著者は「はじめに」で、本書の狙いを明確に述べている。すなわち、本書の問いは、企業、会社が誰のものかではなく、誰のための企業、会社にするかである、とのこと。
企業、会社のあるべき姿などはなく、これらの組織のコーポレント・ガバナンスはそれぞれの歴史、文化によって形成されているので、それぞれの国ごとに共有されている「一般常識」の上に、国内のさまざまな集団の利害関係の葛藤、妥協が積み重ねられ、その答えを多様な利害関係や理想の均衡点で選んでいくのだと書かれている。
コーポレント・ガバナンスをめぐる状況は、「グローバル(すなわち米国の)・スタンダードへの適用」とナショナリスティクな「日本的な良さの保存」という対立軸、また「株主の所有権絶対論」対「さまざまなステークホルダーに対する責任を持つ社会公器論」という対立軸によって整理できるようである。2つの次元の対立軸はこのようだが、いずれの次元でも前者は新古典派的、自由主義的経済学者の考え方、後者は新制度派、進化派、ポスト・ケインズ派など、総じて社会重視派のそれである。
著者は、いずれについても後者の立場に理解を示し、その方向で問題を整理し、将来展望しているが、ある種の懸念をもっていて、それは日本では政府の政策発表や日経新聞の記事を読んでいると、ますます”正当派”の論調が蔓延しつつあることであり、「株主所有物企業」が一般形態になりつつあることだそうだ。
今日の格差社会は実はこうした風潮の結果でもあるわけであるが、この本のいいところはそれに切歯扼腕することなく、ステークホルダー企業の逆転の可能性について問題提起していることである。
文章はやや分りにくい箇所がある。
企業、会社のあるべき姿などはなく、これらの組織のコーポレント・ガバナンスはそれぞれの歴史、文化によって形成されているので、それぞれの国ごとに共有されている「一般常識」の上に、国内のさまざまな集団の利害関係の葛藤、妥協が積み重ねられ、その答えを多様な利害関係や理想の均衡点で選んでいくのだと書かれている。
コーポレント・ガバナンスをめぐる状況は、「グローバル(すなわち米国の)・スタンダードへの適用」とナショナリスティクな「日本的な良さの保存」という対立軸、また「株主の所有権絶対論」対「さまざまなステークホルダーに対する責任を持つ社会公器論」という対立軸によって整理できるようである。2つの次元の対立軸はこのようだが、いずれの次元でも前者は新古典派的、自由主義的経済学者の考え方、後者は新制度派、進化派、ポスト・ケインズ派など、総じて社会重視派のそれである。
著者は、いずれについても後者の立場に理解を示し、その方向で問題を整理し、将来展望しているが、ある種の懸念をもっていて、それは日本では政府の政策発表や日経新聞の記事を読んでいると、ますます”正当派”の論調が蔓延しつつあることであり、「株主所有物企業」が一般形態になりつつあることだそうだ。
今日の格差社会は実はこうした風潮の結果でもあるわけであるが、この本のいいところはそれに切歯扼腕することなく、ステークホルダー企業の逆転の可能性について問題提起していることである。
文章はやや分りにくい箇所がある。
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