【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

川上二郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍、2008年

2012-08-29 00:07:32 | 評論/評伝/自伝

              

  白洲正子は、1980年頃から俄かに脚光をあびる存在となった。「いまなぜ白洲正子なのか」。この問いに対する答は、本書を読むかぎり、正子の生き方そのものが日本人が生きるための「羅針盤」、そしてもう少しひらたく言えば日本人の「モデル」であり、その存在と生き方が時代閉塞の状況のなかで「一陣の涼風」「精神安定剤」となったということにつきる。


   正子(1910-1998)の出自はは伯爵家(樺山家)、4歳にして能の世界にふれ(梅宮三郎・六郎兄弟の「猩々」)、二世梅若実に弟子入り、大正時代も末、14歳になった大正13年にアメリカに留学、白洲二郎という伴侶を得て、昭和、平成を生きぬいた。多彩な世界に遊び、それは能、骨董、着物、花、職人芸、和歌などに及ぶ。

  交友関係は広い。本書の「青山学院にて」の章で書かれているように、青山二郎、河上徹太郎、小林秀雄、永井龍雄、大岡昇平がその中心で、酒を交わして談論風発、そこから佳きものを汲み取った。近衛文麿、吉田茂、健一、西園寺公一(公望の孫)、細川護貞(細川家第17代当主)、北大路魯山人、大野晋、三宅一生、多田富雄などともみな知り合いの関係にあった。

   「いかにすべきわが心」(西行)をテーマに、自らが掘り当てるべき井戸をさがし(夢中になれるものを探すの意)、模索の青春を送って、たどりついたのが日本人のアイデンティティを極め、書き記し、「日本の美の定点観測者」となることであった。お嬢様でありながら、破天荒に、思うがままに生き、その生き方そのものが、1990年以後の先が見えない日本の進路にとって新たな道標として採りあげられたということだろう。白洲二郎・正子に焦点があたったのが、まさにそういう日本のそういう時期にあたっていた。

   『能面』(求龍堂)、『かくれ里』(新潮社)、『きもの美-選ぶ眼・着る心』(徳間書店)、『心に残る人々』(講談社)、『花と幽玄の世界-世阿弥』(宝文館出版)、白洲正子著作集』(全7巻・青土社)、『梅若実実聞書』は、その成果、結晶である。本書は著者(「週刊朝日」編集長、朝日新聞編集委員を経て文筆家)が晩年の正子に直接取材することでなった作品。

  正子を「拝金主義にまみれる前の時代の日本を知る数少ない生き証人」「日本女性の古典」と讃えている。

 *明日からフランス・パリに行きます。その間、過去のブログ記事を再掲します。自動予約処理です。


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