旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

パリ~コンシェルジュリーをガイドさんと

2023-02-15 15:56:23 | フランス
マリー・アントワネットが最期の朝に水を飲んだとされる水差し。
小さな十字架はローマ法皇ピオ七世から幽閉中に贈られたもので、真ん中には「本物の十字架の破片」が納められている。


「パリでいちばん美しいステンドグラス」があるサント・シャペル↑その尖塔が見えている。今日訪れるのはそのとなりに位置するコンシェルジュリ↑ギリシャ神殿風の柱がある場所は現在も裁判所として使われている。フランス革命時代・二百年前から裁判が行われており、マリー・アントワネットも法廷に立たされた。

コンシェルジュリはシテ島にある、もとのPalais de la Cité(シテ王宮)。いつも衛兵がいることからコンシェルジュリと通称されるようになった。フランス革命の時代に巨大な監獄となり五百人から千人を収監していた。

↑半地下の巨大な部屋は「衛兵の食堂」と解説されていたが、区切られて雑居房だったこともある。
囚人の待遇は金次第で、お金さえ払うことができれば個室に暖かい布団が用意され、美味しい食事も差し入れが可能だった。

↓革命のスローガンがフリギア帽(古代ローマで解放奴隷が被ったとされる)をかぶっているポスター↓

↑「共和国と不可分なもの、自由、平等、博愛、それなくば死を」↑下ではフランスを象徴するニワトリが大砲を持っている↑

断頭台に送られる囚人はここで↑髪の毛を短く切られた↑ギロチンの刃を妨げないためである
←1793年の1月にルイ16世がコンコルド広場で処刑された時のニュース版画。
王の処刑をきっかけに各地で反革命の暴動が起き革命政府は恐怖で民衆を統治しようとする。3月10日には「革命裁判所」が設置され、二年ほどの間に二千七百人もの人々が死刑判決をうけ、ここから処刑場へ運ばれていった。

夫が処刑された同じ年の8月、マリー・アントワネットは子供たちと引き離されコンシェルジュリに移送された。
結果、処刑までの最期の76日間を過ごした。
↑裁判でマリー・アントワネットを追いつめたのがこの↑検事フーキエ・タンヴィル。胸像はいつごろつくられたモノだろう?彼自身も二年後には処刑されてしまったのだから。

マリー・アントワネットを救出しようという計画があって、小さくたたんだ手紙をカーネンションに仕込んだものが元女王の手元にまでいっていた。 直前で露見した「カーネンション計画」の後、彼女は24時間体制で見張られることになり、死刑の朝を迎える↑卒倒しているのはコンシェルジュリで世話をしたロザリー・ラモリエールかしらん↑

「女囚の中庭」には出してもらえなかっただろう

↑「12人の場所」と呼ばれた一角↑処刑される人々を12人単位で集めていたのだそうだ↑

↑「名前の小部屋」には1793-95年の間に収監された四千人以上の名前が刻まれている↑マリー・アントワネットの名前もCAPET(「カペー」王朝の家名)のところで見つかる。


↑元女王が使っていたという編み棒↑

↑最後の日々に使っていた椅子↑
後の時代、彼女にまつわる品々は伝説的に取り扱われるようになる。
次々に「新発見」される品々のうちホンモノとお墨付きを得たものが買い取られる。
冒頭の水差しと十字架は三十年前から変わらず公開されつづけている。

↑マリー・アントワネットが収監されていた部屋は↑のちの王政復古時代に礼拝堂に改築された↑
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