旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

古代カルタゴの遺跡ケルクアン

2019-03-13 14:30:53 | チュニジア
これはなに?↓

「これは浴槽でこんな風にして入ったんだよ」とガイドのシュクリさん

↓小松も入ってみました

「せ、狭い…」
入ってみて分かったのは、古代カルタゴ人にとってどれだけ水が大事だったかということ。
カルタゴはローマの様な巨大水道は持たなかった。
雨水と湧水を活用するやりかたで、しかも海辺のこの立地で、どのぐらいの量の水が確保できていたのだろうか。

それでも発掘された家のほとんどすべてに、小さくはあってもこんな浴槽があった。

↓浴室の窓から海なんて見えなかっただろうけれど

↓ある家の見取り図↓2番の黒丸が井戸(溜めた水を汲みあげる)その右上4番が浴槽

↑8番がキッチンと推察されている
↓どの家も同じような水回りだったのがわかる



水がとても貴重であっても、中世ヨーロッパのように「風呂に入らないでよい」とは思わなかったのか。
古代カルタゴ人、えらい。

↓これは貴重な飲み水を溜めた場所と推察されている


↓だから円形の窪みも(どこかのサイトが言っていたような)「公衆浴場」などでは決してない↓

陶器を焼いた窯だったのは明らか↓

この町は人口二千人ぐらいで、漁師と(主に陶器の)職人と商人の街だった。

★発掘調査によりこの町の最も古い部分は紀元前六世紀ごろにさかのぼり
戦争による二度の破壊をうけ、その後は誰も住まずに埋もれたと考えられている。
☆一度目の破壊は紀元前310年のギリシャとの紛争時
シチリアのシラクーサからやってきたアガクレトスによって
☆二度目の破壊は紀元前256年のローマとの紛争=いわゆる第一次ポエニ戦争
ローマの執政官マルクス・アティリウス・レグルスによって
後日譚:このレグルスは翌紀元前255年にチュニスの戦闘で敗れ、カルタゴの捕虜となる。
保釈されてローマ元老院に講和の使者に出されたが、カルタゴの命令とは逆に徹底抗戦の演説をした。約束を破ったのだからただではすまない。カルタゴの牢にもどることはないと引きとめるローマ本国をふりきってカルタゴに戻ったレグルスは、やはり拷問の末に殺されたとされる。※この殺され方が読んだ資料で全部異なっていた


このケルクアンの遺跡はローマに破壊された後に再建されなかった。
だからだろうか、神殿だったと思われる場所にはギリシャ以前の神「タニト」のシンボルがモザイクで残されている




ここは1960年代にフランス人の釣り人が偶然発見するまで、破壊されたままのカルタゴの都市が残っていためずらしい場所である。
古代での街の名前はTamerzratだったと推察されているが、現在の遺跡は近くの地名からケルクアンになっている。

↓細い道から広い道へ出るところにあった「車止め?」


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ケリビア要塞

2019-03-13 11:56:23 | チュニジア
チュニジアには塩水湖が多い

塩水湖にはフラミンゴが好むエビがいる

ピンク色が集まった浅瀬
**
ボン岬を北上していくと丘の上に威圧的な砦が見えてきた↓

現在見えているのはビザンチン時代からのものをイメージして復元しているそうな

↓現在も軍の管轄下にある

それでも観光客に公開している

車を止めて城内へ

1960年代末に発掘と修復が行われて、ローマ以前のカルタゴの遺構も見つかった

二重になった城壁の中へ

くぐって入ると↓

突然ぽかんと開けた草原に出た

丘の上の城塞の内側はこんなだった

中心にはしかし、柱の跡が復元されている↓

異なる時代の遺跡が重なっている場合、どの時代をイメージして復元作業をするのかがいつも問われる。
チュニジアの場合はやはりカルタゴの時代のものを「見えるかたちで復元したい」という思いがあると感じる↓この柱もローマ以前のカルタゴの神バール・ハモンとタニトの神殿だったと考えられている↓

チュニス近郊のカルタゴ遺跡でも見たように、カルタゴ時代の神殿にはボン岬先端の石切り場からもってきた砂岩が使われている。
ここでも砂岩の大きな塊で構築された構造が見つかっている↓この階段も

↓この下に見えている石積みも、カルタゴ時代のもの↓

↓ビザンチン時代6世紀に建造されたという城壁も、基部の石はあるいはカルタゴ時代のものかもしれない↓

↓現役の灯台が乗っている

十分ほどでぐるりと回れてしまう城壁
↓よくみると、かつてはかなり大規模な建物があったのが分かる

↓第二次大戦中の1943年の4月に、
ドイツが占領していたこの要塞を、三機の英軍機が激しく爆撃したのだと資料に書かれていた。
爆撃される前まではビザンチン時代の名残もだいぶんあったのかしらん

まぁ、爆撃で破壊されなければ地下深くの古代カルタゴ遺跡に陽が当たることもなかったのかもしれないが。

↓白い建物は軍の通信施設だそうな

最初はなにもない草原のように見えた場所も、いろいろな時代の事物が細部にたくさん詰まっていた

↓いつごろ切られた巨木?

↓工事の人がなにかを一生懸命つくっている

ガイドさんに訊ねると、「勤務している兵隊さんのためのモスクをつくっている」のだそうだ。
アラブ時代のモスク跡をもう一度現役復帰させているのか。歴史はまだまだ継がれている。
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ハマメットの色

2019-03-13 09:30:00 | チュニジア

パウル・クレーも、きっとこんな色を見ていたのだ

カルタゴ空港に到着してすぐに、その「色」の素晴らしさに魅了された。

この朝、ハマメットの街の色はそれを思い出させた。

ハマメットはトルコ語の「ハマム」という言葉からきているそうだ

地中海沿岸はギリシャもチュニジアも同じような光に満ちている



路地を抜けて小さな浜辺に出た。角の庇のある小さな扉は画家のアトリエだった↓






↓二階への階段

↓窓から青い海の色が入ってくる




こんな絵を買いました

***
14から15世紀、オスマントルコ時代に築かれた四百メートル四方の城壁を出て
海沿いの道を歩く(これはもちろん現代になってからつくられた道)

最初に車を止めた小さなロータリーに戻った。セイレーン?の像がある↓

↓良いお天気なのでカフェで休憩しよう

おだやかな日の射すからりとした海辺

ハマメットはボン岬の付け根にあるので大きな湾になって対岸の山がうっすら見える↓

後から知ったのだけれど、このカフェは町の歴史的な場所にもなっている有名店なんだそうな

「あと一か月もすれば観光客でいっぱいになるよ。今朝はとっても良い時にきたねぇ」

屋内の海に向かってならんだテーブルの前に↓横長に水平線が

↓今、一部が改修しているところ。もっと現代的なカフェになってしまうようです


****
カフェを出ると、漁師さんが捕ってきたばかりのサカナを売っていた↓

こういう場所に買いに来ているのは男性ばっかりのチュニジア。
↓イカはどこでたべてもとてもおいしかった


ボン岬を北上して古代カルタゴの遺跡ケルクアンへ向かう。
通常のツアーでは必ず入っている陶器の街ナブールはやめて、途中でケリビアの要塞に寄ることにした。





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スースのメディナを歩く

2019-03-12 18:24:45 | チュニジア
****
スースのメディナ(旧市街)はこのリバトのある港に向かう斜面に位置している。
先に訪れたカスバ(これは「要塞」という意味)からスーク(市)の階段をおりてきた。
↓カスバに近いBAB GHABI(西門)外にあるスースの紋章

今回のガイドシュクリさんの出身はこのスースで姓はGHABIという。長くこのスースの西門の外に住んできた一族なのだそうだ。

「子供のころ、この階段の入口の店に母とよく訪れたよ」と、懐かしそうに話してくれた↓
今は空き家になっている

↓「ここは昔水場だったのだよ」

↑今は水など出ていないが、噴水だったのか

子供のころ自分が遊んだ通りを、半世紀の後外国人を案内するというのはどういう気持ちなのだろう。



アラブの市場はとにかくぎっしり品物がならべてある↓




↓サッカーグッズのお店にて






↓安ホテルもある


我々は新市街のホテル泊。
バスで海岸エリアをちょっとだけドライブ↓

↓南仏とはちょと違う雰囲気


***
日本のグループが他にも泊まっていたホテル

夕食を定番のバッフェにしたくなかったので、12階にある展望のよいアラカルトのレストランへ行った。
夕暮れ、高台のカスバの塔が灯台の光をぐるぐる放射しているのがみえた↓






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スースのリバトと塔

2019-03-12 15:00:00 | チュニジア
7世紀イスラムの首都カイロアン(ケロアン)を内陸20㎞ほどに控える港スースは、654年にイスラム王朝の支配下に入ってから特に重要になった。

そこを守るために造られた要塞は修道士の住居を兼ねていたのでこのribatの名前で呼ばれる。街で最も古い塔↓

8世紀にはすでにあったという↓

スースの港はビザンチン帝国(=東ローマ帝国)との最前線にあたり、常に臨戦態勢が敷かれていた。

キリスト教からイスラム教の統治下となり、土地の私有や売買は禁止。酒もゲームも音曲さえ禁止されたそうだ。「リバト」はスラム教神秘主義修行僧の修道場をあらわす言葉でもある。

かつての監視塔に、今も頂上まで登ることができる。




↓「ムラード(修道士)」戦士が住んだ中庭が見下ろせる↓

となりのグランド・モスクの中庭を俯瞰↓港も遠くない↓

360度カメラで撮ってみた(^_^;)

↓中庭をを囲む二階の南側はモスクとしてつかわれていたのだ↓


↓狭い入口左右二本の柱は古代遺跡の再利用だろう。もとは落とし格子があったそうだ。

↓少し離れてみると


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