のことが議論になった。相手は日大出身、それもバリバリの体育会系だった。まさかオマエは全共闘かと迫って来たこいつに、私は、当ったり前だ!と肩を入れた。ここで会ったが百年目、いや50年目だった。とりあえず、当時の応援団・体育会系のやったことが話題になった。日大当局からの体育会系に対する手厚い保証・保護については、2019年の悪質タックル事件を思い起こしてもらえばいい。私は、体育会系の連中が、学生(どっちも学生だが)に対していかにひどいことをしたかを責めた。しかし、この男は、それをやったのは全共闘だ、お陰で主将の指はちぎれたんだ、と反論した。何より、この男は現場にいた。私は日大という場所にいない所からの反論だった。押し問答の様相となった。

 仲裁が入って半端な終わり方になったが、このあと私は反省した。日大闘争の大変な局面はともかく、きっかけとなったのは、東京国税局が暴いた34億円の使途不明金である。また、発覚直後、大学の会計担当主任が自殺したことだ。そのことからどうして話さなかったのか。こいつが裏口入学のあっせんをしていたかどうかは知らない。しかし当時、ひとりあっせんすれば10万円というリベートが、学生には極上のバイトとなっていたのは、この手口を知る連中には公然の秘密だった。日大闘争が起こると、今まで日大卒を「恥じ」としていた埴谷雄高や宇野重吉(寺尾聡のお父さん)たちが、連帯の声明を送る。

 日大闘争が最も端的な「全共闘」だった。私たちは極めて当たり前な疑問を解明しようとした。すると思いがけないほど大きな問題が立ち現れた。これが全国に共通する全共闘の展開だったはずだ。立ち現れたひとつに、私たちが大学の「顔」と思っていた教授たちの、「そんなことは知らない」「生意気を言うな」等という、居丈高で無知な姿勢があった。これが戦後「民主化」されたはずの場所で起きているという事実に、おそらく私たちは驚き呆れたのだ。ベトナム戦争が身近だった当時、私たちが「反戦」を言えば、この連中は「何を甘ったれた」「簡単に戦争反対などど言うな」と言った。今も思うが、終戦、あるいは敗戦を受け止めず、ちゃっかり「戦後/未来」に向き合う男たちは、私たちにむかって「戦争の厳しさも知らないで」と、白い眼をむいた。その姿には、日本の今があるのは誰のお陰だと思ってるかと言いたげな、恥知らずの誇らしさがあった。そうではない、戦争への忌避感に満ちていた女たちのそばに、私たちはいたはずである。

 こうして私たちは、地上から羽ばたいた。しかし、着地点を見出すのは困難だった。私たちは繰り返し「これは違う」「ここではない」と言い続けた気がする。

 

 2 ノンセクト(無党派)≠ノンポリ(我関せず族)

 ここでも日大が分かりやすい。1968年9月30日の大衆団交の席上で、責任を取って「辞める」とした古田会頭の辞任表明が、翌日の首相(佐藤栄作)介入で撤回された。親分とは言っても、たかだか大学の親分の問題に、国の親分が介入した。しかし、日大は「まだいい」。多くの大学での告発は「無視」された。その時どうするのか、私たちの道は分かれた。

 当ブログ114号で書いたことで再検証してみたい。教師たち、あるいは教師を目指した者たちが、その時どうしたか。ひとつに、国から自由ではない学校・教育は要らない、と街頭に「散った」ものたちがいた。逮捕されれば、当然のごとく解雇された。「不当解雇撤回」運動が起きるが、運動の「正当性」を証明するのは革命だけだ。これは「子どもを置き去りにした」運動だったと思える。反戦闘争という視点で言えば「日本では何も出来ない」という「日本を置き去りにする」過激なあり方が、それにあたる。

**たとえば1972年、イスラエルのロッド空港で銃を乱射し、丸腰の民間人を殺した岡本公三たち日本赤軍がそうだった。重信房子が謝罪したのは、それ等の事実に対してである。

大学闘争・教育闘争・反戦闘争、すべてが揺れ動き、分岐を余儀なくされていた。こういう流れに対し、連合赤軍の「あさま山荘事件」やリンチ殺人事件で「失望した」人たちが、急速に運動から遠ざかった、などのエラそうな評論があとを絶たない。何をかいわんや、みそ汁で顔洗って来い、一昨日来い、である。どうせこいつらの大学時代は、闘争に知らぬ顔を決め込んで、「僕たちノンセクトは」などと自らの「ノンポリ性」を人知れず恥じつつ、素顔に頬かむりして来たクソどもに間違いない。弱者がいくら声を張り上げても、それが小さくなる辛さ悲しさを、こいつらは過去においても今も知ることはない。

 私たち、いや私は、言われるところの「絶望の学校」で、子どもたちがどう生きているのか知りたいと思った。そして、子どもたちと共に生きていけるとしたら、それは面白いはずだと思った。いい教育(先生)・悪い教育(先生)が、子どもの将来を決定しているというのは違う、と思った。実際、学校現場に行ってみると、そこには「学校も教師も大嫌い」ではあっても、魅力あふれる生徒・子どもがたくさんいた(もちろん「学校大好き」もたくさんいた。念のため)。「教室では何も出来ない・守れない」と考える以前に、学校現場での現象は複雑な現れ方をした。不愉快なものも多かったが、極めてストレートで気持ちいいものもあった。やっと「場所」を見つけたと、私は思った。

 

 3 「バカヤロウ」という場所

 ビートたけしの作品で、私は『キッズリターン』が一番好きだ。自身のバイクで自爆し、瀕死の重傷を負った後の作品だ。

特に図抜けたワルでもない、学校にして見れば十分厄介だが、他愛のないいたずらで明け暮れる二人の高校生の物語だ。その度に呼び出される職員室では、長々とした説教ー「人として」「社会というものは」ーという、当たり前で分かり切ったフレーズが充満する。「仲間の一杯いる職員室」という空間での、退屈でウソに満ちた在り方こそ二人のいたずらの動機となっていることを、多くの大人(「社会」と言ってもいい)は決して理解することが出来ない。いたずらに対し、ある時はたしなめ、ある時は笑い転げる同級生は、二人を「見守っている」のではない、私たちの「シンパ」と呼んでいたところの「共感」なのだ。

 やがて二人は、ヤクザとボクサーというそれぞれの「道/場所」を見出し、歩み始める。しかし、「退屈とウソ」から決別したはずの二人は、やがて「違う」「ここではない」と思い始める。挫折して戻ったのは、前の学校の校庭だった。寒い校庭を、自転車で二人乗りする姿が切ない。それを窓から見下ろす教師が、「あいつら、まだあんなことやってる」と呆れたように、ざまを見ろとでも言うようにつぶやくのだ。

 

 ☆後記☆

とんでもなく暑い6月が終わり、7月になりました。第27回「うさぎとカメ」、二週間後ですよ~ 天候さえ許せば、なんと公園デビューです!

そして、これは2回目となりますが、「吉野家」さんからのご厚意で、値上がり真っ最中の牛丼の提供となりま~す

これはチラシ裏側。前回のレポートとなります。読んで下さい。近くで(遠くでも)これを読んでる方、いらしてください!

 ☆☆

オオタニさ~ん、やっぱりやりました! 昨日はボールの判定に、少しメンタル乱したかな? そして、あとひとりを投げたかったという気持ち、滲み出てましたね~。でもやっぱりスゴイ! 月間МVP間違いないんだとか。今日は休み。痛めた腰を、ゆっくり直してね!


『ドンバス』 実戦教師塾通信八百十二号

2022-06-10 11:48:49 | 戦後/昭和

『ドンバス』

 ~ウクライナ侵攻・補(8)~

 

 ☆初めに☆

「ユダヤ人問題」を書く予定だったのですが、先週、公開中の映画『ドンバス』を見たら、気が変わりました。

公式ガイドブック表紙。多分「ドンバス」の表記、ウクライナ・ロシア・英語だと思う。

映画の概略を書くことが少し残念なくらい、この冊子に多くの示唆を感じました。監督・セルゲイ・ロズニツィアが、ウクライナ映画アカデミーから除名されたこともそのひとつです。

今や誰も知ることとなったドンバス(ドネツク・ルハンスク(ルガンスク))戦禍の映画。公開が2018年。つまり、ロシアがクリミア半島に侵攻した後のことです。そして、今から4年前の映画です。記録映画と考えた方がいい。

 

 1 プロパガンダ

 ウクライナを追った、あまたの映像がテレビやSNSから流れて来ている。私たちは最近、映像の中の「真実」を確かめるようになっている気がする。たとえば、だいぶ前、ロシア兵の捕虜が「行き先も告げられず、連れて来られたのは戦場だった」ことを告白する様子も、最近の、捕虜になったウクライナ兵の「無理やり戦わされている」という証言も、どっちも「作られたもの」だと思っている。しかし我が国では、ロシア兵の言っていることは「本当」ことで、ウクライナ兵が言っていることは「強制された」ものと報道される。これがプロパガンダだ。

 映画のファーストシーンは、ロケ車で「クマ」の化粧をほどこしている初老の「女優」が登場する。そばには軍服や「浮浪者」の「キャスト」も控えている。爆撃が止んだ頃合いを見計らっての「撮影」は、命がけの仕事に見える。まだ燃えている瓦礫のそばで軍服のキャストは警護役をこなし、市民キャストは恐怖を語る。映画のほとんどはロシアの占領エリアだ。ロシアがひどいフェイク映像を作っている、ということではあるまい。プロパガンダという戦略から考えて、ウクライナにも必要不可欠な、そして実際使っている技術だ。「いい悪い」ではない、必要なのだ。

そして、ラストに同じシーンが登場する。同じロケ車に同じスタッフ。しかし、同じ展開にはならない。そこで悲惨な出来事が起きる。そして今度は別なロケ車が警察や軍隊と共に現れ、出来事の処理と撮影を行うのだ。「知り過ぎた者たち」への、予定通りの行動だと思えた。

 

 2 「ファシスト」

 捕虜のウクライナ兵が「志願兵」と書かれたゼッケンをつけられ、街路樹に括りつけられる。それを見つけた若者のグループが、「ファシストだ」と絡み始める。罵りは、次第に暴力へとエスカレートする。

通りかかった婦人が、数年前に受けた被害を「ファシスト」に対して攻め始める。娘が「帰ろう」と手を引くが聞かない。さらに老婆が加わり、大戦時の恨みつらみを「ファシスト」にぶつける。町の一角は暴徒と化す。私は『罪と罰』(ドストエフスキー)の、絶望の笑いに満ちた執拗な群衆が、馬をなぶり殺す場面を思い出した。やがてロシア兵が群衆を止めにかかる。「武士の情」なのか、いや違う。収容先に戻って「明日もあんな目にあいたいか?」と言われた時、捕虜はその後の尋問に耐えられるだろうか。

 

 3 「新しい場所」

 地下の避難所に、娘がやって来る。私だよと言っても、食料・水を持ってきたと言っても、母親は「見なくても分かる」と言うだけで、見ようともしない。繰り返しの「ここから出よう」という娘の説得は、無視される。見守る周囲も、かたくなな空気を作っている。娘が「戻る場所」が許せないのだ。娘はドアマン付きの立派な車に乗り込んで、職場の「新役所」に戻るのである。

 「新組織」の話。盗難にあった車-三菱のSUVだったーが見つかったと連絡を受けたビジネスマンが、「新組織万歳だよ」と警察で感謝する。ここにサインしてと言われた書類には、車を警察に「委託する」と書いてある。意味が呑み込めないビジネスマンは、問いただし抵抗する。「僕はウクライナでもロシアの味方でもない。政治に興味はない。自分の車を返して欲しいだけだ」と、しごく真っ当なことを言う。しかし「オマエは愛国者か、ファシストか」と言われるだけ。少し考えてこいと言われて外に出ると、そこには「少し考える」多くの人がいる。

 ガイドブックで締めくくろう。

日本版制作陣から、監督・ロズニツィアのプロデューサーに質問をしている。監督名セルゲイ・ロズニツィアはロシア名の直訳なので、ウクライナ語に変更しなくていいでしょうか、というものだ。この回答が私の留飲を下げた。

「私たちはセルゲイの名前を変えるつもりはありません。彼の母国語はロシア語であり、今起きている悲劇は言語に関するものではありません。…………セルゲイは、これまでと同じように母国語を話し、自分の名前を使い続けます。彼がその生涯でソビエト政権と戦い続けてきたように」

 

 ☆後記☆

第26回「うさぎとカメ」来週となりました。

年に二回は作る「焼きそば」。今回は目玉焼きを載せます。ひとり一個焼くんです。結構な手間になると思いますが、頑張ります

裏面には、会食の様子をレポートしました。

 ☆☆

驚きましたね。マドン監督解任! あんなにオオタニさんを理解し愛したマドン監督なのに。それにしてもオオタニさんばかりでなく、エンゼルス全体が湿っぽい。オオタニさんが良く言う「今は我慢の時」かな~

昨日から福島に来てま~す。来週か分からないけど、報告しま~す


情報の磁場 実戦教師塾通信八百十一号

2022-06-03 11:47:48 | 戦後/昭和

情報の磁場

 ~ウクライナ侵攻・補(7)~

 

 ☆初めに☆

今回のプーチンによる侵略行為が、どれだけの断罪に値するかは言うまでもありません。しかし、現在流通しているニュースは、余りにも「ただロシアを叩くため」のもので満ちているとしか思えません。少し冷静に見なおす必要を感じています。

「ホントのことを言ったら、余りにもおバカさん」

とは、懐かしや新谷のり子です。吉本隆明の「固有時との対話」にもありました。言ったら損するだろなア、という気分です。現在直下「戦時の勢い」めいてて、これは問題にしないといけないナと思うものを書いていきます。

 

 1 敵に塩を送る?

 4月にプーチンが「敵対的な国々への輸出を綿密に監視しなければならない」と、穀物・肥料の禁輸に触れた。黒海からの穀物搬出入に関しても、後に同じ提案がされる。しかしこの時は、ロシアで生産された穀物の扱いについてだった。ロシアもウクライナと同様、穀物の有数な生産国であることはご存じの通りだ。すると、このロシア側の「警告」に対し「敵対的国々」が敏感に反応した。その中のひとつ日本もである。曰く、世界の食料事情をおとりに脅(おど)す気か等々。それに対してプーチンは、ロシアに対する経済制裁を解除するなら、禁輸措置を考えなおしても良いと答えた。先も言った通り、この戦争自体が不当なものだ。しかし、不当な侵略行為を行うものに対し、小麦は輸出しなさい、と言えるものなのか。しかもこちらは、ロシアの魚介類・オイル等の輸入制限、ブルトーザー・木材製品の輸出規制、そして資産凍結など幾多の制裁行為を行っている。こちらの制裁が正しくて、先方の制裁が正しくないのは、ロシアの戦争が不当だからだ、というのである。何とも頼りない。オマエたちは戦争をしているのだ分かっているのか、その覚悟はあるのかとプーチンに言われたら、二の句が継げない。

 

 2 「ウクライナ」という場所

 すっかり目論見が外れた「戦勝記念日での対ウクライナ勝利宣言」だったが、5月9日は予定通り盛大なセレモニーがモスクワで行われた。同じくウクライナでも、ゼレンスキーがこの日を祝った。共通するお祝いセレモニーなのだ。世界がドイツ(イタリア・日本も入るのだが)を打倒するために団結した証なのである。簡単にでも、この時期の歴史を振り返らないといけない。ウクライナの独立(正確にはドイツによる占領)は1918年3月、ボリシェヴィキ政権とドイツの間で合意したブレスト講和によっていることは既に書いた。続く第二次大戦の当初、ウクライナはドイツを支援する。この時のドイツとは、反ユダヤ主義の紛れもない「ナチスドイツ」だ。支援の理由は、かつてドイツが、ウクライナをソ連・共産党から解放した(と思った)からだ。しかし、ドイツはウクライナの支援を受けるも、独立を承認せず「占領」へと動く。一方ソ連は、後にイギリス・アメリカとともに連合軍を形成し、ドイツの東部戦線で勝利する。その結果ウクライナは、ソ連の衛星国として甘んじる。しかし、だ。私たちの世代にはおなじみの、ソ連を代表するフルシチョフやブレジネフは、ウクライナ出身であることも思い出しておいた方が良さそうだ。「ウクライナは、古くから私たちの友人だ」とプーチンが言っても盗人猛々しい。しかし歴代指導者もそうだが、ロシアの建国を担ったロス族が最初に打ち立てた都市はキエフ(キーウ)だった。さらに確認すれば、ボリシェヴィキ政権以前のウクライナは、帝政ロシアの「国土」であったことは言うを待たない。帝国ロシアの「ウクライナ地方」だった。

**第二次大戦でのウクライナのちぐはぐと言える態度をフォローするならば、ウクライナは、ソ連側につくものナチスドイツ側につくもの、そして自らの独立のために戦うものという三つに分裂して戦っている。

 戦勝を祝うプーチンは何を間違っているのか。ドイツを降伏させたのはソ連の力ばかりではない、連合軍との協働だったことを忘れている、いや、無視していることだ。「労働者国家」と「官僚国家」の間を揺れた戦後のソ連が、西欧との間に引いた「鉄のカーテン」を守るしもべとして、プーチンがあり続けていることだ。では、ゼレンスキーは何を間違っているのか。ウクライナが、帝国やファシズムと戦って来たわけではないのを無視していることだ。申し訳ないが、避けてはいけないこの過去を、プーチンはもちろんゼレンスキーも触れようとはしない。そして、日本における朝鮮半島の問題のように、もうひとつ東欧・西欧がうまく通過できない問題がある。

 ユダヤ人問題である。

 

 ☆後記☆

「後記」ですが、少し続けます。「同盟」やら「条約」が、すべて自国の都合にあわせて作られて来たことも覚えておきましょうネ。たとえば「独ソ不可侵条約」(1939年)は、とりわけドイツが西部戦線に戦力を集中させるため、「日ソ中立条約」(1941年)はソ連がドイツとの戦いに集中させるためでした。ちっと分け入ってしまいますが、このとき日本は満州・ノモンハンでソ連に大敗(日本は未だに「勝った」としている)してたし、あてこんだ石油が満州では出ないし、おまけにアメリカの対日禁輸政策は目白押しで、ホントに必要な「日ソ」だったんです。両条約ともに、「独ソ」はドイツが、「日ソ」はソ連が一方的に破りましたよね。長くなりました。

我が家のバラです。今年は6輪も咲いて、驚いて喜んでます。

 ☆☆

藤井君、なんと柏で叡王戦の初防衛とは! 柏でやるのは、プロ棋士・石田9段が柏出身であることが理由のようですね。きっと地元の将棋倶楽部が働きかけたのかと。

これが藤井君の勝負メシ、「もろみステーキ」だそうです。この辺の人ならみんな知ってる、野田のイタリアン「コメ・スタ」のメニュー。やっぱり大きなスポンサー、そしてお金が動いてるのだなと、少し興ざめしたのでした。

でも、先着250名で観戦(入場・3000円なり)チケット募集が、システム障害を起こしたとか。いやいや、やっぱり藤井君、いいなあと思ったのです


水海道 実戦教師塾通信八百五号

2022-04-22 11:40:29 | 戦後/昭和

水海道

 ~ウクライナ侵攻・補(4)~

 

 ☆初めに☆

何も出来ない自分が出来ることは、なんでしょう。とりあえず考え続けること、それだけは出来そうです。

注文してあったウクライナのTシャツが届きました。後のタグには「戦争反対」とあります。

日本ばかりではありませんが、プーチンに無関係と思えるロシアへの嫌がらせが広がるのは、私たちがロシアのウクライナ侵攻に何もできない気持ちの、ネガティブな現れではないかと思っています。一方、新聞やニュースで、「キーウ」に「キエフ」が併記されているのも見かけます。また、JR恵比寿駅のロシア語案内標識がブラインドとなるバカな出来事が、抗議によって撤去され元に戻りました。私たちの節度や流儀が試されている気がします。今回は、前回取り上げた「非ロシア化」への疑問を、別な角度から考えます。

 

 1 歴史認識

 ロシアに関することなら全部黒く塗っちまえ、みたいな勢いが幅を利かせている。これはいいことでない、とは前も言った。ウクライナのロシアによる侵略の歴史は、とても昔からのものである。しかし、だ。ロシアから支配されたウクライナがどんな国だったのか、軽薄短小な解説者は語ろうとしない。いや、眼中にないとしか思えない。今はロシアが悪いだけ、それを言えば必要かつ十分と思っている。当ブログの「帝国」で書いた通り、ロシア以外の国々が民主的で、それらが侵されたなんていうバカな歴史はない。貴族や宗主がからまない「共和国」誕生の歴史は新しいし、誕生後も繰り返し覆(くつがえ)されもして来た。覆したのは、ヨーロッパ中を渦巻く「帝国」群だ。民衆はどうしていたのか。彼らが出来たことと言ったら、立派な指導者・支配者が君臨しますように、と願うことだけだった。

 ひとつだけ例を挙げよう。以前書いた、ウクライナ独立の1918年のこと。レーニンが承認したのでなく、追い込まれたロシアの革命政権が、ドイツを筆頭とした帝国同盟に屈して生まれた「ウクライナ独立」のことである。その独立直後のことだ。クーデターが起きる。反ロシア的部分・親ロシア的部分、そして土着していた勢力がもつれ合っていた時でもあったわけだ。「共和国」誕生時点から必然となった内戦である。しかしこのクーデター政権も、大戦でドイツが敗北した結果(断るが、ナチスドイツではありません)、ソビエトとなったロシア政権の手が、再び伸びる。間違いないのは、人々が戦争に翻弄(ほんろう)されたことだけだ。ヨーロッパ全体がろくでもない時代だった。今ばらまかれているメディアに、そういう基本的な歴史認識はない。ロシアが悪い、それだけ。悪いです、もちろん。でも、ろくでもないヨーロッパだったと、そういうひと言が要るのだ。

 

 2 ヨーロッパの闇

 この項は、前回の「オデッサ」を「オデーサ」と一律化するばかばかしさの続きだ。

 『一般的にして理性的なる文法』を冠した「ポールロワイヤル文法」について語ります。すると、オ、やっぱり国語の先生、みたいな「賞賛」が来る。全然違います。こんなこと「いわゆる国語の先生」には全く縁がない。大学のそれも、数少ない「言語学」「言語哲学」の講座にしか存在しない。1660年に発表されたものである。まず、この本の締めの言葉。

「我々の言語は明晰さと、もっとも自然で、かつもっとも支障のない語順をもって能(あた)うるかぎり事物を表現することを格別に好む……。それにも拘わらず、それと同時に、我々の言語は美しさと優雅さとにおいていかなる他の言語にも劣りはしないのである」

「我々」とはフランスのこと。フランスやヨーロッパにいたく劣等感をお持ちの方は、この圧倒的・断定的・優越的な結句にうなってしまうのだろうか。ヨーロッパの在り方を、これほどまではっきり言い表す文章は少ない。言語の多様性をかくまで否定する傾向は、もちろん民族の多様性をも否定する。以前引用したと思うが、エンゲルスの、

「民族の残骸、民族のくずは、完全に根絶やしになるまでは反革命の狂信的な担い手である……。というのも、そもそもその存在そのものが、偉大な歴史的革命に対する反抗だからである」(『ライン新聞』)

という通り、民族には選ばれしものとそうでないものがある。エンゲルスはマルクスとともに「万国の労働者団結せよ!」とは言ったけれど、「世界の民族団結せよ!」とは言わなかった。

 言語も多様であっては「いけない」という歴史を、ヨーロッパは重ねて来た。ラテン語がまず挙げられていいし、フランス語がその後全面化する。今やラテン語は、バチカン周辺にしか残っていないとされる。進んだ文明を担う言語だけが使われ、他の遅れた「未開」「野蛮」な文明の言語は消えないといけないのである。フランスに行くと、英語を使っても相手にしてくれないという話は良く聞くが、街頭での「他民族」への扱いも似た様相を見せる。パリに滞在していた友人山本氏の話もそうだったが、ガクト(Gackt; 旧MALICE MIZERのボーカルで日本人)が空いてるレストランで奥の暗い座席に案内され激怒した、なんという話もある。簡単なことだ。ロシアの理不尽な行為を憤怒するあまり、ロシア語(ロシア料理然り)を排斥する愚を犯してはならない。ヨーロッパ、いや、選ばれしものの落とし穴が、そこに待っている。

 私たちも胸に手を当てれば思い当たる。明治期に始まった「標準化運動」は、身体操作や服装、そして言語に至る広範なものだ。ナンバ式歩行や裸での生活が、矯正され排される。そして「方言」の駆除である。この方言排斥の戦略となるものは何か。「恥じ」である。今も綿々と続くこの「恥じ」の戦略のおかげで、方言とそれが取り持つ文化は、遠慮がちに顔を出す。

 「茨城」を、なぜか茨城の行政は「イバラキ」と読ませたがっている。「宮城」と同じ「ギ」で「イバラギ」ではいけないのか、いつも根拠を知りたいと思っている。はっきり分かるのは「水海道」。以前は「ミツカイドウ」と言っていたのが、いまは漢字表記の通りというのだろう、「ミズカイドウ」と変えられた。しかし、漢字の「水」はあとで当てられたのは間違いない。この界隈の街道は海から続く。「御津海道(ミツカイドウ)」だったはずだ。「標準」=選ばれしものへの「恥じ」と「忖度」は、日本のいまここでも、続いている。

 

 ☆後記☆

第24回「うさぎとカメ」報告で~す。こんな感じ。場所が会議室だったので、向こうに会食コーナーを設置しました。手前にちらし寿司の用意。ここで配膳とお持ち帰りの詰めの作業です。見ての通り、ふた組に分かれてやったのですが、皆さん、行列することになりました。ありがたいことです。会食コーナーでゆっくりする中から、子どもの泣き声が聞こえてました。ホントに「子ども食堂」なんです。皆さんの姿をお届けできないのが残念です。

おそらく前の写真より20分ぐらい前の写真です。お隣での仕込みは、追い込みの最中。記録係がもうひとり。

いつもお米を届けてくださる近所の方。今回、野菜を届けてくれたはぴねす農園さん。そして、たくさんのお客さん、この場を借りて、ありがとうございました


オデッサ 実戦教師塾通信八百三号

2022-04-08 11:12:09 | 戦後/昭和

オデッサ

 ~ウクライナ侵攻・補(3)~

 

 ☆初めに☆

予定では福島レポートの続編だったのですが、ニュース上で連日話題となっている「オデッサ」に、はやる気持ちが抑えられません。予定を変更して、ウクライナ5回目のレポートに変更します。

天神岬のおひざ元にある、天神様です。背中を向けての罰当たりなショットですが、次回の掲載をお約束して、この場でご挨拶いたします。

 

 1 君主・王の時代

 ウクライナ黒海沿岸、クリミア半島の西にある港・オデッサの名前が、ロシア語読みからウクライナ読みの「オデーサ」になったという。キエフは「キーウ」になった。これには、考えておくことがある気がしている。

この地図は、ロシア帝国の終わり間近、革命直前のものだ。黒海北側のほとんどが旧ロシアである。プーチンが「ウクライナは私たちの兄弟のような存在だ」という意味が、ここに示されていると言ってもいい。ロシアの南下政策は、クリミア戦争よりずっと古い昔からあったことは、すでに書いた。この帝国ロシアが、1905年の日露海戦に敗れる。喜んだのは、周辺「帝国」の王侯貴族や将軍だ。民衆にとって、威張り腐ったこいつらが居座るのに変わりなかった「帝国」の時代だったことを、私たちは肝に銘じておいた方がいい。ついでだが、南下政策は、ロシアばかりでなくドイツもやってたし、オーストリアは大帝国の夢よもう一度だった。かつてのロシアの大罪をあげつらうニュースだが、周辺の帝国事情も忘れちゃいけない。

 さて、この喜びの一端を味わったのが、ロシアの農民・労働者だった。前に書いた「血の日曜日」が、この年の1月に起こり、国内は風雲急を告げていた。日露海戦で、当代きってのバルチック艦隊が敗れた。ロシア帝国の没落が、人々に垣間見えたわけだ。これが5月だった。国内にこの衝撃が大きく波紋を広げた6月、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員が叛乱を起こす。

 

 2 オデッサの階段

 この叛乱は、エイゼンシテイン監督の『戦艦ポチョムキン』に詳しい。字幕とBGMの無声映画だ。きっかけは、出されたシチューの肉が腐っていたからだという。横柄横暴な上官と劣悪な待遇に、それまでたまっていた不満を水兵が爆発させた。そして、ポチョムキンを水兵が「解放」する。社会主義者がまったく関与しない叛乱だったと言われる。

 「血の日曜日」以降、ロシアは民衆のデモや労働者の争議が、全土で渦巻いた。クリミアのオデッサも例外でなかった。デモや陳情には容赦ない武力攻撃が加えられた。軍の攻撃から逃げ惑う人々、母親が乳母車と一緒にオデッサの海岸へ逃げた。その背中をとらえた銃弾が母親を倒し、乳母車から引き離す。母親を失った乳母車が、赤子を載せたまま階段を転げていく。こんなことが、115年後の現在起こっているのは間違いない。乳母車が落ちていく様子が何度も繰り返し映し出される、この有名なシーンが『オデッサの階段』と呼ばれる。映画では、このあと戦艦ポチョムキンの主砲が、陸上の軍本隊に向け火を噴く。ポチョムキン「解放」の高揚と犠牲者を悼んで映画は終わるが、実際の解放はわずか一週間だ。その後ポチョムキンは、なすすべなく「制圧」されるのである。

 今あちこちでやられている「非ロシア化」に大いに不満だ。各国でロシア料理店が被害にあう、なんて「反ロシア」は論外にしても、馴染んだ習慣や文化に対して、紛れもなく不用意・不寛容に対処している。ウクライナを、当事国読みに近い「ウクライーナ」にした方がいいのではないか、と日本で議論されたのは3年前だ。結局もとのままとなった経緯は良く知らないが、私たちの世代に馴染みのある「ドネツ」が、いつの間にか「ドネツク」となっていたことには、未だ違和感が伴っている。まず、東欧の国々のどこにもロシア人がいる。そして、そこに根付いた習慣や文化がある。しかし、ロシア人=ロシア派ではない。2014年の前からもあったルガンスクやドネツクでの衝突は、ロシア派と反ロシア派で行われる。しかし、ロシア人=ロシア派ではない。ロシア人の反ロシア派は、ロシア派と戦うのだ。つまり、ロシア語を話す「反ロシア」の人々は、オデッサを「オデッサ」と言っているはずだ。これが「オデーサ」になる。世界の共通音として、足並みをそろえて「オデーサ」になる。プーチンへの断罪から来るのだろうが、いいことであるわけがない。

 

 3 侵略者の定め

 この場でもうひとつ。「民間人の殺害行為は国際法違反」というやつ。この国際法とやら、おそらく戦後に制定されたものだろう。良く言うよ。アメリカのベトナムでやった大量虐殺ってどうなる? 日本の南京での虐殺もだ。南京での「30万人」は眉唾ものだというのはいいとしよう。一万人ならいいのかと言ってもいい。そして、この時は国際法がなかったからいいのだ、と反論があるのか興味のあるところだ。あの時私たちは間違ったことをした、いまロシアがやってることは、かつて私たちが犯した間違いを繰り返している、やめなさい、というならいいだろう。でも、言えるわけがない。奇跡的にベトナムの友好国となったアメリカだが、未だ謝罪をしていない。

 そのベトナムでの話だ。破壊しつくし無人と化したはずの所に足を踏み入れると、壁に銃を構えた民兵が待ち受けており、木陰からは槍が降って来る。村や町には憎悪のまなざしに満ちた人々があふれており、民間人や兵隊の区別もつかなかった。その結果、無差別、いや、パニック状態での乱射につながる。これが侵略者の定めだ。侵略されるものには侵略者の姿は明快なのに、侵略する側は「撃っていいもの悪いもの」が分からない。隠れた相手に驚き恐れ、動くものなら猫や犬まで射殺する。これが侵略者の定めだ。もちろん、プーチンのロシアがそうだ。

 

 ☆後記☆

そのうち話題に上らないかと思っているのが、このクリミア半島にある「ヤルタ」です。大戦後の勢力圏分割をめぐる話し合いを、イギリスのチャーチル・アメリカのルーズベルト・ソ連のスターリン三者が、ここで話し合ってヤルタ協定が結ばれる。要するにクリミア半島って要衝だったのですね。

桜さん、今年もありがとう! これは手賀沼ジョギングロード、ビジターセンター近くです。同じく、下の写真は愛車とともに。

新学期スタートしました。昨日すれ違った、礼服のお母さんとピカピカの制服がまぶしかった~ ゆっくり、ゆったりと行こうネ