![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/e1/6ea1e82b2d49f3b1d683a29cf32870aa.jpg)
そんな映画に一過言をもっているオンナたちをいたく満足させてくれるイタリア人監督といえば、まずルキノ・ヴィスコンティ。シチリアを舞台に同時代のイタリア貴族の落日と新興勢力の日の出を書いたランベドゥーサの「山猫」を映画化したヴィスコンティの作品と対をなすかのように、フェデリコ・デロベルトの小説「副王たち」を映画にしたのがロベルト・ファエンツア監督である。副王家の豪奢な暮らしぶりを描くための資金集めに11年もの歳月をかけた本作品は、久々のイタリアらしい美意識が隅々まで行き届いた女性好みの映画だったが、貴族への哀愁をただよわせた自身も貴族出身のヴィスコンティ監督による「山猫」とは、描き方が異なる。そして、アラン・ドロンに代表されるヴィスコンティ好みの目がさめるくらいの超美形俳優ではなく、ファエンツァ監督はリアリティのある俳優たちを起用している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/c9/43527a72014726b493f894a87d2d1958.jpg)
映画の舞台になった素晴らしい屋敷は、なんとウゼダ家が実際に暮らしていた城だという。(現在は、美術館や博物館になっている。)彼らの非常に豊かな暮らしぶりが映画から伝わってきて芸術品のような美しさが目と心の保養にもなるのだが、ヴィスコンティが貴族社会への回顧主義的な惜別で時代を肯定した一方、本作品ではユーモラスなタッチで貴族たちのしたたかだが保守的な思想からぬけられない様子をあぶりだしている。その愚の骨頂ともいえるハイライトがテレーザのおぞましいくらいの結婚式である。ファエンツァ監督は、その風貌から察せられるとおりの社会派だった。そして、驚くほど教会の偽善が暴かれていることも見逃してはならない。公開当時、本国では議論をよんだそうだが、日本人の私でもここまで描くかと感心したくらいである。また、今回、この映画製作の台所事情を知ってわかったのが、イタリアでは9割が国とテレビ局で映画製作の資金を提供しているそうだ。当然、政府や教会を批判する内容の映画化は困難、というよりもNGである。しかし、ラッキーにもテレビ局内で権力闘争が勃発して、その隙を突いて企画が通って実現したのがこの映画である。なかなか反骨精神のある監督にとっては、だから19世紀の階級社会も現代の保守性にもつながり、よくも悪くもイタリアは変わっていない。
ところで、塩野氏のご子息のアントニオさんはグローバル不況のあおりを受け、失業中とのこと。イタリアでも映画製作で食べていくのもなかなか大変なんだ。この続きは、対談集の「ローマを語る」で続編の幕を開ける予定。
監督:ロベルト・ファエンツア
2007年イタリア・スペイン製作
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます