吉村昭『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』講談社、1996年
勘定奉行所支配勘定役から出発して、大阪東町奉行などを経、栄進につぐ栄進で勘定奉行筆頭まで登りつめた川路聖謨(180-1868)の半生を描いた作品です。
立身出世がテーマではなく、列強の外圧から江戸末期の開国の空気が蔓延していた頃、外国のリーダーと誠実に交渉にあたり、時には辣腕をふるい、時には機敏に行動して、当時としては最善の解決策をまとめた川路の外交手腕と人間性を讃えています。
本書ではロシアのプチャーチンとの折衝に多く紙幅をさき、大目付格鍵奉行の筒井政憲らととともに日露和親条約に調印(1854年)したことを詳しく書いています。その後、日米修交通商条約の調印(1858年)でも重要な役割を果たします。
生活は清貧を旨とし、華美を許しませんでした。また、自己鍛錬に勤しみました。
当時の日本の閉鎖的な状況のなかで、外国の脅しや威圧に屈することなく、対等に交渉したその手腕には驚嘆します。
しかし、水戸の徳川斉昭らの強硬な尊王攘夷派と開国派が反目し、くわえて徳川将軍継嗣問題で慶喜を推す一橋派と家茂をかつごうとする紀州派とが確執する状況のなか、川路は紀州派の井伊直弼の大老就任とととに失脚します。
その後、桜田門外の変で井伊が暗殺されるに及び、外交奉行に復帰しますが短期間で辞意を表明し引退。
中風による半身不随のなか、江戸城の無血開城の報を聞き、自死しました。
著者は「あとがき」で「川路は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格とともに卓越した幕吏でっあった。・・・私が川路に魅せられたのは、幕末の功労者であるとともに、豊かな人間性にある」(pp.446-447)と書いています。
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