ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




横井庄一さんが、戦中から戦後、なんと28年間もグアムのジャングルで誰にも発見されずに暮らしていた事。

僕も、過去にそういう事実があったらしい、ということは知っていました。ただ、・・・それだけしか、知りませんでした。

 

グアムの空港に降り立ちますと、現地の観光地の看板に混じって「英雄横井28年間ジャングル苦難ケーブ(洞窟)」という看板が目にはいりました。歩きながら「あ」と思って、慌ててシャッターを切ったので、ナナメになってしまっています。

現代の僕たち日本人にとっては、日本から比較的近い「行きやすいリゾート地」であって、暖かな気候と美しい海の、明るく楽しい南の楽園・・・グアムのイメージは、そんな感じですよね。

そして、確かに、その通り。

マリンスポーツやショッピングを楽しむ、沢山の観光客で賑わっていて、・・・過去に、ここで二万人もの人が死に、そして、この島のどこかに、28年間も「戦争が終わっていなかった」人が居たなんて、にわかには信じられないくらいです。

 

 

 

僕は、帰ってきてからどうしても気になって、この「明日への道 全報告グアム島孤独の28年」という、横井さんの自伝を購入し、読み出したら止めることが出来ずに、ほとんど一気に読み終えました。

横井さんが、グアムの山奥で現地人に発見されたのが、昭和47年1月24日。僕は4歳。そして、この本が書かれたのは、昭和49年です。

のっけから、大変ショッキングな内容でした。

現地人であるチャモロ人、あの僕もグアムで出会ったチャモロの人たちについて、こんな記述がありました。・・・戦中の日本占領の前のアメリカ占領のさらに前、スペインが統治していた占領していたころ、

「スペインは、現地の男は全部殺し、女だけを生かして、そこへフィリピンと中国から男を連れてきて混血させ」、「その後、日本人や、ドイツ人、アメリカ人等入りみだれ、現在では純潔チャモロ族はもういない」

この一文だけで、しばらくページを捲る手が止まってしまいました。・・・国って、なんて恐ろしい事をするのでしょう。

 

横井さんは、非常に仔細に、グアムへ渡る前(満州から行き先を教えられないまま、連れて行かれた)から、戦中のこと~ジャングルでの生活を、最後に発見、救出(本人はそうは思っていなかった)されるまでを実に克明に綴っています。よくもここまで覚えているものだ、と思うほどです。

 

もう、読んで頂くのが間違いないのですが(とはいえ、残念んがら手に入り辛くなてしまってるみたいです)、ただただ、横井さんの、孤独に耐える強靭な精神力と、生きる為の工夫と根気、チャレンジ精神、そして手先の器用さには、驚愕します。

元々、横井さんは職業軍人ではありません。徴兵されて戦争に駆りだされた、町のいち洋服屋さんです。

日本軍のずさんな指揮、無謀な計画、そして、ただでさえ少ない軍備に、本土からの補給も一切無い中、絶望の中で命を落としていった、兵隊さんたち。

「こんなことでは、到底勝ち目が無いことは、誰の目にも明らかだった」、とあります。

その行き当たりばったりの対応には、「日本の頭が遅れていたのか、それとも、敵をなめているのか、そのどちらかとしか思えなかった。」とも書いています(藁人形を作って畑に並べ、「沢山の兵隊にみせかけて威嚇する」とかね。勿論、米軍は見向きもしなかったそうです)。

当時の軍人は、皆洗脳されていて、日本は神の国だ!と、半ば妄信的に戦ったようによく言われますが、横井さんは、グアムに向かうすし詰めの船の中で「日本は神国だというが、日本だけが神国じゃない。あちらさんにだって、ちゃんと神さまはいるんだ。神や仏の力で、矢玉を避けることはできない」と思っていたといいます。冷静に、自分たちの、置かれている状況を分析していたのです。

 

のどかな南の島に着いて、しばらくは貝や魚をとったり、初めて見るヤシの実をとったり。誰もいない美しい海辺での監視の合間には、海水浴をしたり(←まさに、僕の滞在したビーチあたりでのこと)。しかし戦いが始まってみれば、圧倒的な力の差。後に「玉砕島」と呼ばれることになったほど、一方的で悲惨なグアム戦線でした。

「地上から眺めていると、アメリカの飛行機は、攻撃をくらうと、墜落する前に乗員が空へ飛び出し、パラシュートで海へ落ちます。すると、すぐに潜水艦が上がってきて、その乗員を助け出すのです。一方、日本の飛行機は落ちたら、落ちたまま。これでは勝てないなぁ、と思いました」とありました。死守せよ、との命令だけはあれど、すでに周りの海はアメリカの潜水艦と艦隊に完全に包囲され、日本の船籍はサイパンなどでやられてしまい、グアムにはまったく来れ無かったのです。本土から飛び立った戦闘機も、硫黄島上空でアメリカ軍に待ち伏せされ、ことごとく打ち落とされ、結局一機もグアムには到達しなかったそうです。対してアメリカの艦隊は、「海が真っ黒になるほどだった」そうですから、勝ち目のあろうはずがありません。

 

戦況悪化に伴い、時には重症を負った仲間に、自ら「許せよ」と言いながら、止む無くとどめをさしてやりながら、突破口を探す横井さんたち。

隣を進んでいた仲間の一人が撃たれた時、「せめて最後に末期の水を取らせてやろうと思ったが、どこにも水が無い。やむなくあきらめようとした時、仲間の一人が『水虫の薬を持っております』と差し出したので、それを水代わりに口に含ませた」、とあります。すると、その「上等兵の腹部が急に身ごもり女のように膨れだし、苦しむふうもなく、そのまま息絶えました」。仲間内の僧侶出身の兵士が、経をあげ、皆で手を合わせたそうです。

やがて、やむなく、敗走。そして、バラバラになってのジャングルでの生活が始まります。詳しくは長くなるので書きませんが、本当に、こんなにも人間はたくましいのか、と思います。ただ、自分が同じ事をできるのか、と言われたら、・・・おそらく無理でしょう。それほど、無理だろうな、と思う記述が、沢山ありました。

ただの、のどかなジャングル暮らしではありません。救出後、よくロビンソン・クルーソーを引き合いに出された、と書かれていますが、「確かに、奇しくも同じ28年。ただ、あちらは無人島での生活。いつ見つかって殺されるかという我々の28年とは違う」と。

最後の最後まで、28年間、「独り言などを言って、それを聞きつけられたら発見されて殺される」と、口をつぐみ続け、「歩いた足跡は常に全て消し」ながら歩き、昼間は見つかるから草むらにじっと隠れ息を潜め、夜になると食料を求め歩き回り、湯を沸かし、調理をしていたそうです。

ヤシやカエデ、パンの木の実を主食とし、時には、野生の鶏、牛、豚なども捕まえて食べていたようです。ただ、ちょっとでも昼間に置いておくと、あっという間にハエが真っ黒になるほどたかり、10分でウジがわくのだそうです。

それから、カワズ(カエル)はほとんど主食のごとく食べていたようで、他にも、川エビ、うなぎ、でんでん虫、鼠、猫なども食べたという記述がありました。食べられなくなったら、それは死ぬ時だ、と。

しかも、これらを食べるにあたって、火は通すけれど(時には生で)、調味料は一切なしだったようです。「せめてひとつまみの塩があったらなぁ、と」思ったそうですが、「動物は塩がなくとも食べて生きているのだから」と、動物になりきることで、しのいでいたそうです。次第に「動物化が進み」、聴覚と嗅覚が鋭くなったそうです。

とにかく、想像を絶するサバイバル生活の記録でした。

発見されてからも「いよいよ殺されるのか」と思い続け、「病院でレントゲンの機械に入れられたときは『これは首切り器に違いない』と、それまでで一番恐ろしい思いがしました」とあります。・・・これね、全然笑えないんですよ、ずっと読んでると。そのくらい、緊張感を強いられた28年間の逃亡生活だったのです。

ただ、言われているように、ずっと一人だったわけではありませんでした。最後の8年間は一人でしたが、そこまでの十数年はほかに二人の仲間と暮らしていました。ただ、それもね、仲間うちで上手くいかなくなったりする記述があるんですけれど、これがまた、切ないんですよ。「私が一人で食料を取りに行っている間に、二人はいなくなっていた」、みたいなね。最終的には、その二人は亡くなって、横井さんが骨を持ち帰るんですけれども。

時折、山に登ってあたりを見回すと、民家の光とか、電柱とか、空を行く飛行機が見えたそうです。つまり、ちょっと外に出れば、普通の生活があるのは、分かっていた。ただ、それは「敵のもの」だから、「見つかれば殺される」というもので、「いつか日本軍が迎えに来てくれる。そうすれば、捕虜にならずに、祖国に帰れるのだ」と信じ続け、それらの灯りには、一切背をそむけ続けた生活だったそうです。

 

「あ、家の光だ!誰かいるね!わーい、助かったー。助けてー!」

 

なんて事は、一切無かったわけです。光と見れば、息を殺して、地に伏せ続けたのです。

 

帰国されたときの横井さんの「恥ずかしながら、生き永らえて、帰ってまいりました」 というセリフは有名ですよね(こちらの肉声インタビューにもあります。下のコメントも併せて読んで頂けたら、と思います。)。

 

先日、ネットで横井さん関係の映像などを見ておりましたら、なにやらのバラエティー番組で、横井さんのことを紹介している映像がありました。

そして、「恥ずかしながら、生きて帰ってまいりました」という、横井さんの言葉を受けて、画面上の小窓の中に映されていた金髪の女性タレント(『おバ○キャラ』とか言われてる人かな、と思います、・・・多分)が、

 

「えー、なんでこの人、恥ずかしいのー!?わっかんなーい!」、と言いました。

 

・・・正直、戸惑い、そして怒りを通り越して、泣きたくなりましたよ。バ○を装うのは結構ですが、公共のテレビに出て喋るなら、もうちょっと勉強してください。あるいは、軽々しく、そんなこと言わないで下さい(年配のタレントさんも映りましたが、ただ黙って見ていました)。ましてや、そんなコメント、流さないで下さい、テレビ局も、と。少しも面白くありません。

「私が守った日本は無かった」と言ったのは、横井さんでしたか、小野田さんでしたか・・・。

そして、本の最後で横井さんは「全世界の恒久平和を切に望みます」と締めくくっています。 戦争は絶対に止めるべきだ、と。

 

 

グアムで、横井さんは、とても有名な英雄なのだそうです。

なぜか。

 

「遠く祖国を離れ、一人ぼっちになっても、ずっとずっと、祖国を思い続けた人だから」

なのだそうです。彼らは、横井さんの愛国心に打たれて、「ヨコイこそ真の英雄である」、と心から称えているのだそうです。嬉しいような、皮肉なことのような。

 

ちょっと横井さんからは離れますが、

 

グアムの空港に、若者の写真が沢山飾られていました。

なんだろう、と思って見てみると、

 

「THE FALLEN BRAVE OF MICRONESIA」

とありました。「ミクロネシアの勇敢な勇者たち」、とでも訳せましょうか。ただし、「FALLEN」とあります。そう、彼らは、グアムを含むミクロネシアから、イラク戦争に行って、亡くなった方々なのだそうです。

グアムでは、こうして「国の為に」、と戦いに赴き、そして死んで行った彼らの「英雄」たちの写真を空港に飾り、その功績を称えているのですね。

 

彼らにとって、戦争は、今も、現在進行形なのです。

 

 

 

帰りの飛行機の中から見えた、硫黄島です。光の中の、ひょうたん型の島が、そうです。ここでも、双方合わせて3万人近い人が亡くなりました。そして、いまだに、全ての遺骨の回収は済んでおりません。笑顔で別れたまま、何十年も行方が知れないままの家族、愛しい人。「死んだのです」と言われたからと言って・・・、家族の思いや、いかばかり、ですよね。横井さんのお母さんも、庄一さんの墓が立っても、「こんなはずはない。庄一はきっと生きている!」といい続けたそうです。

 

戦争が終わっていない人は、日本にもまだまだ沢山、いるのです。

 

横井さんは、発見された後、観光地化され、若者やカップル、家族連れで賑わうグアムを見て、とても驚いたそうです。「よもや、こんなことになっていようとは」と。グアムは第二次世界大戦中の戦いの中でも、最も多くの爆弾が落とされた島だったのだそうです。横井さんは、「もうこのまま、島ごと粉々になって海中に沈むのではないか、と思った」と残しています。

 

4回もグアムを訪れて、いつもただただ、のんきに楽しく過ごしていた僕は・・・、この本を読んで、非常にやりきれない、もっと言えば、申し訳ない気持ちになりました。知らないということは、ある意味幸せでもあるとは思うんですが、それは、やはり怖いことだ、と改めて思いました。こういう人の言葉を、記録を、消してはいけない、無駄にしてはいけない、伝えていかなければ、と。

 

次にグアムに行くチャンスがありましたら、タロフォフォの滝には、何を差し置いても行ってみたいと思います。・・・いや、ケーブに行くために、横井さんの見た景色を少しでも見るために、僕はまた絶対にグアムに行きたいと思います。

 

では。

 

---追記。---

 

当たり前ですが、Wikipediaに「横井庄一」さんの項があります。僕も、本を読む前にこれを読みました。

ちょっと今改めて見て、気になる点があったので補足しておきたいと思います。

 

まず、「ポツダム宣言による日本の無条件降伏を知らなかった」とありますが、これは米軍が作ったビラ(潜伏している敵に対して、空から撒くもので、本当に「お知らせ」のものもあるし、また、相手を霍乱させる嘘のものもある。戦時ではよく行われる作戦の一つ。この場合は前者だった)で、仲間とそれを見、知ってはいたが「こんなのは嘘だ。そもそも、ポツダムってどこだ?」という程度であり、信じていなかったのです。

また、横井さんらは、何度も拡声器による「戦争は終わりました。日本は負けたのです。だいじょうぶですから、安心して出てきてください!」との元・日本人兵士による呼びかけも耳にしています。ただ、その姿を草むらの中から見ると、後ろにアメリカの軍人がいて、また、アメリカ国旗がはためいており、「あいつはアメリカの手先になっている。これは罠に違いない。」と思い込んでいたということです。

また、横井さんは「自分たちの上官である将校が呼びかけてくれていたら、信じて出て行っていたかもしれない。そしたら、仲間をもっともっと、救えたはず」と書いています。上官たちの中には、責任をとって潔く自ら命を絶った人も多かったようですが、中には早々に投降(降参)し、日本に帰って、商売をして金持ちになっていたというような人もおり、「自分は命令だけ下しておいて・・・」と、幼稚な軍部の伝達システム、そしてその軍部そのものの無責任さを思い、口惜しく思った、という内容の記述もありました。

 

それと、発見についてですが、Wikiには「川でエビを採っていたところ現地の猟師に発見され」とありますが、これはどうも違っているようです。

現地人の山狩りは依然続いており、ただ、山へ入る際には仲間への合図か、鉄砲を一発「ドーン」とならし、また「ホイホイ」という掛け声とともに山を歩き、そして暗くなる前には帰る、というのがそれまでのパターンだったのだそうなのです。ですから、それがわかってしまえば、横井さんとしては、それをやり過ごすことはできていた。ただ・・・。

その日も、横井さんは人の気配を感じていたので警戒していました。ちゃんと警戒しつつ、身を潜め、大丈夫だろうと踏んで、静かに身の丈ほどの草むらを進んでいたのですが、その草むらから草原に出たところで、なんと、この現地人とばったりと鉢合わせしてしまったのです。それまでに例の無かったことだったようです。そしてそれは、猟師ではなく、軍人でした。

横井さんは「あ!」と思って左右を見ると、そこには6~7人の現地人がいて、すでに取り囲まれた状態だったそうです。そこで、どうしたか。なんと、横井さんは、目の前の軍人の銃を奪いに無我夢中でエイ!と飛びかったのだそうです。しかし、食うや食わずの衰弱した小柄の横井さんと大きな現地人では力の差は歴然で、すぐにねじ伏せられてしまったのだそうです。

ただ、この後、現地人は「ニホンヘイカ?」と優しく尋ね、それはそれは大層丁寧に横井さんを気遣い、大切に扱ってくれたそうです。ただ、横井さんは動転していて、「良く覚えていない、ただ、おしまいだ、殺される、と思っていた」そうですが。

つまり、すでに何かをあきらめて、生活のルーティーンワークとして暢気に川でエビを採っていたのではなく、最後の最後まで警戒を怠らず、ぴりぴりした状態の中での発見だったことをお分かりいただきたいのです。

 

それから日本に帰ってきて必ず質問されたことは「性欲はどうでしたか」ということだったそうです。それに関して横井さんは、「敵の目を逃れて生きることだけで精一杯、性欲というのは第二のものです。それだけのエネルギーの補給も、心の余裕も与えられていないところでは、必要のないものでした。普通の生活人がそれを疑問に思うのは自然だと思います。つまり我々は、その(人としての)自然な状態にすらなかった、ということです」と書かれています。

そして、「結局、私にとって一番欲しかったものは、もう少し簡単にできる火起こし方と保存法、それと薬草を判断し得る知識でした」と書かれています。

本の中では、火をどれだけ大切にしていたか、その保存に苦労したかが、何度も何度も書かれています。火が起こせないということは、死を意味することも。また、逆に火事にも遭って、一切の道具、衣服を失ってもいます(・・・また全部自分でこしらえてしまうんですけどね。糸から作って、何年もかけて。これがまた凄いのです)。

今は、・・・マッチなど、言えば大抵タダでもらえます。いたるところで100円でライターが売られ、家でもコンロを捻れば24時間365日火がつく生活をしている僕たちとは、この「火」というものを見る目、そしてそれを思う心は、相当に違うことでしょう。

「人類は火を手にしたときから進化した」、などとよく言われますが、本当なんだということがわかりました。

いやはや、すごいです、本当に。ただただ、感服いたしました。敬礼。

では。



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