僕が10歳の時に、新しく父親になってくれた人は、少々変わった人でした、ってか、です。(まさかこれを読んでいないことを祈る(笑))。
小学校まで毎日10km程の道のりを往復する、といった、冬は雪深い東北のある小さな田舎町に生まれた彼は、高校に入った頃にたまたま聴いたFEN(現在はAFN。AMラジオで810kHzでやっている、在日米人向けの英語放送ですね。)から流れてきたロックを聴いてすごい衝撃を受けたそうで、「こいつらは何て歌ってるんだ?こいつらはこの言葉で何を言ってるんだ?」と、どうにか理解したい一心で学校へ行っているとき以外、3年間、眠っているときも耳元でずっとFENをかけっぱなしにしていたんだそうです。
やがて東京のとある大学へ入り、英語をマスターするには実際に外国人と話すのがいいだろう、と国際空港のポーター(荷物運び)のアルバイトを始め、仕事中に外国人を見ると、誰彼かまわず話しかけ続けたということです。
そして卒業後、大学で学んだ建築学と実地で学んだ独学の英語を手に、シンガポールへ渡り、建築設計会社で2年ほど勤めていたようです。この頃、「ついでに」とスペイン語もマスターしたそうです。「英語でスペイン語を勉強したから一石二鳥だよ。」とか。
退社後、日本へは帰らず、シンガポールからそのまま、ショルダーバッグ一つで、フランスを目指して、飛行機は使わずひたすら陸路を、バスと歩きとヒッチハイクで旅を始めたんだそうです。気に入ればその国にしばらく滞在し、気が向けば目的地とは違う方向へも行ったりもしながら、随分長いことあちこちを旅をしていたそうです。一度見せてもらった当時のパスポートには、ビザのスタンプを押すページが無くなり、延長用紙が長々とくっつけられていました。以前、猿岩石がテレビの番組でやっていたようなことを、随分昔に実際に一人でやっていた感じでしょうか。
だからね、恐ろしく逞しいの(笑)。何より精神的にね。たぶんアフリカのジャングルのど真ん中に一人で置き去りにしても、必ず生きて帰ってくるような人です。・・・あるいは気が向けば、洞窟でも見つけて、「ここも悪くない。」と、そのまま住み着いてしまうか(笑)。
やがて帰国。昼間は貿易会社に勤めながら、夜は私塾を開いて近所の人に英語を教えていました。母親とはそのころ知り合ったんですね。つまり、僕とも。そして、ほどなく結婚。記念に、と連れて行ってくれた初めての海外、グアムでは「海ってこんなにキレイなものだったの!?」とえらく衝撃を受けました。それまで、江ノ島とかの海しか知らなかったから(笑)。その時の影響で、僕が行くのは、そして行きたいのは、海のキレイな南の島ばっかり(笑)。
そうそう、まだ小学生の頃のある日、家に「取引先の人だ」、と大きなエジプト人のおじさんが来てね、しばらく僕の部屋で寝泊りしたことがありました。僕の勉強机の横で、一日何回かコーランをかけて、ひざまずいてアッラーの神にお祈りしてる姿を、ふすまをちょっと開けて覗いていました。自宅で、異文化交流(笑)。この方には一緒にゲームをして遊んでもらったりもしました。言葉は分からなくても、ゲームは出来るのね。楽しかったな。
今、僕が聴いている音楽のかなりの数が、その父の持っていた(今も持ってるか)レコードコレクションとだぶっています。実は、キース・ジャレットやビリー・ジョエルもそのひとつなんです。彼の趣味はジャズには限らず、対極にあるようなハードロック、ロック、ポップス、フォーク・・・なんでもありでした。音楽が一番生き生きしていた60~70年代をど真ん中で過ごした世代ですしね。おかげで僕も、わけも分からぬまま、随分色々と無意識のうちに聴いていたことになります。ただ、この頃はピアノはやめてしまっていた時期なので、ただただ、聴く専門ね。
新しい電気製品も好きで、まだビデオテープが一本3000円もした頃に、「これすごいぞ。これから流行るぞ。」と発売されたばかりのベータのビデオデッキを買ってきて、僕にも自由に使わせてくれました。まだリモコンとか、コードで本体と繋がってました(笑)。僕はそれで「ベストヒットU.S.A」という音楽番組なんかを毎週録画しては、学校から帰ると、本当に毎日のように観てました。まだミュージック・ビデオというもの(今でいうPV)が出始めた頃なので、本当にアイデアも新鮮で、面白かったんですよ。
なんだかんだとそれから15年ほど一緒に暮らして、ある日、大ゲンカの末(原因は些細なことでした)、「なら、出てけ!」「ようし、なら出てく!」と、半ば飛び出すような感じで家を出ました。今では年に一回、お正月に 顔を見る程度です。後から母に聞いたら「あいつ、本当に出ってたなぁ。ちょっとびっくりした。しかし、いい経験になる。」って言ってたそうですけど(笑)。
それにしても自分にも厳しいけど、他人にも厳しい人だから、随分怒られました。実際、「血が繋がっていないから、あんなに僕にひどく怒るんだ」・・・なんて、思った事もありました。でもね、それは逆だったんだなぁ、と大人になって思い直しました。母親を通して聞いたところによると、「ただ好かれるだけなら簡単だけど、それじゃダメなんだ。オレはあいつの父親なんだから。」とよく言っていたそうです。良かれ、と思うからこそ、厳しくもなるし、悪ければ引っ叩いたりもしてくれたんですよね。まぁ、怖かったけど。・・・ってか、今でも十分怖いけど(笑)。
僕は、残念ながら父の期待に反して、今だに英語がろくに使えません。たまに会うと父は、「何だ。まだ英語も話せないのか。そんなのさっさとマスターして、中国語でもやれよ。これからの世界じゃ、役に立つぞ。」なんて言います。あるときは「なぁ、弁護士にでもなれば?」なんて、言い出したことがあります。さすがに「はい?今から?そりゃ無理だろー。」と言うと、「バカ言え。何が『今から?』だ。オマエ幾つだ。まだ30そこそこだろ。」と一喝されました。まぁ、多分弁護士にはなりませんけど(笑)。他にもっとしたいことがあるんでね。
・・・でもね、それで真に受けて、実際何かの間違いで必死で勉強して弁護士になったとするでしょ?そうするとね、きっと「うん?誰が日本でなんかやれと言った。もっと外に出ろ。世界はお前が思っているより広いんだ。」とか何とか(笑)。いや、ほんとに言いかねないんですよ、うちの父は(笑)。ほんと、最初に言いましたが、少々変わり者なんですよ(笑)。寝言も英語で言うし(笑)。まぁ父にはまだまだ、皆さんが驚愕するような話が山ほどありますが、この辺で止めときます(笑)。
父の日、ということで当時彼が好きだった、そしてその影響で僕も大好きになったあるアーティストのDVDを贈って、メールを打ちました。「あの頃、色々な音楽を聞かせてくれたおかげで、今になって仕事にも役に立ってるし、なによりも人生の楽しみを見つけられたよ。ありがとう。」なんて、何かにつけ反抗ばっかりしてる、僕にしたらとーっても殊勝な一文を添えたんです(笑)。普通、「そうか、それは良かったよ。」なんて返ってきそうでしょ(笑)?でもね、
「遅かれ早かれ、本当にお前に必要なものだったら、必ずどこかで出会っていただろう。礼を言うなら、それを見つけた自分自身に言うべきだ。俺はただ、自分の好きなレコードをかけて聴いていただけだよ。」
って返ってきました。・・・もちろん、英語でね。彼が使う英語は教科書みたいな英語じゃないから、ほんっと大変なんですから、解読するの(笑)。
ちなみに父は、僕がやりたかった仕事をしてることはそれなりに認めてくれているようですが、僕の出るライブを見に来てくれたことは、まだ一度もありません(笑)。「『お前の音楽』をやるなら、喜んで見に行くさ。」などと、なんとも可愛げのない、でもドキッとするようなことを言います。まったく、もう。ねー(笑)。えぇ、まぁ、いつかね。
写真は、最近引っ張り出してきた中学時代に使っていた辞書です。あ、前に載せた電子辞書はやめました。どうもあれは頭に入らない気がして(←辞書のせいにしてみたり(笑))。
ページにある赤線は、遠い昔に一度引いていたものです。
foundation.
・・・ファンデーション、ってカタカナにすると判り易いですかね。
この言葉には「土台」「基礎」「芯」、そして、「出発点」、なんて意味もあります。
長々と読んでくださって、ありがとうです。
・・・あ、foundationの前って、foundなんだ。一つはfindの過去形。だから、「見つけた」、か。・・・今、見つけた(笑)。
ではー。