千の天使がバスケットボールする

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『カラヴァッジョ』

2010-03-06 16:46:16 | Movie
1610年7月、カラヴァッジョは死刑宣告(bando capitale)に対する恩赦への期待を胸に、フェルッカ船に自作3点を含むわずかな荷物を積んでナポリを出発して北上する。途中、ローマに近いテヴェレ河口のパロで、誤ってスペイン官僚に逮捕され荷物も没収されてしまう。多額な保釈金を積んでかろうじて釈放されるも、灼熱の太陽に焼かれるように描きかけの作品を求めて海岸をさまよい、ついに熱病によって客死した。今、イタリアで一番いい男のアレッシオ・ボーニが、広く喧伝されているカラヴァジョの最後の姿を渾身の演技力で演じきった。映画『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』のラストシーンは、1571年に生まれたバロック美術の先駆者としてだけでなく、西洋美術史において最も大きな革命を起こした天才画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)の神話と批判をドラマチックに盛り上げている。自然に忠実だった画家が、あたかも太陽に近づき過ぎたイカロスや水鏡に魅了されたナルキッソスのように、自然に復習されたのだと人はいう。それは、宗教が望む古典的な理想を拒否し、自然を師とした画家の末路にふさわしいとも。しかし、カラヴァッジョがポルト・エレコレで亡くなったのは事実だが、実際は地元のサンタ・クローチェ同信会で手厚く看護されて息をひきとったのだった。にも関わらず、明暗を劇的に処理した彼のテネブリズムそのものが、世間とあいいれない閉塞的な性格と孤独で悲劇的な運命にそっているのも、また事実であろう。

映画を振り返りながら、名古屋大学出版会から宮下規久朗氏の著書「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」をガイドブックに、血と暴力の絵の具の匂いが破滅型の生涯についてまわったカラヴァッジョの人生をたどりたいと思う。

1577年、「聖カルロのペスト」で父を失った一家は、画家の通称となるカラヴァッジョに移住するが、84年にカラヴァッジョはミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノと4年間の徒弟契約を結び、ここでルミニスムや現実的な写実主義を学び、激しいバロック的表現を目にすることになる。やがて、生涯に渡って援助の手を差し伸べてくれることになる父の勤務先だったコロンナ家のコスタンツァ侯爵夫人の協力をえて、92年ローマにでる。ミラノで起こした殺人などを含むトラベルから離れるため、そして当時のローマが空前の建築ブームでヨーロッパ中の美術家を集めていたという機運もあった。当初はパンドルフォ・プッチのもとに奇遇して宗教画の模写制作をしていたが、生涯の友人であり初期の作品のモデルともなった画家のマリオ・ミンニーティ(パオロ・ブリグリア)と知り合ったカラヴァッジョは、ローマで最大の名声を誇るカヴァリエール・ダルピーノの工房に入るもののわずか8ヶ月で辞めてしまっている。どんな名声も彼の器には工房は小さかったということだろうか。ダルピーノが所蔵していた《病めるバッカス》は、当時の自画像だ。その後、《いかさま師》に目をとめたフランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の庇護を受けて、宮殿パラッツォ・マダーマに移り住む。映画では、宮殿の芸術性に驚きながらも窓から差し込む光と影のコントラストに胸をはずませて喜ぶカラヴァッジョの姿がある。この頃の彼は少年をモデルにした《リュート弾き》《女占い師》といった寓意的な風俗画を好んで描いている。

1599年には、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂壁画の注文を受けて制作した《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》は、その写実主義と劇的な明暗効果でローマ画壇に衝撃をもたらし、カラヴァッジョの名前は一朝にしてローマ中にとどろき、公的な宗教画の注文に恵まれ、代表的な美術愛好家のためにも多くの作品を残す飛躍の年になる。しかしながら、映画では異端審問で火刑に処せられたドミニコ会修道士ジョルダーノ・ブルーノの姿を観ながら描いた《聖マタイと天使》は、現実的過ぎると受け取りを拒否されて改作せざるをえなかったことから、時代の先端をいく画家の革新性がもたらす不運も感じられる。こうした鬱屈も災いしたのか、1601年頃から呑み歩きながら喧嘩、器物破損、武器不法所持、公務執行妨害など軽犯罪を繰りかえす問題児ぶりをおおいに発揮してサンタンジェロ城の監獄を出たり入ったりと、犯罪記録に画家の名前が頻出するようになる。1603年8月、カラヴァッジョが自分に不名誉な狂歌を作ったとして、画家バリオーネが訴訟を起こした名誉毀損裁判の記録には、小さな狭い画家の世界で実力に自信をもつ彼が凡庸な画家に大きな仕事を奪われた嫉妬と憎悪が見られるそうだ。奇矯で凶暴な性格ながら、友人や仲間に恵まれたのは映画のとおり。才能だけでなく、人をひきつける魅力もあったのだろう。女性関係もそれなりに充実して?レーナをめぐって公証人パスクアーロに斬りつけてジェノバに逃亡。この件は、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の仲裁で示談となるも、不在時の家賃滞納により財産差し押さえにあい、怒って窓に投石をしてまた訴えられもした。

1606年5月29日の運命の日。映画では愛する女性のための決闘となっているが、日ごろから対立していたグループとの賭けテニスの得点争いの喧嘩から、はずみでラヌッチオ・トマッソーニを殺してしまい、とうとう死刑宣告が出される。この布告は、その後の彼を不断に苛みつつ南イタリアを転々とさせることとなる。コロンナ家の領地に逃げ隠れて《エマオの晩餐》《マグダラのマリアの法悦》を描いて逃走資金を得たカルヴァッチョは、侯爵夫人の息子とともにマルタ島に渡り、彼の推薦もあって、聖ヨハネ騎士団の団長の庇護を受けながら肖像画を描くことで名誉ある騎士団への入会を果たす。ここで描いた歴史に残る《洗礼者ヨハネの断首》だけでなく、多くの傑作をうんだ漂白時代はまさに画家の芸術の円熟期でもあった。死刑を宣告された画家の作品には精神的な高まりすら感じられる。しかし、その栄光もつかのま、8月のある晩、身分の高い騎士を仲間とともに襲撃してまたもや逮捕される。何故こんなに軽率なのかっ、映画を観ていてつい叱りたくもなるではないか。運よくコロンナ家とつながりのある監獄の責任者ジローラモの手引きで脱獄に成功して、断崖絶壁の監獄から小舟で今度はシチリア島のシラクーサに渡る。

ここでかっての盟友の画家ミンニーティの世話をうけサンタ・ルチア聖堂に《聖女ルチアの埋葬》を描く。パレルモでは《生誕》を描き、10月再びナポリに渡った画家は、居酒屋チェリーリオの前で何者かに襲撃されて瀕死の重傷を負う。ここで《ダヴィデとゴリアデ》など彼が残した作品群は地元の美術界を活性化して大いに刺激し、17世紀ナポリ派は黄金時代を迎えることとなる。そして罪から逃れて転々とする画家の最後の旅は、冒頭に書いたとおり。亡くなった遺骨はサン・セヴァスティアーノ聖堂の墓地に埋葬された。人生の蹉跌を味わい、犯した罪の深さと悔恨に焦燥の日々を送る画家が流浪したイタリアの地は、今でもまぶしいばかりの太陽に輝く。光が強くなれば、闇が濃くなるように画家の精神も画風のとおりに深まっていった。
”あなたはあなたの絵と同じ。光の部分は限りなく美しいのに、闇は罪深い”
皮肉にも埋葬された直後に、待望の恩赦が出されたのであった。

監督:アンジェロ・ロンゴーニ
2007年 イタリア・フランス・スペイン・ドイツ合作映画

■こんなアーカイヴも
~美の巨人たち~カラヴァッジョ「聖マタイの召命」
『輝ける青春』
『13歳の夏に僕は生まれた』
そして、宮下規久朗氏の「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」へ続く


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