台南の老街(旧市街)のひとつ神農街入口に復元された石の門↓
細部は摩耗してしまって読めない↓バラバラにされていたのを組みなおしたのだろうと想像できる。
今はすぐ後に建物があってかつての様子を想像することもできないが、この向こうは港だったそうだ。
↓昔のこんな絵が残されている↓なるほど
停泊した船から門をとおると目の前にある廟は「神風廟」↓
↓北京から派遣されてきた役人が到着すると無事の到着を風の神に感謝した
清の乾隆帝時代(18世紀前半)建設されたが、日本時代の大正七年には道路拡張の為破壊して別の場所に移動されられた。
1995年になって元の場所に復元した。
住んでいた家を移動させてまで廟の前の広場を再現したそうだ。
台湾政府の歴史復元への尽力がうかがえる。
※帰国してから解説してもらった話を検証していたらネットで出てくる写真と背景があまりにちがって戸惑った。
この場所が二度移築されたという経過を発見してようやく納得できた。
古い港だった場所から近い神農街は細い路地
↑いちばん奥に一段高くなっているのが薬の神様を祀る廟。いわば薬師堂前の門前町か。
木彫の老舗が一角にある
台湾でもこういった職人は減っている
全土から修復や新装の注文が集まるのだそうだ
古い家を改装したおしゃれなお店もたくさん並んでおりました。
**
日中ハーフ、十七世紀の英雄・鄭成功の廟のひとつ「延平郡王祠」を訪れた。
明が清によって滅ぼされていった時期、北京を追われた明の皇帝を復位させるべく尽力し「国姓爺」の称号を得た人物。
※彼が生まれ育った平戸の村を訪れた時の話をこちらに載せました
台湾島からオランダ人を追い出し、はじめて台湾を事実上の首都とする独立国を主導した。
この廟は1875年(清の光緒元年、日本の明治八年)に建設された。北京本国から牡丹社事件の処理のために派遣されてきた沈葆楨が現地で敬意を払われていた鄭成功のために許可をとった。いわば「人気取り政策」のひとつだったのかもしれない。
戦後に国民党が建てたこんな門もすぐちかくにある↓
第二次大戦後に台湾を取り戻した国民党政権が、民衆を弾圧した「二二八事件」。これを鎮圧し、民心を安定させるために派遣された役人が建てた。つまり、こちらも地元の人々の心を得るための「人気取り政策」だったのかもしれない↓国民党のシンボルがとりつけられている。政治的なこのマークのとりはずしも検討されたそうだが、歴史の改編をする姿勢につながるとして行われなかった。懸命である。
下に「忠義を肝にめいず」という意味の言葉を刻んでいる。
日本統治下に入った翌年の1896年には「開山神社」と改名され、日本式の社殿も建てられたが今はとりこわされた。
当時使われていた神社の用具も保管されていたのだが↓供物を置く台が逆さに展示されていた↓
鄭成功関連のお土産販売には力をいれている
人気の「鄭成功ビール」↓
↓少年時代の鄭成功と母の田川マツの図柄のメダル
母の田川家の位牌が本殿の後に安置されている↓
彼女の父は平戸の医者で、居留する外国人に人望があった。
娘のマツは助手をつとめる才媛で、平戸を訪れていた鄭芝龍に見初められ結婚。
生まれたのが鄭成功である。
細部は摩耗してしまって読めない↓バラバラにされていたのを組みなおしたのだろうと想像できる。
今はすぐ後に建物があってかつての様子を想像することもできないが、この向こうは港だったそうだ。
↓昔のこんな絵が残されている↓なるほど
停泊した船から門をとおると目の前にある廟は「神風廟」↓
↓北京から派遣されてきた役人が到着すると無事の到着を風の神に感謝した
清の乾隆帝時代(18世紀前半)建設されたが、日本時代の大正七年には道路拡張の為破壊して別の場所に移動されられた。
1995年になって元の場所に復元した。
住んでいた家を移動させてまで廟の前の広場を再現したそうだ。
台湾政府の歴史復元への尽力がうかがえる。
※帰国してから解説してもらった話を検証していたらネットで出てくる写真と背景があまりにちがって戸惑った。
この場所が二度移築されたという経過を発見してようやく納得できた。
古い港だった場所から近い神農街は細い路地
↑いちばん奥に一段高くなっているのが薬の神様を祀る廟。いわば薬師堂前の門前町か。
木彫の老舗が一角にある
台湾でもこういった職人は減っている
全土から修復や新装の注文が集まるのだそうだ
古い家を改装したおしゃれなお店もたくさん並んでおりました。
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日中ハーフ、十七世紀の英雄・鄭成功の廟のひとつ「延平郡王祠」を訪れた。
明が清によって滅ぼされていった時期、北京を追われた明の皇帝を復位させるべく尽力し「国姓爺」の称号を得た人物。
※彼が生まれ育った平戸の村を訪れた時の話をこちらに載せました
台湾島からオランダ人を追い出し、はじめて台湾を事実上の首都とする独立国を主導した。
この廟は1875年(清の光緒元年、日本の明治八年)に建設された。北京本国から牡丹社事件の処理のために派遣されてきた沈葆楨が現地で敬意を払われていた鄭成功のために許可をとった。いわば「人気取り政策」のひとつだったのかもしれない。
戦後に国民党が建てたこんな門もすぐちかくにある↓
第二次大戦後に台湾を取り戻した国民党政権が、民衆を弾圧した「二二八事件」。これを鎮圧し、民心を安定させるために派遣された役人が建てた。つまり、こちらも地元の人々の心を得るための「人気取り政策」だったのかもしれない↓国民党のシンボルがとりつけられている。政治的なこのマークのとりはずしも検討されたそうだが、歴史の改編をする姿勢につながるとして行われなかった。懸命である。
下に「忠義を肝にめいず」という意味の言葉を刻んでいる。
日本統治下に入った翌年の1896年には「開山神社」と改名され、日本式の社殿も建てられたが今はとりこわされた。
当時使われていた神社の用具も保管されていたのだが↓供物を置く台が逆さに展示されていた↓
鄭成功関連のお土産販売には力をいれている
人気の「鄭成功ビール」↓
↓少年時代の鄭成功と母の田川マツの図柄のメダル
母の田川家の位牌が本殿の後に安置されている↓
彼女の父は平戸の医者で、居留する外国人に人望があった。
娘のマツは助手をつとめる才媛で、平戸を訪れていた鄭芝龍に見初められ結婚。
生まれたのが鄭成功である。