千の天使がバスケットボールする

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「夜と霧の隅で」北杜夫著

2010-11-14 17:14:55 | Book
「たちこめた夜霧のせいばかりではなかった」

演奏家にとって、音楽を演奏する時は最初のフレーズで聴衆の心を惹き付けることが重要であるように、作家は小説の書き出しの1行はこだわり才能とセンスを注ぐべきだろう、、、というのが私の自論。「夜と霧の隅で」というタイトルそれ自体が、暗い、重い、寒いの三重苦を小説や映画に求める私にとっては充分に関心をそそられるのだが、この最初の一行は、軽い衝撃すら感じられるくらいの芥川賞作品にかなう文章である。第二次世界大戦末期、ドイツ南部の郊外にある世間から孤立した精神病院。そこで暮らす知能のたりないこども、肢体が不自由なこども、奇形のあるこどもたちが次々と夜霧にまぎれて、輸送用トラックに積み込まれていく。1933年、ナチスは「遺伝子孫防止法」を制定するや、ユダヤ人を排斥するための「国民血統法」、さらに「婚姻保護法」が翌々年に制定され、遺伝性精神病者の断種手術が行われた。その手術数は56000件以上にも及ぶ。その自然な流れとして、ナチスは不治の精神病者に安死術を施すことを決定する。「民族と戦闘において益のない人間」を対象に。カール・ケルセンブロックが勤務する州立精神病院にも、とうとうその指令を携えたナチスがやってきたのだったが。。。

モチーフこそはナチス・ドイツの人間の尊厳を犯した蛮行にあるのだが、作品の主題はこれまで語りつくされた戦争やナチスではなく、そのような状況下におかれた対比する一精神科医の苦悩と精神、人間存在の不安にある。患者に、誰にも変わることができないひとりの人間に、治療不可能というレッテルをはられて選別される前に、何とか医学的な治癒のわずかな曙光を求めて、医師達は奮闘する。辻から描写力が優れていると評価されていた北らしく、脳溢血で倒れる院長をはじめ、医長のフォン・ハラス、太っちょのラードブルフ、女医のヴァイゼ、若いゼッツラーと主人公のケルセンブロック、そして物語で重要な役割を果たすタカシマという日本人の患者がリアリティをもって読者にせまってくる。そうだった、水産庁の漁調査船に船医として五ケ月の航海に出た動機は、我らが憧れのトーマス・マンをうんだドイツへ行きたいという願いだったそうだが、ドイツ滞在の経験がないにも関わらずまるでドイツ人によるドイツの小説を読んでいるような感覚になってくる。解説の埴谷雄高によると私たちの精神の傾向を大まかに求心型と遠心型にわけると、訪れたこともない場所を背景に作品を書く特徴のある北は、遠心型になるそうだが、仮説空間で可能性の多様さを示した、これもひとつの文才だろう。また、治療効果がではじめて希望がもてるようになったタカシマの最後にとった行動は、予見しながらも人間の矛盾をつきつけられたような気がする。全体に暗闇と孤独を帯びながらも、わずかな抒情も漂っていて、最後のひっそりとした文章の閉じ方も見事に完結している。

北杜夫という作家を私は知らなかった。歌人の斎藤茂吉の次男。「どくとるマンボウ」シリーズで一躍人気作家になった精神科医にして躁鬱病の作家、などなど、周辺知識はそれなりにあるが、肝心の本は一冊も読んだことがなかった。青年時代の辻邦生との往復書簡集「若き日の友情」を読んで、「どくとるマンボウ」で大当たり、更に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞した北が、先輩格の辻に多くのアドバイスをしてなんとか辻にも作家としての道を見つけるよう考えているのだが、その内容の辻の作品に対する批評やら心がまえなどのアドバイスが、実に的確なのである。作家としての有能さが、ラフスケッチのような手紙の文章からも伝わってきた。本書を読んでその期待を裏切られなかったばかりか、久しく手ごたえを感じることがなかった日本のこれぞ”純文学”との邂逅を堪能した。

■アーカイブ
・。辻邦生との往復書簡集「若き日の友情」