仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

中沢新一:シャーマン=研究者?

2007-03-01 03:00:11 | 書物の文韜
あの中沢新一が、読売新聞土曜朝刊で小説を連載しています。タイトルは、『無人島のミミ』。成長した〈私〉が、幼い頃にみえていた精霊のミミを探す物語。宗教学や人類学の知見に基づきながら、宮澤賢治風の文体で書かれています。それなりに面白いのですが、「連載開始」の報を聞いたとき、昨年友人のA氏から聞いた話を思い出しました。

A氏は、中沢新一とは以前からの知り合い。氏がいうには、中沢はずいぶん前から創作に強い熱意を持っていたそうです。その彼のところへ、渋谷の道頓堀劇場から、ストリップの台本を書いてほしいという依頼が舞い込んできた。歓喜した彼は勢い込んで台本を書き上げたものの、力が入りすぎていたせいか、難解なうえにまったく面白くないものが出来てしまった。リハーサルをその目でみた中沢は、自分に創作の才能がないことを痛感した…というのです。ぼくがこれを「面白い話だな」と思ったのは、ある意味で、中沢新一の研究における本質を伝えているように感じたからです。
彼の作品の大部分は、ある哲学者、文学者、研究者の生もしくは方法を基底に書かれている。例えば、『森のバロック』は南方熊楠、『哲学の東北』は宮澤賢治、『カイエ・ソバージュ』はレヴィ=ストロース…。ひょっとして彼は、オリジナルの文体(というものがあるかどうかは別として)では、文章が書けないのではないか。〈中沢新一〉としては物語ることが不得手で、何者かにポジショニングすることで初めて真価を発揮できる、彼自身シャーマン的素質を持った研究者なのではないか。そう考えると、著作のなかで、「いったいこの言説は、彼のものなのか、それともリスペクトする先人のものなのか、区別がつかなくなる」ことも納得がゆきます。事実、『僕の叔父さん 網野善彦』(個人的には、この本がいちばん好きです。「つぶて」のくだりでは、「これこそ学問の生きた姿だ!」と感激して本当に泣きました)のあとがきでは、執筆中ずっと何かが憑いていたとの告白があります。確かにあの細かな記述、情況の再現は、個人の記憶に頼って客観的に描けるものではない。中沢新一の作品は、研究書としてではなく、一種の〈シャーマニズム文学〉として読まれるべきではないのでしょうか。…そう考えてゆくと、今回の創作連載についても、必要以上に興味が湧いてくるのです。

中沢新一は、いったいどのようにして『無人島のミミ』を書いている/書いてゆくのか。物語はどのような結末にたどり着くのか、あるいはたどり着けるのかどうか。宮澤賢治的文体は、ひょっとして賢治を憑依させて書いているのかも知れませんね。

ところで関係ないですが、飛鳥時代の上棟式って何なんだ。
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2 Comments

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シャーマン研究者! (八戒)
2007-03-02 07:36:02
なるほど!漢学の伝統でなら理想的な学者像の一つではないかと思います。<先人に同化できる。
『僕の叔父さん 網野善彦』は読んでいて、非常にうらやましく思いました(^_^;) でもそれを書物を通して追体験できる幸せにも感謝しました。
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ひやかしでなく、歴史学者も。 (ほうじょう)
2007-03-02 16:27:27
いや、ひやかしでなく、歴史学者もそうありたいものです。こんなことを書いていると干されるかも知れませんが、客観的歴史叙述はやっぱり幻想ですからね。となると、批判的主観の文体を採るか、憑依の文体を採るか。ぼくは二者択一にしたくないし(シャーマンの素質もないので)、中間的なポジショニングの技法を洗練させてゆきたいと〈願って〉います(それって、分裂病的文体になる?)。演習もそんな運営方式で。
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