瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第78話―

2009年08月15日 20時55分31秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
台風が去って真夏がやって来たね。
冷たい物が恋しくて仕方ないだろう。
今夜はところてんを用意しておいたよ。
冷えた寒天を硝子の小鉢の中、麺の様に細切りに突き出して、酢醤油とからしで戴くのが定番だと思っていたが、仙台ではシロップ漬けで食うのが決まりだと聞いた事が有る。
それで酢醤油と甘いシロップ、好みの方を選べるよう、両方を用意しておいたのだが…所変れば味も変るものだね。

さて今夜も岡本綺堂の作で、盆に相応しく燈籠に纏わる怪談を語ろうと思う。
とは言えあの有名な、夜毎通いにやって来る幽霊を主題にした、「牡丹燈籠」の様な怪談ではない。




嘉永初年の事である。
四谷塩町の亀田屋という油屋の女房が熊吉と言う小僧を連れて、市ヶ谷の合羽坂下を通った。
それは七月十二日の夜の四つ半(午後十一時)に近い頃で、今夜は此処らの組屋敷や商人店を相手に小さい盆市が開かれていたのであるが、山の手の事であるから月桂寺の四つの鐘を合図に、それらの商人も皆店を閉まって帰って、路端には売れ残りの草の葉等が散っていた。

「商いを終えたら、後片付けをせずに帰っちまうなんて…罰当たりだねえ」

こんな事を言いながら、女房は小僧に持たせた提灯の火を頼りに暗い夜路を辿って行った。
町家の女房が寂しい夜更けに、どうして此処らを歩いて居るかというと、それは親戚に不幸が有って、その悔みに行った帰り路であった。
本来ならば通夜をすべきであるが、盆前で店の方も忙しいので、所謂半通夜で四つ過ぎにそこを出て来たのである。
月の無い暗い空で、初秋の夜更けの風が冷々と肌に沁みるので、女房は薄い着物の袖を掻き合せながら路を急いだ。
一時か半時前迄は土地相応に賑わっていたらしい盆市の後も、人一人通らない程に静まっていた。
女房が言う通り、市商人は碌々に後片付けをして行かないと見えて、そこらには萎れた鼠尾草(みそはぎ)や、破れた蓮の葉等が穢ならしく散っていた。
唐もろこしの殻や西瓜の皮等も転がっていた。
その狼藉たる中を踏み分けて、二人は足を早めて来ると、三、四間先に盆燈籠の影を見た。
それは普通の形の白い切子燈籠で、別に不思議も無いのであるが、それが往来の殆ど真ん中で、しかも土の上に据えられてあるように見えたのが、この二人の注意を引いた。
「熊吉。御覧よ。燈籠はどうしたんだろう?おかしいじゃないか」と、女房は小声で言った。
小僧も立ち止った。

「誰かが落して行ったんでしょうか?」

落し物にも色々有るが、切子燈籠を往来の真ん中に落して行くのは少しおかしいと女房は思った。
小僧は持っている提灯を翳して、その燈籠の正体を確かに見届けようとすると、今まで白く見えた燈籠が段々に薄赤くなった。
さながらそれに灯が入った様に思われるのである。
そうして、その白い尾を夜風に軽く靡かせながら、地の上からふわふわと舞い上がって行くらしい。
女房は冷たい水を浴びせられた様な心持になって、思わず小僧の手をしっかりと掴んだ。

「ねえ、お前。どうしたんだろうね…?」
「どうしたんでしょう…」

熊吉も息を呑み込んで、怪しい切子燈籠の影をじっと見つめていると、それは余り高くも揚がらなかった。
精々が地面から三、四尺程の所を高く低く揺らめいて、前に行くかと思うと又後の方へ戻って来る。
ちょっと見ると風に吹かれて漂っている様にも思われるが、仮にも盆燈籠程の物が風に吹かれて空中を舞い歩く筈も無い。
殊に薄明るく見えるのも不思議である。
何かの魂がこの燈籠に宿っているのではないかと思うと、女房はいよいよ不気味になった。
今夜は盂蘭盆の市で、夜ももう更けている。
しかも今まで新仏の前に通夜をして来た帰り路であるから、女房は尚更薄気味悪く思った。
両側の店屋は何処も大戸を下ろしているので、いざという場合にも駈け込む所が無い。
彼らはそこに立竦んでしまった。
「人魂かしら?」と、女房はまた囁いた。
「そうですねえ」と、熊吉も考えていた。

「いっそ引っ返そうかねえ」
「後へ戻るんですか?」
「だって、お前。気味が悪くって行かれないじゃあないか」

そんな押問答をしている内に、燈籠の灯は消えた様に暗くなった。
と思うと、五、六間先の方へゆらゆらと飛んで行った。
「きっと狐か狸ですよ。畜生!」と、熊吉は罵るように言った。
熊吉は今年十五の前髪であるが、年の割には柄も大きく、力も有る。
女房もそれを見込んで今夜の供に連れて来た位であるから、最初こそは燈籠の不思議を怪しんでいたが、段々に度胸が据わって来て、彼はこの不思議を狐か狸の悪戯と決めてしまった。
彼は提灯の光でそこらを照らしてみて、路端に転がっている手頃の石を二つ三つ拾って来た。

「あれ、お止しよ!」

危ぶんで制する女房に提灯を預けて、熊吉は両手にその石を持って、燈籠の行方を睨んでいると、それがまた薄明るくなった。
そうして、向きを変えてこっちへ舞い戻って来たかと思うと、あたかも火取り虫が火に向って来る様に、女房の持っている提灯を目がけて一直線に飛んで来たので、女房はきゃっと言って提灯を投げ出して逃げた。

「畜生!」

熊吉はその燈籠に石を叩き付けた。
慌てたので、第一の石は空を打ったが、続いて投げつけた第二の礫は燈籠の真っ唯中に当って、確かに手応えがしたように思うと、燈籠の影は吹き消した様に闇の中に隠れてしまった。
その間に、女房は右側の店屋の大戸を一生懸命に叩いた。
彼女はもう怖くて堪らないので、何処でも構わずに叩き起して、当座の救いを求めようとしたのであった。
一旦消えた燈籠は再び何処からか現れて、あたかも女房が叩いている店の中へ消えて行く様に見えたので、彼女はまたきゃっと叫んで倒れた。
叩かれた家では容易に起きて来なかったが、その音に驚かされて隣りの家から四十前後の男が半裸体の様な寝巻姿で出て来た。
彼は熊吉と一緒になって、倒れている女房を介抱しながら自分の家へ連れ込んだ。
その店は小さい煙草屋であった。
気絶こそしないが、女房はもう真っ蒼になって動悸のする胸を苦しそうに抱えているので、亭主の男は家内の物を呼び起して、女房に水を飲ませたりした。
漸く正気に返った女房と小僧から今夜の出来事を聞かされて、煙草屋の亭主も眉を寄せた。

「その燈籠は間違い無く隣りの家へ入りましたかえ?」

確かに入ったと二人が答えると、亭主はいよいよ顔を顰めた。
その娘らしい十七八の若い女も顔の色を変えた。
「成る程、そうかも知れません」と、亭主はやがて言い出した。

「それはきっと隣りの娘ですよ」

女房はまた驚かされた。
彼女が身を固くして相手の顔を見詰めていると、亭主は小声で語った。

「隣りの家は小間物屋で、主人は六年ほど前に死にまして、今では後家の女主が、小僧一人と女中一人と共に、慎ましやかに暮らしては居ますけれど、他に貸し家等も持っていて、中々裕福だと言う事です。ところが、お貞さんと言う一人娘……今年十八で、私の家の娘とも子供の時からの遊び友達で、容貌も悪くなし、人柄も悪くない娘なのですが、半年ほど前にもこんな事が有りました。
 何でも正月の暗い晩でしたが、やはり夜更けに隣りの戸を叩く音が聞える、私は眼敏いもんですから、何事かと思って起きて出ると、侍らしい人が隣りのおかみさんを呼出して何か話している様でしたが、やがてそのまま立去ってしまったので、私もそのままに寝てしまいました。すると、明くる日になって、隣のお貞さんが家の娘にこんな事を話したそうです。
 『私は昨夜位怖かった事は無い。何でも暗いお堀端の様な所を歩いて居ると、一人のお侍が出て来て、いきなり刀を抜いて斬りつけようとする。逃げても、逃げても、追っ駆けて来る。それでも一生懸命に家まで逃げて帰って、表口から転げるように駈け込んで、まあ良かったと思うと夢が覚めた。そんなら夢であったのか。どうしてこんな怖い夢を見たのかと思う途端に、表の戸を叩く音が聞えて、おっ母さんが出てみると、表には一人のお侍が立っていて、その人の言うには、今此処へ来る途中で往来の真ん中に火の玉の様な物が転げ歩いて居るのを見た』……」

聞いている女房はまたも胸の動悸が高くなった。
亭主は一と息吐いてまた話し出した。

「そこでそのお侍は、きっと狐か狸が俺を化かすに相違ないと思って、刀を抜いて追い回している内に、その火の玉は宙を飛んで此処の家へ入った。本当の火の玉か、化物か、それは勿論判らないが、なにしろ此処の家へ飛び込んだのを確かに見届けたから、念の為に断って置くとか言うのだそうです。隣の家でも気味悪がって、すぐにそこらを検めてみだが、別に怪しい様子も無いので、お侍にそう言うと、その人も安心した様子で、それならば良いと言って帰った。お貞さんも奥でその話を聞いていたので、寝床から抜出してそっと表を覗いてみると、店先に立って居る人は自分がたった今、夢の中で追い回された侍そのままなので、思わず声を上げた位に驚いたそうです。
 お貞さんは家の娘にその話をして、『これが本当の正夢というのか、なにしろ生れてからあんなに怖い思いをした事は無かった』と言ったそうですが、お貞さんよりも、それを聞いた者の方が一倍気味が悪くなりました。その火の玉というのは一体何でしょう。お貞さんが眠っている間に、その魂が自然に抜け出して行ったのでしょうか。それ以来、家の娘はなんだか怖いと言って、お貞さんとはなるたけ附合わないようにしている位です。そういう訳ですから、今夜の盆燈籠もやっぱりお貞さんかも知れませんね。小僧さんが石をぶつけたと言うから、お貞さんの家の盆燈籠が破れてでもいるか、それともお貞さんの体に何か傷でも付いているか、明日になったらそれとなく探ってみましょう」

こんな話を聞かされて、女房もいよいよ怖くなったが、まさかに、此処の家に泊めて貰うわけにもいかないので、亭主には篤く礼を言って、怖々ながら此処を出た。
家へ帰り着く迄に再び火の玉にも盆燈籠にも出逢わなかったが、彼らの着物は冷汗が絞れる程に塗れていた。

それから二、三日後に、亀田屋の女房は此処を通って、この間の礼ながらに煙草屋の店へ立寄ると、亭主は小声で言った。

「全く相違有りません。隣りの家の切子は、石でも当った様に破れていて、誰がこんな悪戯をしたんだろうと、おかみさんが言っていたそうです。お貞さんには別に変った事も無い様で、さっきまで店に出ていました。なにしろ不思議な事も有るもんですよ」

「不思議ですねえ」と、女房もただ溜息を吐くばかりであった。

この奇怪な物語はこれぎりで、お貞と言う娘はその後どうしたか、それは何にも伝わっていない。




…一種の生霊の類に思えるが、その姿は無く燈籠だけがふわふわと見えるのは、イメージしてみるに妖しく恐ろしい。
離魂病と言って、魂が勝手に体から抜け出るのは、意外に有ると聞く。
そして一度でも抜け出ると、癖になってしまうそうだから、貴殿も気を付けられるが良い。
昨夜の夢で、誰かに追われやしなかったかい?


…今夜の話は、これでお終い。
さあ…蝋燭を1本吹消して貰えるかな。

……有難う。

気が付けば、また貴殿の隣が、器だけ残して、消えて居なくなっているね。
これもひょっとすると、誰かの魂が迷い出て来たのかもしれない。

出口はこちらだ、気を付けて帰ってくれ給え。

――いいかい?

夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
風呂に入ってる時に、足下を見ないように。
そして、夜に貴殿の名を呼ぶ声が聞えても、決して応えないように…。

それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているからね…。




参考、『影を踏まれた女―岡本綺堂怪談集―(光文社、刊)』。
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