瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第90話―

2009年08月27日 21時18分52秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
夜は涼しくても、昼はまだまだ暑いね。
歩いていると汗が背中にじんわり溜まって気持ち悪い。
近くに海が在れば、頭から飛び込んでる所だよ。
貴殿は今年の夏、海へ出掛けただろうか?
今夜と明日の夜は、海に纏わる怪談をお届けしよう。

これは鹿児島の漁師の間で囁かれている話だ。




この地の漁船が沖へ出て行く時、或る瀬の傍で流れ人(水死体)に出会った。
それは長い間波に揉まれていたらしく、すっかり腐乱し切って酷い有様だった。

漁師は出漁の途中であったのと、気味が悪いのとで、死人に此処で待って居れと言い沖へ出たものの、いざ漁が終わると、流れ人をすっぽかしてしまおうと大迂回して戻って来た。

しかし流れ人はこれを見抜いたのか、その途中で待っていたので大いに驚き、謝って連れ戻った事が有ったと言う。

漁師達が話すには、兎に角流れ人と言うものは、根性が有るらしい。

例えば到底人の力では取り出す事の出来ないような、荒磯の岩の間に挟まれている流れ人が在る時は、「とても取り出す事は出来ぬから、こっちへ来てくれ」と死体に言えば、直ぐにすうすうと此方へ流れて来るものだと、この土地の人は言う。




…鹿児島の漁師の間での話と紹介したが、福岡や長崎の漁師の間でも同様な噂が流れている。
常識で考えるなら、死んだ身体に魂は無く、残っているのは抜け殻の筈である。

だが人はそうは考えない。

悲運な事故や、思い詰めての入水なら、生への執着は元の身から易々と離れはしないだろうと考えるのだ。
「柄杓をくれ」と口々に喚いて生者を引き擦り込もうとする船幽霊しかり、海に棲む魔物が恐ろしいのも道理だろう。


今夜の話は、これでお終い。
さあ…蝋燭を1本吹消して貰えるかな。

……有難う。

それでは気を付けて帰ってくれ給え。

――いいかい?

夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
風呂に入ってる時に、足下を見ないように。
そして、夜に貴殿の名を呼ぶ声が聞えても、決して応えないように…。

御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。




『現代民話考3巻―偽汽車・船・自動車の笑いと怪談―(松谷みよ子、編著 ちくま文庫、刊)』より。
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