旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

鄭成功は利用される。 赤崁楼の「贔屓」と「両面碑文」

2024-03-12 06:58:05 | 台湾
清朝の皇帝から↑鄭成功を祀る廟をつくる勅令が送られた箱が天井から下げられていた↑
中に入っていた文↓

鄭成功は明朝最後の皇帝に忠誠を誓い、
清朝と対決した人物。
清の皇帝がそれを祀ろうとするのは不思議。
「鄭成功は清朝の時代にも、台湾では密かに崇拝され続けていたのです」
「台湾の統治を成功させるために、清朝の官僚だった沈葆楨が鄭成功崇拝を認める方が得策だと勧めたのです。清朝にも知恵のある臣下がいたのです」
と、ガイドさん。
↑沈葆楨の名前が左の最後の行に見える↑
★帰国後、さらに教えていただいた↓
「1874年薩摩藩台湾出兵事件の後の台湾に赴任、台湾の内政体制の検討や国防強化など、台湾の現代化に貢献の大きい方です。
異族統治者である清国が台湾漢民族移民と親近感を築くため、民族の英雄(※注:明朝は漢民族の王朝だった)として崇められる鄭成功にお宮を作ることを朝廷に奏請しました。そのほか、中国から台湾へ移民規制の解禁、1876年に新しい自治体の台北府を設置、山岳地帯の開発+原住民を漢化させるなど台湾に大きな影響をもたらした政策を立てました。」

この当時の清朝は(実質西大后が牛耳った)光緒帝の時代。
↑上の勅状にも冒頭にその名前が見える※光緒元年は1876年。
我々日本人は、清朝は台湾を発展させる気などなかったようにイメージしているが、やる気と能力ある官僚もいたのだ。
この沈葆楨という人物をもう少し知ってみたくなった。


日本敗戦の後を統治した国民党も↑鳥居の上に青天白日旗を掲げて鄭成功の廟はそのままにした。
民衆への人気取りだった。
16世紀に台湾島を実質独立国として統治した鄭成功は、
台湾島を統治する政権に、いつも利用されている。


鄭成功は長崎平戸の日本人女性田川マツと、明朝に仕えた貿易商(あるいは私掠船)の鄭芝龍との間に生まれた。
平戸の田川家跡には中華門が立っている。
※平戸を訪れた時のブログにリンクします

祭壇の後ろには、母・田川マツの位牌↑通常ならば父のものだが、父の鄭芝龍は清朝方に寝返ったとされるから置かれない。

↓日本統治時代「開山神社」だったころの神前具↓木魚も見える

2019年に訪れた時には逆さに展示されておりました※リンクします

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オランダが建設した要塞を引き継ぐ「安平古堡」へ
2020年2月に訪れた時とはずいぶん展示が変わっていた。
※2020年のブログにリンクします

四年前になかったのは↑先住民が鹿を狩っていた展示。

鹿は昔から台湾島に生息していた。
その皮は日本で特に武具の材料として愛用されていたので、

↑東インド会社が台湾から日本へ大量に輸出していたそうな。

↑「大員」が当時の台湾↑

↑塔から見える19世紀の商館「徳記洋行」は↓イギリスの貿易会社の建物↓

↑日本時代には「大日本塩業」として使われていた。

***
街の中心部、ホテルから歩いても行ける「赤崁楼(せきかんろう)」へ。
※赤崁楼についてはこちらに書きました

↑ここで小松が今回ぜひぜひ見ておいていただきたいと思っているのは↑石碑を背負った9匹の「贔屓」像
↑石の亀に見えるが「贔屓」とは↓竜の9匹の子供の一匹で、重いものを運ぶのを得意としたとされる↓

↑なので石碑を立てるとき、よくその土台にされる↓

今は9匹しかいないが↓もともと清朝の乾隆帝は10匹贈っていた
※その話はこちらに書きました

嘉儀公園にあるニセモノの十匹目とぜひ比べていただきたい※リンクします

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日本統治時代末期、戦火が激しくなる中でも赤崁楼を修復し護ろうとした台南市長・羽鳥又男を記念する碑↓

↑左側・指先に名前が読める
↓この碑は「両面碑文」として展示されている↓

※この碑文が何度も展示を変えていった話をこちらに書きました

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夕食は、台南に来たらぜったい食べたい「度小月」のタンツー麵を



台南はまだランタン祭り中

このもう一つの鄭成功廟は↑かつて鄭成功の息子・鄭経が最期を迎えた邸宅跡と言われている。
↑この井戸と敷石の一部は当時のモノと伝わる※2019年2月のブログにリンクします
鄭成功の台湾島独立政権は実質三代で滅亡した。

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