【前編からの続き】
何といっても木曽の宿です。
殊に中央線の汽車が開通してからは、此処らの宿も寂れたという事を聞いていましたが、まったく夜は静かです。
此処の家も昔は大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜も私達の他には泊まり客も無いようでした。
店の方では、まだ起きているのでしょうが、何の物音も聞えず森閑としていました。
家の構えは中々大きいので、風呂場はずっと奥の方に在ります。
長い廊下を渡って行くと、横手の方には夜露の光る畑が見えて、虫の声が切れ切れに聞える。
昼間の汽車の中とは違って、此処らの夜風は冷々と肌に沁みる様です。
こういう時に油断すると風邪を引くと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠った様な灯の光が見える。
それが風呂場だなと思った時に、一人の女が戸を開けて入って行くのでした。
薄暗い所で、その後ろ姿を見ただけですから、勿論詳しい事は判りませんが、どうも若い女であるらしいのです。
それを見て僕は立ち止りました。
どうで宿屋の風呂であるから、男湯と女湯の区別が有ろう筈は無い。
泊り客か宿の人か知らないが、何れにしても婦人――殊に若い婦人が夜更けて入浴して居る所へ、僕のような若い男が無遠慮に闖入するのは差控えなければなるまい――こう思って少し考えていると、何処かで人の啜り泣きをする様な声が聞える。
水の流れの音かとも思ったのですが、どうもそれが女の声らしく、しかも風呂場の中から洩れて来るらしいので、僕も少し不安を感じて、そっと抜足をして近寄って、入口の戸の隙間から窺うと、内は静まり返っているらしい。
たった今、一人の女が確かに此処へ入った筈なのに、何の物音も聞えないというのはいよいよおかしいと思って、入口の戸を少し開け、また少し開けて覗いてみると、薄暗い風呂場の中には誰も居る様子は無いのです。
「はてな?」
思い切って戸をがらりと開けて入ると、中には誰も居ないのです。
何だか薄気味悪くもなったのですが、此処まで来た以上、つまらない事を言って唯このままに引っ返すのは、西田さんの手前、あまり臆病者の様にも見えて決まりが悪い。
どうなるものかと度胸を据えて、僕は手早く浴衣を脱いで、勇気を振るって風呂場に入りましたが、彼の女の影も形も見えないのです。
「俺は余程頭の具合が悪いらしい…」
風呂に心持良く浸りながら僕は自分の頭の悪くなった事を感じたのです。
震災以来、どうも頭の調子が狂っている。
神経も衰弱している。
それが為に一種の幻覚を視たのである。
その幻覚が若い女の形を見せたのは、西田さんの娘二人の事が頭に刻まれているからである。
姉は十九で、妹は十六であると言う。
その若い二人の生死不明という事が自分の神経を強く刺戟したので、今此処でこんな幻覚を見たに相違ない。
啜り泣きの様に聞えたのはやはり流れの音であろう。
昔から幽霊を見たと言う伝説も嘘ではない。
自分も今此処で所謂幽霊を見せられたのである。
こんな事を考えながら、僕はゆっくりと風呂に浸って、今日一日の汗と埃を洗い流して、酷くさっぱりした気分になって、再び浴衣を着て入口の戸を内から開けようとすると、足の爪先に何か触る物が有る。
俯いて透かして見ると、それは一つの指輪でした。
「誰かが落して行ったのだろう」
風呂場に指輪を落したとか、置き忘れたとか、そんな事は別に珍らしくもないのですが、此処で僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女の事です。
勿論、それは一種の幻覚と信じているのですが、丁度その矢先に若い女の所持品らしいこの指輪を見出したという事が、なんだか子細有り気にも思われたのです。
ただしそれはこっちの考え方にも因るもので、幻覚は幻覚、指輪は指輪と全く別々に引き離してしまえば、何にも考える事も無いわけです。
僕は兎も角もその指輪を拾い取って、元の座敷へ帰って来ると、留守の間に二つの寝床を敷かせて、西田さんは床の上に坐っていました。
「やっぱり木曽ですね。九月でも更けると冷えますよ」
「まったくです」と、僕も寝床の上に坐りながら話し出しました。
「風呂場でこんな物を拾ったのですが……」
「拾い物……なんです?お見せなさい」
西田さんは手を伸ばして指輪を受け取って、燈火の下で打ち返して眺めていましたが、急に顔の色が変りました。
「これは風呂場で拾ったんですか?」
「そうです。」
「どうも不思議だ、これは私の総領娘の物です」
僕はびっくりした。
それはダイヤ入りの金の指輪で、形は有触れた物ですが、裏に「みつ」と平仮名で小さく彫ってある。
それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。
「なにしろ風呂場へ行ってみましょう」
西田さんは、直ぐに起ちました。
僕も無論付いて行きました。
風呂場には誰も居ません。
そこらにも人の隠れている様子は有りません。
西田さんは更に店の帳場へ行って、震災以来の宿帳を一々調査すると、前にも言う通り、此処の宿屋は近来殆ど片商売の様になっているので、平生でも泊まりの人は少ない。
殊に九月以来は休業同様で、時々に土地の青年団が案内して来る人達を泊めるだけでした。
それは皆東京の罹災者で、男女合せて十組の宿泊客が有ったが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とは全然相違しているのです。
念の為に宿の女中達にも聞き合せたが、それらしい人相や風俗の女は一人も泊まらないらしかった。
ただ一組、九月九日の夜に投宿した夫婦連れが在る。
これは東京から長野の方を回って来たらしく、男は三十七八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であったと言う事です。
この二人がどうして此処へ降りたかと言うと、女の方がやはり僕と同じ様に汽車の中で苦しみ出したので、拠所無く下車して此処に一泊して、明くる朝早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。
女は真っ蒼な顔をしていて、まだ本当に快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にも何か頻りに言い争って居たらしいというのです。
単にそれだけの事ならば別に子細も無いのですが、此処に一つの疑問として残されているのは、その男が大きい鞄の中に宝石や指輪の類を沢山入れていたという事です。
当人の話では、自分は下谷辺の宝石商で家財は皆灰にしたが、僅かにこれだけの品を持出したとか言っていたそうです。
したがって、宿の者の鑑定では、その指輪はあの男が落して行ったのではないかと言うのですが、九月九日から約十日の間も他人の眼に触れずに居たというのは不思議です。
また、果してその男が持っていたとすれば、どうして手に入れたのでしょう。
「いや、そいつかも知れません。宝石商だなんて嘘だか本当だか判るもんですか。指輪を沢山持っていたのは、大方死人の指を切ったんでしょう」と、西田さんは言いました。
僕は戦慄しました。
成る程飛騨に居る時に、震災当時そんな悪者の在ったという新聞記事を読んで、よもやと思っていたのですが、西田さんのように解釈すれば、或いはそうかと思われない事もありません。
それはまずそれとして、僕として更に戦慄を禁じ得ないのは、その指輪が西田さんの総領娘の物であったという事です。
こうなると、僕の眼に映った若い女の姿は単に一種の幻覚とのみ言われないようにも思われます。
女の泣き声、女の姿、女の指輪――それが皆縁を引いて繋がっている様にも思われてなりません。
それとも幻覚は幻覚、指輪は指輪、何処まで行っても別物でしょうか。
「なんにしても良い物が手に入りました。これが娘の形見です。貴方と道連れにならなければ、これを手に入れる事は出来なかったでしょう」
礼を言う西田さんの顔を見ながら、僕はまた一種の不思議を感じました。
西田さんは僕と懇意になり、またその僕が病気にならなければ、此処に下車して此処に泊まる筈は有るまい。
一方の夫婦――彼らが西田さんの推量通りであるならば――これもその女房が病気にならなかったら、恐らく此処には泊まらずに行き過ぎてしまったであろう。
彼らも偶然に此処に泊まり、我々も偶然に此処に泊まり合せて、娘の指輪はその父の手に戻ったのである。
勿論それは偶然であろう。
偶然と言ってしまえば、簡単明瞭に解決が付く。
しかしそれは余りに平凡な月並式の解釈であって、この事件の背後にはもっと深い怖ろしい力が潜んでいるのではあるまいか。
西田さんもこんな事を言いました。
「これは貴方のお蔭、もう一つには娘の魂が私達を此処へ呼んだのかも知れません」
「そうかも知れません」
僕は厳かに答えました。
我々は翌日東京に着いて、新宿駅で西田さんに別れました。
僕の宿は知らせておいたので、十月の半ば頃になって西田さんは訪ねて来てくれました。
店の職人三人は段々に出て来たが、後一人はどうしても判らない。
兎も角も元の所にバラックを建てて、この頃漸く落ち着いたと言う事でした。
「それにしても、女の人達はどうしました?」と、僕は訊きました。
「私の手に戻って来たのは、貴方に見付けて頂いた指輪一つだけです」
僕はまた胸が重くなりました。
…地震は恐い。
天災はどれも恐いが、中でも地震は頗る恐い。
己の足下が崩れる恐怖は、他に例えようも無いだろう。
最近関東では揺れが頻繁に続いているが…まぁ元より大陸プレートが沈む上に在る国、何時になるかは判らぬが、海に没するのが運命というもの。
近く関東大震災が起きた九月一日がやって来る…ゆめゆめ用心怠らないで居る事だ。
それにしても指輪が父に届いた偶然は何なのだろう?
いや、話中のK君も語っているが、単なる「偶然」と流して良いものだろうか……
…今夜の話は、これでお終い。
おやおや、また貴殿の隣に居た者が、器だけを残して消えている。
それとも見えないだけで、「居る」のかも知れないがね。
今夜は送り盆だ、忘れず火を焚いて送るように…でないと貴殿の傍にずっと居ついてしまうよ。
さてそれじゃあ…蝋燭を1本吹消して貰えるかい。
……有難う。
どうか気を付けて帰ってくれ給え。
――いいかい?
夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
風呂に入ってる時に、足下を見ないように。
そして、夜に貴殿の名を呼ぶ声が聞えても、決して応えないように…。
では御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
参考、『異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集、其ノ二 ―指輪一つ―(原書房、刊)』。
何といっても木曽の宿です。
殊に中央線の汽車が開通してからは、此処らの宿も寂れたという事を聞いていましたが、まったく夜は静かです。
此処の家も昔は大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜も私達の他には泊まり客も無いようでした。
店の方では、まだ起きているのでしょうが、何の物音も聞えず森閑としていました。
家の構えは中々大きいので、風呂場はずっと奥の方に在ります。
長い廊下を渡って行くと、横手の方には夜露の光る畑が見えて、虫の声が切れ切れに聞える。
昼間の汽車の中とは違って、此処らの夜風は冷々と肌に沁みる様です。
こういう時に油断すると風邪を引くと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠った様な灯の光が見える。
それが風呂場だなと思った時に、一人の女が戸を開けて入って行くのでした。
薄暗い所で、その後ろ姿を見ただけですから、勿論詳しい事は判りませんが、どうも若い女であるらしいのです。
それを見て僕は立ち止りました。
どうで宿屋の風呂であるから、男湯と女湯の区別が有ろう筈は無い。
泊り客か宿の人か知らないが、何れにしても婦人――殊に若い婦人が夜更けて入浴して居る所へ、僕のような若い男が無遠慮に闖入するのは差控えなければなるまい――こう思って少し考えていると、何処かで人の啜り泣きをする様な声が聞える。
水の流れの音かとも思ったのですが、どうもそれが女の声らしく、しかも風呂場の中から洩れて来るらしいので、僕も少し不安を感じて、そっと抜足をして近寄って、入口の戸の隙間から窺うと、内は静まり返っているらしい。
たった今、一人の女が確かに此処へ入った筈なのに、何の物音も聞えないというのはいよいよおかしいと思って、入口の戸を少し開け、また少し開けて覗いてみると、薄暗い風呂場の中には誰も居る様子は無いのです。
「はてな?」
思い切って戸をがらりと開けて入ると、中には誰も居ないのです。
何だか薄気味悪くもなったのですが、此処まで来た以上、つまらない事を言って唯このままに引っ返すのは、西田さんの手前、あまり臆病者の様にも見えて決まりが悪い。
どうなるものかと度胸を据えて、僕は手早く浴衣を脱いで、勇気を振るって風呂場に入りましたが、彼の女の影も形も見えないのです。
「俺は余程頭の具合が悪いらしい…」
風呂に心持良く浸りながら僕は自分の頭の悪くなった事を感じたのです。
震災以来、どうも頭の調子が狂っている。
神経も衰弱している。
それが為に一種の幻覚を視たのである。
その幻覚が若い女の形を見せたのは、西田さんの娘二人の事が頭に刻まれているからである。
姉は十九で、妹は十六であると言う。
その若い二人の生死不明という事が自分の神経を強く刺戟したので、今此処でこんな幻覚を見たに相違ない。
啜り泣きの様に聞えたのはやはり流れの音であろう。
昔から幽霊を見たと言う伝説も嘘ではない。
自分も今此処で所謂幽霊を見せられたのである。
こんな事を考えながら、僕はゆっくりと風呂に浸って、今日一日の汗と埃を洗い流して、酷くさっぱりした気分になって、再び浴衣を着て入口の戸を内から開けようとすると、足の爪先に何か触る物が有る。
俯いて透かして見ると、それは一つの指輪でした。
「誰かが落して行ったのだろう」
風呂場に指輪を落したとか、置き忘れたとか、そんな事は別に珍らしくもないのですが、此処で僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女の事です。
勿論、それは一種の幻覚と信じているのですが、丁度その矢先に若い女の所持品らしいこの指輪を見出したという事が、なんだか子細有り気にも思われたのです。
ただしそれはこっちの考え方にも因るもので、幻覚は幻覚、指輪は指輪と全く別々に引き離してしまえば、何にも考える事も無いわけです。
僕は兎も角もその指輪を拾い取って、元の座敷へ帰って来ると、留守の間に二つの寝床を敷かせて、西田さんは床の上に坐っていました。
「やっぱり木曽ですね。九月でも更けると冷えますよ」
「まったくです」と、僕も寝床の上に坐りながら話し出しました。
「風呂場でこんな物を拾ったのですが……」
「拾い物……なんです?お見せなさい」
西田さんは手を伸ばして指輪を受け取って、燈火の下で打ち返して眺めていましたが、急に顔の色が変りました。
「これは風呂場で拾ったんですか?」
「そうです。」
「どうも不思議だ、これは私の総領娘の物です」
僕はびっくりした。
それはダイヤ入りの金の指輪で、形は有触れた物ですが、裏に「みつ」と平仮名で小さく彫ってある。
それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。
「なにしろ風呂場へ行ってみましょう」
西田さんは、直ぐに起ちました。
僕も無論付いて行きました。
風呂場には誰も居ません。
そこらにも人の隠れている様子は有りません。
西田さんは更に店の帳場へ行って、震災以来の宿帳を一々調査すると、前にも言う通り、此処の宿屋は近来殆ど片商売の様になっているので、平生でも泊まりの人は少ない。
殊に九月以来は休業同様で、時々に土地の青年団が案内して来る人達を泊めるだけでした。
それは皆東京の罹災者で、男女合せて十組の宿泊客が有ったが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とは全然相違しているのです。
念の為に宿の女中達にも聞き合せたが、それらしい人相や風俗の女は一人も泊まらないらしかった。
ただ一組、九月九日の夜に投宿した夫婦連れが在る。
これは東京から長野の方を回って来たらしく、男は三十七八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であったと言う事です。
この二人がどうして此処へ降りたかと言うと、女の方がやはり僕と同じ様に汽車の中で苦しみ出したので、拠所無く下車して此処に一泊して、明くる朝早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。
女は真っ蒼な顔をしていて、まだ本当に快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にも何か頻りに言い争って居たらしいというのです。
単にそれだけの事ならば別に子細も無いのですが、此処に一つの疑問として残されているのは、その男が大きい鞄の中に宝石や指輪の類を沢山入れていたという事です。
当人の話では、自分は下谷辺の宝石商で家財は皆灰にしたが、僅かにこれだけの品を持出したとか言っていたそうです。
したがって、宿の者の鑑定では、その指輪はあの男が落して行ったのではないかと言うのですが、九月九日から約十日の間も他人の眼に触れずに居たというのは不思議です。
また、果してその男が持っていたとすれば、どうして手に入れたのでしょう。
「いや、そいつかも知れません。宝石商だなんて嘘だか本当だか判るもんですか。指輪を沢山持っていたのは、大方死人の指を切ったんでしょう」と、西田さんは言いました。
僕は戦慄しました。
成る程飛騨に居る時に、震災当時そんな悪者の在ったという新聞記事を読んで、よもやと思っていたのですが、西田さんのように解釈すれば、或いはそうかと思われない事もありません。
それはまずそれとして、僕として更に戦慄を禁じ得ないのは、その指輪が西田さんの総領娘の物であったという事です。
こうなると、僕の眼に映った若い女の姿は単に一種の幻覚とのみ言われないようにも思われます。
女の泣き声、女の姿、女の指輪――それが皆縁を引いて繋がっている様にも思われてなりません。
それとも幻覚は幻覚、指輪は指輪、何処まで行っても別物でしょうか。
「なんにしても良い物が手に入りました。これが娘の形見です。貴方と道連れにならなければ、これを手に入れる事は出来なかったでしょう」
礼を言う西田さんの顔を見ながら、僕はまた一種の不思議を感じました。
西田さんは僕と懇意になり、またその僕が病気にならなければ、此処に下車して此処に泊まる筈は有るまい。
一方の夫婦――彼らが西田さんの推量通りであるならば――これもその女房が病気にならなかったら、恐らく此処には泊まらずに行き過ぎてしまったであろう。
彼らも偶然に此処に泊まり、我々も偶然に此処に泊まり合せて、娘の指輪はその父の手に戻ったのである。
勿論それは偶然であろう。
偶然と言ってしまえば、簡単明瞭に解決が付く。
しかしそれは余りに平凡な月並式の解釈であって、この事件の背後にはもっと深い怖ろしい力が潜んでいるのではあるまいか。
西田さんもこんな事を言いました。
「これは貴方のお蔭、もう一つには娘の魂が私達を此処へ呼んだのかも知れません」
「そうかも知れません」
僕は厳かに答えました。
我々は翌日東京に着いて、新宿駅で西田さんに別れました。
僕の宿は知らせておいたので、十月の半ば頃になって西田さんは訪ねて来てくれました。
店の職人三人は段々に出て来たが、後一人はどうしても判らない。
兎も角も元の所にバラックを建てて、この頃漸く落ち着いたと言う事でした。
「それにしても、女の人達はどうしました?」と、僕は訊きました。
「私の手に戻って来たのは、貴方に見付けて頂いた指輪一つだけです」
僕はまた胸が重くなりました。
…地震は恐い。
天災はどれも恐いが、中でも地震は頗る恐い。
己の足下が崩れる恐怖は、他に例えようも無いだろう。
最近関東では揺れが頻繁に続いているが…まぁ元より大陸プレートが沈む上に在る国、何時になるかは判らぬが、海に没するのが運命というもの。
近く関東大震災が起きた九月一日がやって来る…ゆめゆめ用心怠らないで居る事だ。
それにしても指輪が父に届いた偶然は何なのだろう?
いや、話中のK君も語っているが、単なる「偶然」と流して良いものだろうか……
…今夜の話は、これでお終い。
おやおや、また貴殿の隣に居た者が、器だけを残して消えている。
それとも見えないだけで、「居る」のかも知れないがね。
今夜は送り盆だ、忘れず火を焚いて送るように…でないと貴殿の傍にずっと居ついてしまうよ。
さてそれじゃあ…蝋燭を1本吹消して貰えるかい。
……有難う。
どうか気を付けて帰ってくれ給え。
――いいかい?
夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
風呂に入ってる時に、足下を見ないように。
そして、夜に貴殿の名を呼ぶ声が聞えても、決して応えないように…。
では御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。
参考、『異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集、其ノ二 ―指輪一つ―(原書房、刊)』。