ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




長ネギ、小ネギ、みょうが、おくら、わかめ、とろろ昆布、玉子。

 

いえね、本当はね、天ぷらとかコロッケとかの油ものが欲しいだったんですけれども、

「まあ、ありものでどうにか工夫しよう」、と思ったところ(・・・手抜き、とは書かない(笑))、こんな感じのヘルシーうでんになったのですよ。

 

まあ、題して、と言いますか、

えー、

 

・・・緑うでん

とにかくヘルシー。

 

いや、でもなー、

 

やっぱり油ものは欲しいですねえ、これも、無しじゃないけど

 

油ってなんでしょう。中毒性でもあるのでしょうか。

大好きな餃子、鶏の唐揚げ、天ぷら、油あげ、牛ステーキ、豚ステーキ、鶏ステーキ・・・

ステーキなものには、みーんな、油が

(上の例がいまいち、というか、本意が伝わりにくいのは自覚しております。あとできっともっといいのが思いつくのですが)。

 

油。

適量は摂った方がいいのはご存知の通り。

 

 

今日、ちょっと話す機会のあった親戚のおば(母の妹)から聞きました。

 

「お姉ちゃんが出かけるっていうので、あなたの子守を頼まれてね。しばらく好きに遊ばせてたんだけど、そのあと、たぶん台所のあたりにいるのは知ってたんだけど、どうにも、やけに静かで、『何してるんだろ』と思って見に行ったら、

 

・・・流しの下にあった油のビンをいたずらしててね、中身をぜーんぶ出して、もう、床から何からべったべたになってるのよ。

一緒にしまってあった小麦粉や片栗粉の袋もぜーんぶひっくり返して出しててね、

あんた、床に座り込んで、楽しそうにしてるのよ、頭から油と小麦粉まみれになって。

もう、あれにはまいったわよ。

その後の大変だったことと言ったら(以下略)」

 

 

どうも、2歳くらいの頃の話だそうです。

 

火が使えたら、自分でも揚げてみたかったのでしょうか。あと、玉子があれば、カツになるしね。とんカツやハムカツならぬ、自分カツ(笑)。

 

 

いやあ、さすがになあ(笑)。

 

 

って、

 

 

・・・実行してたら、笑えないですね。

色んな意味で(笑)。

 

そもそも、・・・それ、誰が食べるんだよ、という・・・

 

って、ホラーかよっ

 

ま、とにかく、不思議と、油は美味しいわけです。

大好きな作家、故・向田邦子さんも、蕎麦やうどんを食べる時は「どんなに忙しくても、絶対に油ものが欲しい。なければ、食べない」とまで仰っておられます。

 

・・・ということで、今日のうでんは、反省ですな(笑)。

 

ではー。



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よく“食欲の秋”、などと申しますが、えー(落語か)、

夏の食べ物もおいしいですよね。

枝豆、冷やし中華、冷やし茄子、冷やしトマト、冷やしきゅうり、冷やしにニンジン、冷やし大根、冷やしスイカ・・・など色々ありますが(スイカは冷やすよ)、どんなのがお好きでしょうか。

で、毎年この季節の楽しみといいますと、僕は、何と言っても、冷やし豆腐です

 

・・・もとい、冷奴です

 

長ネギとみょうがをたっぷり刻んで、生姜をおろして、かつお節をね、こう、シャッシャッて削ってこれまたたーっぷり載せて、醤油を一まわし。

 

あーたまらんたまらん

 

でもね、これだけじゃなくて、きゅうりやたくあん、キムチやシラスなど、お好みの具材を何でも載せて、ごま油をまわしかけて食べる冷奴も、これまた美味しいのですよ。まあ、昨年も書いたネタですので、新鮮味は無いのですが、それでも、

美味しいものは美味しいのです。

 

ちなみに僕は、冷奴は、絹です。

木綿は、鍋のときだけかなー。

でも、湯豆腐だと、絹が好きだなー。

あのツルッとした感じがね、

 

なんか、

 

 

ピアノの鍵盤みたいで

 

 

・・・鍵盤は食べませんけどね、かつお節とか醤油とか、あまりかけないしね。

 

 

あまりかよ

 

 

 

でも昔、高校生のころ、

ニンジンや大根で「うらうらー」ってシンセ弾いたら、鍵盤でニンジンも大根も折れちゃって、野菜汁が鍵盤にダラーって付いちゃって、

大変だったことがありました。

 

だからどーしたって話なんですけど、ふと思い出しました

 

ちなみにこの事、当時発売されていた、キーボードの雑誌に写真入りで、載っています。僕が、自分で(半ば冗談で)投稿した(ら、載ってしまった)んですよ(笑)。

 

ではー。



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雨が凄いですね。

空も地も、天候の荒れっぷりには、本当に、ただ「ほどほどに、収まってください」と祈るしかないわけですが、

どうか、皆さん、ご無事であって頂きたいと思います。

 

今日は、例のにんにくのビン詰めでガーリックライスを作って、それでカレーにしました。

カレーはレトルトですが、ライスにひと手間かけているので、なんか満足度は高かったです

・・・といいつつ、福神漬けを忘れたのが、ちょっと残念でした。たくあんで代用しましたよ(笑)。

 

さて、青ピンクちゃん(緑ちゃんの韓国版)について、お知らせがあります。

「こちらで手に入らないのか」という嬉しいお問い合わせを何件か頂いていたのですが、

リットー社にも調べてもらった結果、結局は、あちらの出版社から僕がまとめて直接購入するのが、一番スムーズでしょう、ということになりました(出版社の通販もあるそうですが、その場合、全てのやり取りを韓国語環境でやるしかないとのことでした)。

そして、出版社関係の方で、日本語もできる方とここ数日やりとりをさせていただきまして(とっても親切な、良い方ですよ)、

もし宜しかったらですが・・・、

今度の8月25日のトミちゃんのライブの時に、一冊2000円にて(韓国から日本までの送料含む)、ご希望の方に、韓国版緑ちゃんを販売させて頂ければと思います

ちゃんと、全てのページが訳されており、CDも付属しており、内容的には日本版と遜色はないものになっています。

・・・僕には、現状、読めませんが(笑)。

 

ただ、前もって、ある程度の冊数を知りたいのです。

ご購入希望の方、・・・韓国語の勉強にもなるかもしれませんし(なんと言っても、日本語全訳本がありますから(笑))、または、まあ記念に買ってやるか、と思って下さる方がいらっしゃいましたら、

緑ちゃんのプロフィール欄に記載されておりますメールアドレスか、僕のオフィシャルサイトのContactページにあるアドレスまで、お名前と希望冊数をご明記の上、ご一報いただければ、僕のほうで冊数をまとめて、あちらの出版社から購入させていただきます。

現状、というか、今のところ、確実にお売りできるであろうチャンスがこの日しかないので、当日参加されない方には申し訳ないですが、どうぞご了承下さい。(へきるちゃん、ICHIROさんライブに関しては、もしかしたらイレギュラー的にご相談は出来るかもしれませんが・・・もし、どうしても、と仰っていただけるのでれば、一度ご相談下さい。)

 

皆さんもご存知のことと思いますが、某若手人気俳優さんのツイッターでの発言で、いわゆる「韓流」というものの日本への影響について、今、ネットでは活発な発言や動きがありますね。仲間うちでも話になります。僕も、個人的なレベルですが、思うことはあります。

ふと思ったのですが、緑ちゃんに関しては、勿論、韓国語の本になっているわけですが、

これは、考えてみたら、日流のものなんだよな、と。

 

僕は、著者として、・・・なんだか、おこがましいことを言うようですが、

誇りを持って、あちらの、音楽に興味を持っている皆さんに読んでいただけたら、と、思います。

 

・・・僕は、読めませんが(←しつこいよっ。勉強しろよっ。)

 

ではー。



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今日は、午前中から、トミちゃん、ギターの和田監督、ベースのゴローくんにうちに集まってもらい、

スタジオ・リハーサル前の最後の打ち合わせをしました。

やっぱり、一緒に音を出しながらの打ち合わせは話が早いです

僕が一人で「あーでもない、こーでもない」と、ウネウネ考えていたことが、

簡単な説明をするだけで、音を出せばあっという間に

「あ、できたね、いいね!」と、すぐに形になって一安心、という場面が今日は何度もありました。

皆のお陰で、気持ちよくスタジオ・リハーサルに入れます。

 

トミちゃん、ゴローくんとは、陸前高田の旅が終って、深夜にバイバイして以来でした。

二週間前の今日は、商工会議所や避難所で演奏した日。

 

それにしても二週間、本当にあっという間です。

なんだか、日に日に、月日の経つのが加速度的に速くなっているように感じます。

これは、というか・・・こーいうことを考えたりする時点で、トシでしょうかね(笑)。

 

今日は、ゴロー君の誕生日が近かったということで、トミちゃんがケーキを買って来てくれて、

打ち合わせ終了後に、サプライズで三人でハッピー・バースデイ

 

ゴローくんは、突然のことに驚愕、感動のあまり、その場で突っ伏してワンワンと泣き始めたのでありました

よしよし、ゴローくん、20代最後の一年、悔いの無い様に過ごしてね・・・と、お〇さん、お〇さんたちは、目を細めてその光景を、いつまでも遠巻きに薄目で見ていたのでした

 

・・・というほどではなく(笑)、まあ、普通に「ありがとうございますー。いただきますー」ということで、

僕も一緒になってご相伴にあずかり、食べて飲んでのゴローくんを交えての打ち合わせは楽しく終了いたしました。

リハーサル、そして本番、本当に楽しみです。参加される方、どうぞ、お楽しみにね。

きっとまだまだこれから面白い・・・じゃない、かっこいい(笑)、アイデアも出ることでしょう。

音楽、楽しいです

 

 

食べ物、というか、日本、本当に色々と大変なことになってまいりました。

これから秋にかけて、沢山の食べ物が収穫の時期を迎えます。

僕たちはこれから、まだまだ色々と「まじかいな」というニュースを目にすることでしょう。

ある程度、想像もできますから、覚悟もしています。

 

ただ、この先これが、何年も、何十年も続くのかと思うと、ちょっと辛いものはありますね。

ゆーてもしかたのないこと、だとは思いますが、

本当に、とにかく、

 

“元栓を閉めて”、頂けないものか、です。

 

これができないから、話が進まない。全ての問題の解決の糸口がつかめない。

困ったものです・・・。

 

だから、ゆーてもしかたない

 

んですけどねえ・・・

 

ではー。



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近所の夏祭りに、ほんの少しだけでしたが、行ってきました。

まだまだこの町に来たばかりの新参者としては、

こうした地元のお祭りに参加させてもらうのが、照れくさいような。

お囃子に合わせ、沢山の人々に混じって、かわいらしい浴衣を着た子どもたちが踊っていました。

花のようでした。

 

先日の陸前高田の旅から帰って来た後、岩手県でも、汚染された稲わらを食べた牛の問題が発覚しました。

とかく、全国で宮城の稲わらが問題になっていますが、どういうことかと思って調べましたら、

どうも元々、宮城の稲わらというのは、稲わらの中では高級品だったのですね。

特にブランド牛といわれるような、高級牛を飼育しているところでは、

「宮城の稲わらを食べさせないなんて!」

という感じだったのだそうです。

飼育農家の信頼の厚い、牛の健康や発育にも良い、超優良な稲わらだったのです。

なので、みな、こぞって購入していた。

そして、松坂牛などを始めとする全国のブランド牛が、あらかた汚染疑惑となってしまったのです。

 

でも、そもそも宮城の稲わらが悪いんじゃありません。

本来、絶対に外に出てはいけない、決してばら撒かれてはいけない放射能が、放射性物質が、

ばら撒かれてしまったことが、問題なのです。

 

先日お世話になった岩手の一関商工会議所副所長のYさんも

「ガイガーカウンターを購入しました。働いている事務所内は今は基準値内ですが」

と前置きされた上で、「当面、こちらの魚などは避けたほうがいいと思います。」などとアドバイスをくださいました。

「我々大人は大丈夫だとしても、子どもや若い人は、やはり」とのことでした。

岩手生まれの岩手育ちで、現地で農業のなどの推進にもあたり、そして商工会議所にお勤めとあれば、

本来であれば、地元のものを勧めたいはずですのに。

PTAの会長もされて、地元の子どもたちと日々交流されているYさんならではの、

やむなし、ともいえるお言葉だと、深く受け止めました。

 

 

「気にしないよ」、という方もいらっしゃることと思います。

あまりに大規模な話ですし、長期的な話ですから、

最終的に、もう、これは個人の問題に帰結するしかないのかもしれません。

 

でも、人前では体面もあって正直に「怖い」とか言えないし言わないけど、

実はひそかに気にされていらっしゃる方もおられるかもですよね。

 

老若男女、そりゃあ40歳を超えたらヨウ素も配られないわけですから、

確かにもう僕たちはともかくともいえますが、それでも健康に関わることです。

この先、どういう病気になるかもわかりませんし、事故に遭うかもわかりません。

どんな病を背負い、どんな最後を迎えることになるかはわかりませんが、

でも、出来たら今回の件での放射能由来の病気には進んでなりたくはありませんし、

それで恨み節を言うようなこともしたくありません。

 

・・・なら。

 

どちらかを選択できるなら、あえてわざわざ危ないものを身体に取り込む必要は、ないと思います。

今はまだ、誰一人答えの出せないことです。そんなグレーゾーンのものをわざわざ食べるというチャレンジは、選択が可能な人であるなら、よっぽどのことでも無い限り、今は、あえて言えば、どこか蛮勇のようにも思えます。

せっかくの命、親からもらった身体。誰であっても、大切にすべきです。

僕の立場は、そういう感じです。

 

以下、友人が教えてくれたサイトの記事「買い物の時気をつけること(放射能を家に持ち帰らない)」の本文部分を、

これは今だからこそ大切だと思うので、転載させていただきました。

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内部被曝の9割近くが食べ物からのものだそうです。
ネットでたくさん食べ物に関して注意すべきことが見られます。
それを普段真剣に調べていても、仕事で疲れて買い物に行ったりすると、原発事故以前の感覚で無意識にカゴに入れて、家に持ち帰ってしまうことがあります。
そんなことがないように、これだけは気を付けようという、ざっくりとしたところをまとめました。
放射能を軽減させる下ごしらえについても記事をまとめる予定ですが、まずは家に汚染された食品を入れないことが大事です。(まとめました→放射能を減らす食品下処理法

長い間守られてきたという1年間1ミリシーベルト以内という基準を正確に守ろうとすると、個人でガイガーカウンターを購入する必要がありますが、国 内では品薄だったり、どの製品がいいのかわからなかったりして、手に入れられていない人が多いのではないでしょうか。私も当てずっぽうに買うには高い品物 なので、まだ買えていません。(※それに、簡易検査機では、食品内部の放射能は計測できません)

私は計算が苦手なので、「とにかくこれは避ける」という大雑把なやり方でまずは内部被曝を防ぎたいと思います。

特に参考にしているサイトを最後に載せています。併せてご覧ください。
また、放射能を減らす食品下処理法放射能から体を守る食べ物というまとめ記事も作成しましたので、併せてご覧ください。

目次

  1. 全般
  2. 水産物海藻
  3. 畜産物牛乳、乳製品
  4. 農産物米、小麦野菜、豆類大豆、大豆製品果物
  5. 加工食品
  6. アルコール
  7. 放射性物質の検査を行なっている企業、小売店等
  8. 参考
  9. 履歴
  10. 関連

※この記事は今後も加筆修正していきます。

全般

  • 牛乳と魚、原発近くの食材を避ける
  • 産地を表示しないスーパーを避ける
  • 1キロあたり10ベクレル(ヨウ素、セシウム)を下回る場合は安全としてよい ← 低ければ低いほどいいし、何が絶対と言えないものなので削除しました
  • EU輸入制限地域(食品および飼料の輸出に際し検査が必要とされる輸入制限対象地域):福島、群馬、茨城、栃木、宮城、山形、新潟、長野、山梨、埼玉、東京、千葉、神奈川、静岡(2011/07/04 山形と新潟の規制は解除。静岡が7月中から正式に規制対象に。次回見直しは9月)
  • 簡易検査機で食品の汚染度を測る場合は、土壌や建物などに付着している放射性物質の影響で食品だけの数値を正確に測ることは難しいことに注意。また、厚みのある食品は、内部の放射能は測定できない
  • 一度でも変な食品を流通させた経歴のある会社のものは買わない(詳細 - 放射能汚染食品情報
  • 厚労省発表の食品の放射性物質検査データをみる(食品の放射能検査データ が使いやすくまとまっている)

水産物海藻

  • 水産物の産地表示は義務。国内産の場合は水域名または地域名(主たる養殖場が属する都道府県名)を記載する。水域名の記載が困難な場合は水揚港名または水揚港が属する都道府県名を記載することができる。輸入品は原産国名を記載する。

  • 貝、小魚、魚卵は汚染されやすい食物。注意が必要。
  • 宮城沖~駿河湾沖まで危険←危険な範囲はその後も広がり続けており、和歌山で自主的に放射線量を計測している方々によると、和歌山県沖の魚はすでに汚染されているとのこと(詳細はこちら。 ←和歌山の魚の件補足:単位がベクレルでないことに注意。何かが検出されているのは確かだが、線源がはっきりとは特定できない。いくつかのツイートから測 定器の積算線量を読んでいる可能性あり。シーベルトからベクレルを推定するのは難しく、人体に対する影響度はこの測定報告からは不明なため、和歌山県の魚 が汚染されているとは今のところ判断できない。ちなみに通常の食品の汚染度検査は、燃やして灰にしてから測定する。←さらに補足:海はつながっているの で、和歌山の魚がまったく安全だとは言い切れない。今後の測定報告を待ち、判断したい。
  • 生物濃縮するので、最初は小魚、6月は中型、7月は大型と注意する範囲は拡大する
  • 大型の魚類ほど高濃度。チェルノブイリの場合、事故の1年後が汚染のピークだった
  • 太平洋側のものより日本海側(若狭湾付近を除く)のものを買うほうがより安全そう
  • 淡水魚は水底に住む魚ほど汚染されている。生育環境の閉鎖性により、汚染度が高くなることもある
  • 三重県の魚受入について:汚染された魚を買い上げる復興支援策を発表していたが、三重県産として販売するというのは誤解で、放射能の計測値を添付して安全確認された魚というのが前提で、現時点では流通の条件が満たされていない とコメントを発表(6月22日の記事
  • 買う前に、都道府県が実施している水産物の放射能検査の結果集計を参照(勝川俊雄公式サイトにまとめあり。最新は水産庁HP食品の放射能検査データも参照。)
  • 養殖魚の個体識別検索 PCモバイル

海藻

  • 汚染されやすい食物。全体に注意が必要。
  • 福島沖~千葉沖までの昆布、わかめは絶対にダメ。
  • 昆布の漁期は5月から7月の解禁日から9月の中旬まで。
  • くらこんの塩昆布は、7月1日から自社検査を開始。第三者機関による検査も引き続き行う。賞味期限の下に採取時期の表記もあり。

畜産物牛乳、乳製品

  • 畜産物の産地表示は義務。国内産の場合は国産と記載する。輸入品は原産国名を記載する。

牛乳、乳製品

  • 牛乳はどの地域のものも危険
    放射能汚染地域の牧草や乳牛が他の飼育地へ移動しているため
    (乳牛は基本的に長距離移動は難しい)
  • 雪印、メグミルクは、独自検査はしていない。牛乳には福島産の原乳が使われている
  • 明治乳業は、独自検査はしていない。福島産の原乳は使用していない←2011/07/20 ニコニコ動画 1:12:35経過あたりの発言(明治牛乳には放射能が入っていると明治乳業の人が認めた)を元に、電話問合せを行ったところ、独自検査は行わず都道府県 の検査を信頼している。ちなみにその検査は土が汚染されているかどうかによる。そして土が汚染されているかどうかの検査は事故前事故後の空気中の線量に変 わりなければ行われない。つまり関西や北海道では変わりないので原乳の検査は行われていない。明治牛乳の特に産地を明記していない商品は原則その地域の周 辺の原乳を使っている。つまり関東で販売されている牛乳は、栃木、群馬、埼玉から東北にかけての物を使用している。各都道府県の原乳検査は週1回程度であ る」との回答でした。すでに問合せが殺到しているらしく、回答もしっかりしたものが用意されている印象。意図的に放射能をまぜた牛乳を販売しているわけで はないが、結果混ざっちゃってるかも、というようなニュアンスでしょうか。ちなみに明治乳業の「おいしい牛乳」はかなり早い段階からパッケージの原乳産地 の表記が消えています。
  • 森永乳業は、独自検査はしていない。福島産の原乳は使用していない(ヨーグルト、デザート等すべてにおいて)
  • 協同乳業は、独自検査はしていない。福島産の原乳は使用していない。社内基準30ベクレル(きびしめ) ←2011/07/07 電話確認。25年前チェルノブイリ事故の際には国内基準が整備されていなかったため、独自検査を行うために社内で決めた基準(30ベクレル)を作った。現 在は政府が国内基準を打ち出しているため、それに従っている。現在独自検査をしていないのは、25年前に購入した検査機器が故障したためで、新しい検査機 器を発注しているが、品薄でなかなか届かない。届き次第独自検査を再開する予定。その際も、国の基準に則って検査を行う。
  • 小岩井乳業は、独自検査はしていない。福島産の牛乳は一部(自販機等で販売されている乳飲料など)で少量使用されている(牛乳に関しての詳細は【原発】 電話で聞いてみました 各社の牛乳産地と放射能検査の現状を参照)
  • 各社独自検査をしていない場合、各県の機関が測定を行っているが、その検査にはストロンチウムの検査は含まれていない(詳細は【原発】 電話で聞いてみました 各社の牛乳産地と放射能検査の現状
  • (牛乳まとめ)やはり牛乳はどの地域のものも危険。
    各都道府県の原乳の検査は毎日行われていないし、関西や北海道ではそもそも行われていない。そもそもの検査基準が非常に緩められている。広範囲にわたって 飼料が汚染されたことが確認されているし、実際はどこの地域のものでもリスクはあると思われる。外国産>外国産の飼料のみで育てられていて、水の汚染が少 ない地域産>国内だが牧草からこだわった飼料で育てられていて、水の汚染が少ない地域産 の順で安全そう。国産だと各地の原乳を自在にまぜて調整できる大手メーカーよりは、小規模のメーカーで、できるだけ原発から遠い地域の、こだわりの製品が より安心か。
  • 特に乳清は危険。スキムミルク(脱脂粉乳)も危険
    バター、チーズなど水分が減って乳脂肪分の割合が高い加工品の方が汚染の度合いが少ない
  • 乳清飲料、パン、菓子への添加物として乳清(牛乳を脂肪分と水分に分けた際、もともと含まれていた放射性物質の90%が乳清に移る)が使われていることが多いので、避ける

  • 牛は全国へ移動しているので個体識別を参照(PCモバイル
  • 国産という表記だけでは安心は担保できないためブランド肉推奨だけど産地ロンダリングあり
  • 牛肉は国内の他の農場だけでなくオーストラリアにも行っているので、注意が必要な範囲広い ←5月末の報道は、誤報だったようです(2011年5月26日付 日刊スポーツの記事について【誤報】)。そもそも日本はBSE発生国なので、日本からの牛肉の輸出先は非常に限られているとのこと。外国産は安心できそうです。
  • 加工食品になると、産地は完全に不明になる
  • 農林水産省が7月14日に稲わらの汚染問題で畜産農家と稲作農家に対し緊急点検をするように指示したのは、福島、岩手、宮城、栃木、茨城、群馬、埼玉、千葉の8県
  • 沖縄、熊本、福岡、佐賀、長崎、大分、鹿児島、高知、広島、山口、高知 あくまで県の把握する範囲では、被災地からの家畜の受入はなし(2011/07/08時点)
  • 沖縄、宮崎、島根、北海道は被災地の肉牛の受入あり(2011/07/15沖縄県環境生活部生活衛生課に電話確認 沖縄は移動はなしとのことでした)
  • 宮崎へは肉牛、鶏、豚も移動したとの情報あり。宮崎に入った汚染牛は佐賀牛・近江牛等と銘柄を変え、全国に流通する可能性あり(2011/07 /15 宮崎県農政水産部に電話確認したところ、県で把握している範囲においては、牛、豚、鶏の移動は公的にはなく、牛に関しては一般の農家がセリで購入して宮崎 に持ち込んだということは聞いているとのこと)
  • 北海道に移動した牛は16頭。一時飯舘村にも滞在。いずれも繁殖用で妊娠中。受け入れたのは新ひだか町三石のパシフィック牧場。ここで育った牛は「みついし牛」として出荷される
  • 鶏:他県へ移動している(基本的に長距離移動は難しい)(鶏の個体識別検索 ※牛と違って義務ではない)
  • 豚:宮崎へ524頭、熊本へ15頭移動。緊急時避難準備区域と計画的避難区域から約1万頭が県外(主に長野、群馬、新潟、熊本など)へ移動し、いずれも避難先の県産として出荷されている豚の個体識別検索 ※牛と違って義務ではない)
  • (鹿児島県黒豚生産者協議会へメール問合せの回答2011/07/19時点)福島から豚を受け入れたことはなく、そもそも黒豚証明書つきの「かごしま黒豚」は鹿児島県内で生産・肥育されたもので、他県産のものはない。
  • (まとめ)農林水産省が5月上旬時点で全国に受入を募った計画的避難区域内の牛は約1万頭。また、計画的避難区域には震災直前に 豚約1万頭、鶏約91万羽がいた。家畜の移動を完全に追うのは難しいので、外国産のものをさっと買うほうがストレスと手間が少ない。牛肉は、飼育方法の違 いから肉質に差があり、偽装されにくいオーストラリア・ニュージーランド産(牧草で育てられている)がより安心。豚と鶏は肉質で見分けるのは難しい。(武田先生は鶏肉はできるだけ買わないことを提案

農産物米、小麦野菜、豆類大豆、大豆製品果物

  • 農産物の産地表示は義務。国内産の場合は都道府県名もしくは一般的な地名を示す。輸入品は原産国名を示す
  • 野菜の個体識別検索

米、小麦

  • 2011年夏頃まで買える米は去年(2010年)の秋に収穫されたものなので大丈夫
  • 米は汚染の影響が次の収穫期に出る
  • 今年の収穫分の米はできるだけ原発から遠い生産地を選ぶ。岩手、秋田、新潟、長野、山梨、愛知より外側は大丈夫。秋田と新潟は大丈夫。
  • 麦、ライ麦は汚染されやすさは低いらしいが、米と同じような感覚でいいのでは
  • 玄米はミネラル豊富だがぬかに汚染物質を貯めやすいため、今年(2011年秋)の収穫分からは注意
  • 日清の薄力粉フラワーは主な原産地アメリカ。ただし群馬、埼玉の小麦粉も調整のため配合。カメリア(強力粉)は100%カナダ、アメリカ産
  • 冬まきの麦は6月ごろに収穫される
  • 農林水産省が7月14日に稲わらの汚染問題で畜産農家と稲作農家に対し緊急点検をするように指示したのは、福島、岩手、宮城、栃木、茨城、群馬、埼玉、千葉の8県
  • セシウムを含む灰30トンが米どころ秋田に入る ← この30トンは流山市に送り返されることが決まったそうです。これまでに搬入された207トンは、すでに埋め立てた分も含め、線量測定がされるとのこと
  • 米トレーサビリティ法の施行により、米や米の加工品の取引(外食産業で使われる米や和菓子・酒・みりんなどの加工品なども対象)の記録・保存 (2010年10月1日から)と、産地情報の伝達(2011年7月1日から)が義務化されている(罰金つき)。ただ、国産は都道府県や一般に知られた地名 でも可だが、あくまで「国内産」「国産」という表記でよい。

野菜、豆類

  • たけのこ、きのこ は汚染されやすい食物。注意が必要
  • 福島、茨城、栃木産は買わない。東京、群馬、千葉、埼玉、宮城も避ける。
  • ホウレンソウ、ニラ、ネギ、キャベツ、長い形の豆、丸い形の豆 に、より注意が必要。
  • だいこん、にんじん、じゃがいも は、そこそこ注意が必要。
  • にんにく、パプリカ、玉ねぎ、きゅうり、ズッキーニ、トマト は、より安全。
  • 2011/07/03放送のNHKスペシャルにて、大塚厚労副大臣が「野菜の放射能検査は(検査体制が追いつかないので)、規制値を超えた野菜の流通を完全に止められてはいない」と発言
  • 出荷制限を受けている時期に福島産の山菜が新潟産、山形産と偽装、出荷自粛の時期に福島産のたけのこが新潟産、山形産、青森産と偽装され出荷されている

大豆、大豆製品

  • 大豆はセシウムを吸収しやすいため、注意が必要(一説によるとりんごを1とした場合160倍吸収する)
  • 大豆の収穫期は秋
  • 大豆の加工食品は豆腐、あげ、おから、醤油、味噌、きなこ、豆乳、納豆など。いずれもこの秋以降は注意(味噌、醤油については下を参照)
  • 味噌の熟成期間が夏仕込みで約4ヶ月、冬仕込みで約6ヶ月。商品となって出回るのはそれ以降。
  • 醤油の熟成期間は早くて約3ヶ月(白醤油や、速醸醤油と呼ばれる方法で作られた安価な醤油は熟成期間が短い)、本格熟成のものは1年以上。商品となって出回るのはそれ以降。
  • 日本の大豆の自給率は低い(およそ5%)。2010年時点での主な輸入先はアメリカ(約71%)ブラジル(約16%)カナダ(約11%)など。国内主要産地は、北海道、九州、東北(2010年)。国産使用の製品の場合は国産大豆使用と表記してあるので見分けやすい。
  • 高野豆腐は豆腐を凍らせたあと乾燥させたもの。カルシウムが豊富。工場生産がほとんどで、生産量の9割が長野県で作られている。外気で凍結乾燥させる天然ものは、長野、福島、宮城などで生産されている

果物

  • ブルーベリー、クランベリー、こけももなどベリー類は放射能を取り込みやすいが、栽培環境にも依存
  • りんご、なし、あんず、いちご、さくらんぼ、ラズベリー はより安全

加工食品

  • 産地表示されていないものは買わない
  • 一度でも変な食品を流通させた経歴のある会社のものは買わない(詳細 - 放射能汚染食品情報
  • カレーのルーについて。ハウス食品は原発から約180kmのところに関東工場あり。エスビー食品は原発から約150kmのところに宮城工場あり。
  • 比較的安心そうなのは、日本コカ・コーラ、ハインツ、大塚製薬、サントリー、ネスレ、サンガリア、くらこん
  • 乳清飲料、パン、菓子への添加物として乳清(牛乳を脂肪分と水分に分けた際、もともと含まれていた放射性物質の90%が乳清に移る)がが使われていることが多いので、避ける
  • 製造所固有記号は完全にはあてに出来ないが、参考にできるサイト→製造所固有記号Wiki PC モバイル製造所固有記号リスト
  • 加工食品の原料原産地表示は一部(下記)を除いて義務ではない。義務の場合は国内産の場合は国産(あるいは農産物は都道府県名その他一般に知られ ている地名でも可、畜産物なら主たる飼養地が属する場所の、水産物なら生産水域か水揚港の、都道府県名その他一般に知られている地名でも可)輸入品は原産 国を示すのみでよい。主な原材料の原産地が2つ以上ある場合は原材料に占める重量の割合の多いものから順に記載。3つ目以降の原産地はその他と記載してよ い。
    表示義務の対象品目は20。生鮮食品に近いものを対象としている。きのこの加工品、緑茶、調味した食肉、異種混合したカット野菜、表面をあぶった食肉や魚 介類、ゆでたり蒸したりした食肉や卵・魚介類・海藻類、合いびき肉その他異種混合した食肉、衣を漬けた食肉や魚介類、もち、黒糖とその加工品、こんにゃ く、干したり塩蔵したりした魚介類や海藻類、豆類など(2011年3月31日改正)

アルコール

  • ビールは汚染の影響のピークが1~2年後
  • アサヒビールは原発から約60kmの距離の福島工場が稼働中。高性能の放射性物質検査装置を導入予定(5月時点)。約190kmの茨城県にも工場がある。賞味期限の後ろにある「/アルファベット」のアルファベットが製造工場を表す。福島工場は「H」茨木工場は「B」。その他のアサヒビールの製造所固有番号や代表商品についてはこちらを参照
  • 米を原料にした酒(日本酒、焼酎など)は米トレーサビリティ法の施行により産地情報の伝達が義務化されている。ただ、国産は都道府県や一般に知られた地名でも可だが、あくまで「国内産」「国産」という表記でよい

放射性物質の検査を行なっている企業、小売店等

-------------------------------------------

こちらのサイトは、日々、加筆更新されるとのことですから、

こういったことを気にされて生活されていらっしゃる方は、ブックマークされておくと良いかもです。

 

いつまでも、子どもたちが、町のあちこちで、

元気な踊りや笑い声を聞かせてくれますように。

 

ではー。



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居座っておりまして(笑)。

いや、居てもらっておりまして

 

いやー、本当に20数年来ですから、人生の半分を一緒に過ごしている友というのは、

話が尽きないといいますか、ほんとうに、いつまでも飲めてしまうというか。

 

二週間ほど前、引越し祝いにと、グリーンラベルを2ケース持ってきてくれたM。

では半返し、ということで、昨夜は24本飲んでもらうつもりでしたが

さすがに途中で、「いやー、また次回にとっとくよ」ということで(そんなにいつまでもは無いよ(笑))、

深夜にお開きになりました

 

それでも8~10本くらいは飲んでたと思うので、2.5~3リットルくらは身体の中に入ったわけですよね。

すごいなあ

って、僕もお酒は違えど、ずっと同じペースでは飲んでいたわけですから、まあ同じか

 

でも、とっても楽しい夜でした

 

さて、また冷やしておこう(大量に(笑))

 

ではー。



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先日、お伝えさせていただきました、

「ゴールデンメイニアックスの奇蹟」のDVD発売に伴いまして、

僕のオフィシャル・サイトに、書き下ろしのメッセージを載せた特別リンクページを作成いたしました

入り口は、トップページのNewsからとなっております

DVD、あれから何度か見ておりますが、その度に、・・・汗をかきます(笑)。

 

また、9月4日に行われる、渋谷のクラブ・クアトロでのICHIROさんのツアー・ファイナル・ライブですが、

当日のスペシャル・ゲストのミュージシャンの名前が発表になりました。

なーんと。

 

SPECIAL GUEST:仲井戸“Chabo”麗市/佐藤タイジ(THEATRE BROOK/TAIJI at THE BONNET/TheSunpaulo)

 

うーむ。凄い。

BAND MEMBER:Bass TOKIE/Drums 中村達也/keyboards 川村ケン

・・・と、バンドメンバーだけでも凄かったのに(僕はさておき)、これはいよいよ、えらいことになってまいりました。

本当に楽しみです。本番が、待ち遠しいです


・・・って、まずは資料が来るのが、待ち遠しいのですが(笑)。

 

その前の、8月25日のトミちゃんのライブの内容は、序々に詰まって来ておりますよー。

(っつっても、結果的には、まだ半分くらいなんだろうなあ、とも思っております。

やってるうちに、これから色々アイデアとか出てきちゃいそうな予感がしています

トミちゃん本人は、今、所用で海外に行っているそうなのですが、明日くらいには帰って来るとのことでして、

すぐに最終打ち合わせがあり、そして、ほどなくスタジオ・リハーサルも始まります。

アレンジに追われております僕の部屋は、いい感じで譜面が産卵しております。

 

って、玉子なら食べちゃうよ。

違うでしょ

 

はい、どうもね

 

昨日、今日と、キーマガの連載の原稿を書いておりました。

夕方、日が翳ってきて、気持ちよい風が吹き始めたところで、

ノートブックを持って屋上に上がり、空の下で原稿を書いてみました。

 

始めてのことでしたが、気持ちよかったです。

ってか、ピアノとかが目の前にないので、嫌がおうにも書くことだけに集中できるので、

ペースが上がることが判ったのが、一番の収穫でした。

 

今度は、昼間からでも、屋上でやろうかな。

どうせなら、水着着て、やけどしたらアレなので、日焼け止めなんかも塗って・・・

って、あと小さなプールでも買って、・・・となれば、ビールが欲しくなり、

・・・まあ、これじゃ完全に原稿は書けないですね。

 

ということで、今日は、ラムネを飲みながら。

ビー玉の音がいいんですよね。カラン、カラン、コロコロコロって。

とっても美味しかったです(←ん?)。

 

その後に、ガリガリ君(ソーダ味)も食べてしまいました。

なんか、ソーダ味のはしごしちゃいました。

まあいいですよね、たまには。

 

そーだ、そーだ

 

はい、すみませーん

 

ではー。



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ずーっと見てきたアナログテレビが、今日、最後を迎えます。

いえ、勿論、数年前にインチキテレビを買ってからは、地デジが見れるようになっていたのですが、

それからも、そしてここ最近は特に、地上波を見る時間は、日ごとに減ってきています。

 

子どもの頃、僕は、テレビっ子でした。

子ども向けのアニメや戦隊ヒーローもの、ウルトラマンや仮面ライダーシリーズなど、

本当によく見ていました。

ドリフの「8時だよ!全員集合!」が、お笑い番組の中で一番大好きな気持ちは、

以降の数々の漫才ブームなどを経た今でも、変わりがありません。

 

アナログテレビが、今日、終わるのですね。

 

何かが一緒に終わるような気がします。

 

そして、今の地上波の番組には、全部とは言いませんが、

何とも・・・、という気持ちがしています。

 

個人的には、だいぶ前から、ケーブルTVを利用していました。

ここに引っ越すて以来は、スカイパーフェクTVを利用する様になりました。ケーブルTVやNTTのひかりTVなどの選択肢もあったのですが、どうしても見たい音楽専門チャンネルが、それらの会社では放送していなかった為です。一時期に比べ、多チャンネル化は進みましたが、まだまだ、住む地域によって制限されるなど、自由度は高くないのが現状です。これは、年単位の時間がかかるとは思いますが、いずれ解決もされるでしょう・・・が、同時に、淘汰もされてしまうので、僕が好きなチャンネルが必ずしも生き残れるかなどは、微妙です。

結局のところ、需要あっての、供給ですから。

 

それにしても、

 

これでいいのか、日本のテレビ、とは思います。

 

一部のドキュメンタリーなど(それも、良番組は地方局の制作によるものが多いようです)を除いて、本当に、どうしちゃったのでしょうか。ニュース番組ですら、ワイドショーのように、一時的な、というか、単に目先の耳目を引くためのコンテンツや人選をしていますが、それが結果的にテレビ離れを起こしているように思えて仕方ありません。

 

夢が詰まっていた、あのテレビよ、かなうなら、もう一度、という思いです。

 

制作されている方たちも知っている、あの、“いいもの”を作れば、解決するでしょうに。

 

それを阻んでいるのは、・・・残念なことに、ユーザーでもあるのですよね。

 

ではー。



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先日、買ってきた“たまこん”を煮ました。

おーいしかったなあ

 

今から、いい感じで冷えた、このたまこんで、一杯します(さっきのはツマミ食い)。

 

というわけで、今日はこのへんで。

 

ま、たまにはこんなのも。

 

・・・たまこん、だけに。

 

おっ(笑)。

 

ではー。



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旅の記録の最後に、まだ、ここまでお話していなかったことを書いておきましょう。

 

今回、僕たちは、音楽を届けに行きました。

前にも書きましたが、「今、被災地で、本当に音楽など必要とされているのか」

これは、ずっとずっと、思っていたことでした。

衣・食・住。

人間が生きていくのに最低限必要な、これらが未だ整っていない状態で、行き届いていない環境で、

果たして、「音楽します」と、家も着るものも食べ物にも困っていない東京から出向いて行く僕らが、

受け入れてもらえるのだろうか。実際に、喜んで聞いてもらえるのだろうか、楽しんでもらえるのだろうか。

いや、万が一、誰にも聞いてもらえなくても構わないけれど、

・・・そもそも、“迷惑な人たち”になってしまうのじゃないのだろうか。

何があっても、迷惑だけはかけたくないよね・・・、そんな気持ちが、三人の心のどこかに、ずっとあったと思います。

 

でも、行くと決めたからには、ちゃんと行って、しっかり演奏しよう、音楽を、歌を、届けよう。

結果は、あとから付いてくるさ。

とにかく、少しの時間でも、楽しんでもらえるように、できることをやろう。やってみよう。

 

そんな気持ちでした。

 

ライブは、最終的に四ヶ所ですることができました。

保育所、中学校、お醤油工場の方たちへ向けて、一時的にお借りした近所の商工会議所の会議室、そして、避難所になっている体育館。

これら、何処へ行くにも、瓦礫と壊れた建物の中を走ってゆきました。

 

今、僕たちが住んでいる街では、コンビニやスーパーに入れば音楽が流れていて、

洋服屋さんや、喫茶店や、ご飯屋さんや居酒屋に入っても、音楽が流れています。

日常に、当たり前のように、音楽があるのです。

 

でも、今の陸前高田には、音楽が流れているどころか、そもそも、そういったお店が、まったくありませんでした。

あったのは、

 

トラックを改造して営業していたお弁当屋さんと、

 

仮設のプレハブで作られたお店が一軒だけでした。

ちなみに、こちらのお店には冷房はなく、一歩中に入った途端、むわっとむせ返るような暑さがしていました。

いわゆるスーパーの代わりですから、野菜や乾物などと一緒に、冷凍食品や、アイスクリームのマシンなどもあり、熱を出すのですよね。

でも、冷房がないのですから。しかも、夕方でこの暑さなら、昼間は、蒸し風呂のようではないか、と想像できました。

それでも、僕たちが行った時、5人いた店員さんたち(おそらく地元のパートの方では)が、

皆さん笑顔で「いらっしゃいませー!」と、次々にやってくるお客さんを、とても元気に迎えていたのが印象的でした。

こうして、現地で、何かものを売ることができ、住む人や訪れる人がそのものを買うことができ、

生活を継続していくことが、復興への太い道になることは間違いないと思いました。

 

少し横道にそれましたが、続きを書きますね。

最初に訪れた今泉保育所(建物は長部保育所)では、2歳児~5歳児くらいの20人くらいと、先生たちを前に演奏をしました。

(演奏中の写真や演奏曲目は、トミちゃんのダイアリーをご覧下さい。)

 

左から、トミちゃん、トミちゃんのNYでの友達で、陸前高田市出身のジャズシンガーのヨウコちゃん(今回、11年ぶりに帰郷とのことでした)、

ヨウコちゃんの子どもで、先日僕の家にも遊びに来てくれたキアナ(9歳)、そして、ゴローくん。

ライブ直前の、打ち合わせでの一枚です。子どもは、いつでも無邪気でいいですね。ポジティブの塊です(泣く時とか、兄弟喧嘩の時は凄いですけど)。

 

どの会場でも、着いたら、ちょっとしたスピーカーとミキサー(僕の私物)にマイクを刺したりして用意する時間が15分~20分ほど。

リハーサルなどは一切する時間はなく(授業中だったり、お仕事中だったりで、音が出せない、というのもありました)、

スピーカーから音が出るのを確認したら、もう、そのまま本番、という流れでした。

曲順などは、それぞれの会場に向かうクルマの中で決めていました(また、本番中に、雰囲気を見て曲目を変更したりもしてました)。

 

先の心配を胸に、半ば「もう開き直ろう。やるしかないんだし。」と、いざ始まってみれば・・・・。

子どもたち、そして先生たちの笑顔。一緒に歌ってくれる、可愛くて大きな歌声。

 

「・・・良かった。」

 

もう、その一言につきました。そんな安堵感もあって、子どもたちが僕たちに向けて歌ってくれた「たなばたさま」の時には、思わず涙がこぼれそうになったのです。

 

そうそう、その時に伴奏の為に譜面を持ってピアノのところに来た若い女性の先生が「・・・うわー、私、プロの前で弾くの(笑)!?」って、僕の顔を見て笑ってくれた時には、僕もとっても和みました。

「いえいえ、とんでもないです!・・・ガン見して勉強させてもらいますので、ささっ(笑)。」と言って席を立ったら、「ひゃー」って。

 

最後に、園長先生が「“物資”と言う言葉は、もう皆さん覚えたと思いますが、今日は、こちらの方々から、“心”という贈り物を頂きました。心というのは、カタチには見えませんが、とっても、とっても大切なものです。」と、小さな子どもたちに語りかけられ、聞いている僕たちがジンとしてしまいました。

そして、子どもたちの可愛い声で「ありがとうございました!」と元気に言ってもらって、また感動。思わず僕たちも「ありがとうございました!」と頭を下げました。

 

そして、僕がピアノを弾いて、子どもたちをお昼に送り出して(僕が勝手に弾いたんですけど、先生が「わー、伴奏付きだねえ。良かったねえ」って拾ってくれたです。嬉しかったなあ。)、

ともあれライブは、大成功(だったと思います)。

 

大活躍だったヨウコちゃんやキアナを送り出し、最後に、遊戯室に残った僕たち三人だけで、

 

思い出に、一枚。

本当に、三人とも、色々な意味でほっとした表情です。

 

こんなものも、置いてきました。

 

そして、気仙中学校へ。

 

校舎は、被害をまぬがれた、矢作中学校のものです。

 

気仙中学校と書かれたこの板は、津波で流され、14キロもの沖合いで見つかったのだということです。

 

なんと。

恐縮であります。

 

廊下には、近隣の学校から寄せられたメッセージや、書道家の武田双雲さんからのメッセージがありました。

 

本番直前。僕たちは、この楽屋として使わせて頂いた図書室で、生徒さんたちが吹き抜けのホールに集ってくれるのを待ちました。

この日は、午後の授業の最初の一時間、休講にして、全校生徒で僕たちのライブを見る時間に当ててくれるのだとのこと。

緊張です。

大切な授業に匹敵する、価値のある時間にせねば、と。

そして、こちらでも、ライブは成功しました。トミちゃんは「子どもたちが楽しんでくれたの、感じたよ」って嬉しそうに言ってました。

僕は、なんと言っても後ろ向きでしたので、反応は全て背中越しでしたが・・・でも、音楽の先生を差し置いて弾いた「夢の世界を」という合唱曲のピアノ(初見・・・(汗))に、

ちゃんと生徒さんたちの歌声が乗っかってくれた時には、感動で頭が真っ白になりました。

ただただ、無心にピアノに向かえた素晴らしい時間でした。

 

地元の新聞に載った記事はこちらです。

(この新聞、陸前高田で警察官をしている従兄弟も、たまたま署でこれを見てくれていたそうで、

「これ、ケンちゃんですよね!」と、避難所までコピーを持ってきてくれました。)

 

そして、こちらにも一冊ね。

ライブの途中、マイクを借りて生徒さんにもお話させてもらったりもできました。

「音楽室においてもらうから、休み時間にでも読んでね。いつか、また一緒に音楽しましょうね」と。

 

最後に、

学年ごとに、記念写真を撮りました。撮影して下さったのは、学校の先生です。

「ほらほら、〇〇、こっち向けー」なんて言いながらの(なんか、とっても懐かしかったです)、楽しい時間でした。

 

そして、翌日の一関の商工会議所でのライブですが、この時は、本当に時間がなく、

会場(会議室)での写真が唯一この

 

一枚だけなのです。ライブの時の様子などは、トミちゃんのダイアリーでご覧くださいませ。

こちらは唯一、生ピアノが無かったので、支援物資として気仙中学校に送られてきたデジタルピアノをお借りして、それを持ちこんでの演奏でした。

 

こちらでは、陸前高田で200年続いている、「八木澤商店」というお醤油屋さん(お味噌なども)の工場で働く皆さんの前で演奏をしました。

歴史ある工場は、津波で壊滅。かろうじて救出された醤油は、避難所に無償で配り(これは、全国ニュースにもなったそうです)、

さらに、社長さんである河野さんは、一人の解雇者も出さず、会社を存続させ続け、

震災後に跡を継いでくれた息子さんのもと、一関市で新たに工場を稼動させ始めたところなのだそうです。

そんな皆さんの、お仕事の合間のお昼休みに、僕たちは演奏をしたのです。

(八木澤商店さんのサイトのトップに、この日集まってくださった皆さんの笑顔が見れます。)

 

こちらでも、本当に貴重な体験をさせていただきました。

今回の旅では、どこのライブもそうですが、普通にコンサート会場などで演奏をしている限り、体験しえない体験をさせて頂きました。

 

ライブ後、こちらで働く方に、「最初にピアノが鳴った瞬間ね、もう涙がでちゃって。そして、歌が聞こえてきて、また涙。」

なぜか、というお話もして下さいました。

「あれからね、ずーっと頑張ってきたのね。『私、頑張ってるなあ』って自分でもわかるくらい、本当に皆で頑張って、毎日、毎日過ごしてたのよね」

「そして今日、あれから初めて、音楽を聴いたの。そしたら、もう、バーッと涙が溢れてきちゃって」

「『ああ、私は、こうやって、音楽を聴いていいんだ。楽しんでも、いいんだ』って思えたら、ものすごく泣けてきちゃって」

こう仰ったのです。

 

音楽、やってて良かった。

今回、こうして岩手に来て本当に良かった、と思えた、こちらがスーッと救われたような気がした瞬間でした。

 

こちらの皆様にも、ね。

この後、近所の定食&ラーメン屋さんで、今は会長さんになられた河野前社長さんに、お昼をご馳走になりました。

色々なお話を伺えて、これまた貴重な時間を過ごさせていただきました。

ご飯、とっても美味しかったです。

 

先ほどのお話をしてくださったのは、こちらの青い制服を着た女性の方たちでした。一番左も工場の方です。

一番右の方は、場所を提供してくださった、こちらの商工会議所の副所長さんで、

帰りしな名刺を下さり、「東京に帰ったらメールちょうだいね。返事書くからね。」と仰っていただいたので、

ご挨拶のメールをさせていただきましたら、本当にご返信を頂きまして、

実はあれから、何度もメールのやり取りをさせて頂いているんです。

復興に向けて、皆さん、必死で頑張っておられます。

僕も、これからも、何か協力できることを積極的に見つけていきたいと思っています。

 

そして、最後のライブ会場であります、高田第一中学校の体育館へ。

これは、前日に突然決まった話でした。

こちらの中学校は、ヨウコちゃんの出身校。

そして、トミちゃんは個人的に、愛知の自分の母校の後輩にあたる生徒さんたちに呼びかけ、

募金を集め、団扇を作って、今回、こちらの学校に贈る、ということを考えていたのです。

(この経緯など、布袋中学校のホームページでも紹介されています。)

 

学校は、今、運動競技会へ向けての準備の真っ最中で、残念ながらライブの時間がとれず、

なので最初は、団扇の贈呈式だけの予定でした。

 

しかし、お手伝いと、そして翌日の贈呈式の段取りの打ち合わせに訪れた際、こちらの校長先生が

「明日、避難所の方で演奏されてみてはいかがですか?皆さん、喜ばれると思いますよ」と仰ってくれたのです。

そして、

 

こちらの避難所の本部へ案内され、担当者の方とお話をして、「では、明日、14時半からお願いします」と、

決まってしまった話なのです。

 

実際、この前には、僕たち三人は、避難所で、衣類の仕分けと、ダンボールなどのゴミ捨てなどのお手伝いをさせて貰っておりました。

避難所の様子は、前にも書きましたが、本当に、テレビなどで皆さんが目にするままの、プライバシーの無い、大変に辛く見えるものでした。

固い床にビニールシートを張り、卓球のボール・フェンスで仕切られただけのスペース。勿論、冷房などありません。

開け放たれた三方の扉からは、暑い熱気が、申し訳程度の風と共にはいってくるだけ。

それぞれのスペースには、支援物資と思われる四角い扇風機(送風機)が一つずつありました。

おばあさんが、背中を扇風機にぴったりとつけるようにして、どうにか過ごされておりました。

ぐったりと横になって目を閉じておられる方、一つのスペースに集まって、汗を拭きながら世間話をされておられる方々。

 

お手伝いの途中には、

「皆さん、ただ今、市役所より氷の差し入れがありました。こちら、中央に置いておきますので、ご自由にどうぞ!」

と、避難所を管理されている方による、マイクを使ったアナウンスがありました。

すると、それぞれの場所から、皆さん、ゆっくりと起き上がり、氷を取りに来られるのです。

 

僕たちが仕分けをお手伝いしていた、体育館のステージにも、ふとおじいさんが、

「何か、夏物のシャツはないかい?」

と上がってこられました。悟郎くんが「あ、そっちのダンボールに、ポロシャツが二枚ありました」と言って取り出すと、

「ああ、じゃ、それ頂いていくよ。ありがとう。」と、ステージを降りていかれました。

 

今は、子どものいらっしゃるご家庭は、皆、仮設住宅に入っていて、残っているのは、身寄りの無い方などだそうです。

皆さん、ここで、もう四ヶ月以上も、生活をしておられるのです。

 

支援物資の積み上げられた出入り口付近。

 

廊下は、広く整理されておりました。左手側のトイレの先を曲がると、避難所になっている体育館でした。

 

肝心のライブですが、これは、一生の思い出に残る体験になりました。

 

トミちゃんは「皆さん、お休みのところ、申し訳ありません。東京から歌を歌いにやって来ました」と、切り出しました。

僕たちは、必死で演奏しました。

暑かったです。一曲弾くだけで、汗が滝の様に流れます。

でも、とにかく、一生懸命、演奏しました。トミちゃんも、ヨウコちゃんも、キアナも、素晴らしい歌を歌ってくれました。

 

終わった後、一番前のパーティションにいたおばあさんに「うるさくなかったですか?お騒がせしてすみませんでした」と言うと、

「いえいえ!大好きな曲が聴けて、本当に良かったわ!楽しかったわ!ありがとう!」と、満面の笑みで喜んでくださったのです。

 

ライブ中には、他の皆さんも、パーティションから起きて出てきてくださって、めいめい、折りたたみ椅子を出してきて下さったりして、皆さん、じっと聴いてくれたんです。

そして、曲が終わるやいなや、大きく拍手をしてくれたり、最後には、「ありがとー!」と声をかけて下さった方もいらっしゃいました。

 

 

音楽って、素晴らしい!

 

 

では、もう少し、こちらの様子を。

 

避難されている方と、生徒は、トイレや手洗い場など、一部を一緒に使っています。

地域の皆さんが、共存していました。

 

学校は津波の被害はまぬがれましたが、このように、土砂崩れを起こしていたりしていました。

 

校庭だったところには、仮設住宅が建てられています。

そして、生徒さんの中には、学校が終ると、この仮設住宅に帰る子もいるのだそうです。

 

 

この仮設住宅ですが、色々と問題も多いそうです。

まず、継ぎ目などに隙間が開いてしまっていて、今、問題になっているハエが入ってきてしまう。

また、これは先ほどの気仙中学の先生に伺ったところですと、

「カエルが入ってきちゃう」

「寝てると、足に10匹とか、小さい青ガエルがくっついてるんです」

とのこと。

そして、

「蟻も入ってきます。しかも蟻は、いくらテープなどで目張りをしても、入ってくる」

「なので、子どもたちには『蟻は気にするな』『いても無視しなさい』と言っています。」

こういう状況だそうです。

 

昨日のニュースですが、

陸自、陸前高田を撤収 園児ら感謝状と歌で送別 岩手

というものがありました。写真の隊員の方や子どもたちの笑顔が印象的です。

 

しかし、僕たちがライブをさせて頂いた長部保育所の向かいにある、長部小学校は、今も遺体安置所になっていて、

僕たちがあちらに着いた12日にも、新たに一体、ご遺体が発見され、この小学校に安置されたのだと聞きました。

 

気仙中学校で演奏を聴いてくれた八十数名の生徒のうち、七十数名は、家を失った子たちでした。

八木澤商店の方々も、やはり殆どの方が同様に家を失い、また、半数に近い十数名の方が、肉親を失ったということでした。

お昼をご馳走してくれた河野会長さんも、冷やし中華をすすりながら「・・・まだ、妹が上がってこないんだよ」、と仰っていました。

「でも、瓦礫の泥の中から、奇跡的に密閉された状態の“麹”が見つかってな。ああ、これは『まだ、やれ』ってことなんだな、って。」とも。

「2~3年かかるけど、またあれを元に、うまい醤油作るよ」と。

この老舗の醤油は、今後、全国のイトーヨーカドーなどでも流通する予定だそうです。僕も、買います。

 

震災から、四ヶ月が過ぎ、例えばテレビなどは、ほとんど通常運転になっていますが(ちょっと信じられない思いです)、

現地は、本当に、これからです。

 

校長先生と。

なんか、無理やり本やらを持たせたような写真になってしまっていて、すみません。そういうつもりではなかったのです。

音楽室の端っこにでも、置いていただければ、と思ってお渡ししたまでなのです。

とっても優しい校長先生でした。貴重な体験をさせて頂きました。

この歳になって、こうして学校の先生に教わる(今回は、実社会というものを)というのも、なんだか不思議で、でも、ありがたいものだと思いました。

どうもありがとうございました。

 

そして、

なんだか、まだまだ書き足りないような気もしていますが、

今日で、一旦、旅の記録は終わりにします。

また、何か思い出したら、書きます。

 

ここまで、読んでくださって、本当にどうもありがとうございました。

色々な思いをお持ちになられたかもしれません。

でも、できることなら是非、臆することなく、言葉にして、行動にして、

被災された方々と一緒に、手を取り合って、また、新しい日々を、日本を、作り上げてきましょう。

 

最後に、

 

 

岩手の美味しい野菜を、たらふく買い込んだ悟郎くんと、食いしん坊でした。

撮影はトミちゃん。

 

今回の旅のこと、出会えた人々、目にした光景、そして、ここで一緒に演奏した二人のことを(そして勿論、ヨウコちゃん、キアナのことを)、僕は一生忘れません。

 

ではー。



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あれから、一週間。

毎日、写真を整理したり、こうしてブログに書き残すことで、陸前高田で見たこと、感じたことを、改めて考えていました。

しかし、何か“答え”が見つかるようなことではなく、ただただ、あの日突然に起こった災害と、その力の猛烈さ、凶暴さ、

そして、事後の生活への影響力のあまりの大きさと、

やはり、普段僕たち人間の築いているものの脆さを、まざまざと感じるのが精一杯でした。

 

トップ写真の線路は、遠い昔に廃線になった鉄道の線路ではなく、

陸前高田の市内を、あの日、あの瞬間まで走っていた電車の線路です。

線路のみならず、駅舎も壊滅してしまった街。日々の市民の足であった電車の復旧は、まだまだ遠い先のことになるようです。

免許を持たないお年寄り、学生たちは勿論、あの日、クルマを流されてしまった多くの方たちの移動手段であってほしい電車が、無いのですよね。

バスは、臨時ダイヤで走ってはいるようですが、・・・見た記憶はありません。タクシーは、覚えている限りでは一台も見ませんでした。

 

被災地での駅舎、鉄道の再建に関しては、また、津波の被害に遭うかもしれない低地に建てるのかどうかでも、

意見が分かれているという話もありました。

線路には曲げて作っていい角度(カーブの急さ)が決まっており、津波被害に遭わずに残った駅舎を再利用したい声を考えると(駅の付近住民にしたら、大問題ですから)、

その先の駅舎の位置などの決定が、実に大変なのだそうです。

当然、費用の問題もあるそうですが、本来の法律では、こういった場合に国が資金を援助できるのは、赤字の会社や団体に対してで、

今回被害に遭った路線JR東日本の管理下にあり、そのJR東日本は会社全体としては黒字なため、国が資金を出す対象外なのだそうです。

となると、現行法の下では、JR東日本が、自治体との話し合いの中で再建を進めるしかないそうなのですが、自治体にお金があるはずもなく。

ともあれ、一日も早く電車が動いてくれなければ、色々な生活の場面が復旧するのは難しいでしょう。外から人も入って来づらいですし。

僕たちは一関から70キロの山道をクルマで走りましたが(ずっと山道ではなく、途中には小さな町などはあります)、

移動手段としては勿論、これから必要になってくるモノの流通手段としても、電車の復旧は、最優先課題の一つだと思いました。

 

対して、クルマに対しては、個人的に、震災後から、ちょっと思いが変りました。

マッチ箱のように水に浮かび、津波に運ばれる車。

一台、1トン以上もの重さがあるのに、ものによっては一台何百万もするものなのに、凄いスピードで移動できるものなのに、

いざとなると、プカプカと浮いて、軽々と流されて、あんなにも一瞬で、完膚無きまでに、壊されてしまうものなんだ、と。

思っていたよりも、はるかに頼りないものなんだな、と。

 

僕は、俗にいう“スーパーカー世代”ですから、こういうポルシェとかの、いわゆるスーパーカーが大好きな子どもでした。

街道沿いに放置されたままの、このポルシェを見たときにも、「あ!928!」と思わず声を出してしまったくらいです。

 

しかし・・・、

子どものころ、あんなに憧れた高級車のこんな姿を目の当たりにして、何ともいえない気分になりました。

 

あの日、クルマで逃げようとして、相当な方が亡くなったのも事実です。

大抵のクルマは、エンジンのある前が沈み、おしり(後ろ)を空に突き出した状態で、浮いたのだそうです。

 

目の前のフロントガラスは真っ黒な水に沈んでいたことでしょう。

そして、いくらアクセルを吹かしても、水の上に突き出た後輪は、ただただ、虚しく回転するだけだったことでしょう。

考えるだけで、恐ろしいです。

 

しかし、クルマは、必要。

ペシャンコになった車のすぐ横で、中古車が売られていました。

 

これも、特別な場所ではなく、街道沿いから見える風景です。ポルシェと、ちょうど反対側になります。

奥には横倒しになったコカコーラの自動販売機。こんな場所にもともとあったとは思えませんから、街から流されてきたのでしょう。

田んぼに頭を突っ込むようにして壊れたままのトラック。

 

この通りは、街へ通じる一本道ですから、何度もここを通りました。

ですから、何度も、この、

 

ピアノを見ることになりました。

あの日から、ずっとこうして、空を仰いでいるのでしょう。弦が張ってあるところにはドロが溜まり、草まで生えてしまってます。

せめて、真っ直ぐに起こしてあげたい複雑な気持ちで、それでも毎回、見えなくなるまでピアノから目を逸らすことができませんでした。

 

弾いていた人は、・・・もしかしたら、子どもだったかもしれないですが、どうなったのでしょうか。

 

いえ、ピアノは流されてしまったけれど、このピアノを弾いた誰かは、

どこかで助かっていてくれていることを信じたいですが、そう祈りますが、

だとしても、その人が、その子が、

また、それまでのように、当たり前のように、穏やかな気持ちでピアノを弾くことができる日は、一体、いつやってくるのでしょうか。

勿論、そんな日が、子の町にも必ずやってくると思ってはいますが、できることなら、一日でも早く、と願うばかりです。

 

一人の人間の一生は、長いようで、短いものだと思います。

楽器は、練習しなければ、上達はしません。休んでしまえば、それだけ取り戻すのには時間がかかります。

 

誰かの夢を、チャンスを、守ってあげられたら、と思います。

守ってあげて欲しい、と思います。

僕に何ができるかわかりませんが、「僕にもできることが何かあるはず」という気持ちだけは、これからもずっと持ち続けようと思います。

 

ではー。



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「ハカイシャ」。

映画、「クローバーフィールド」で副題に使われた言葉です。

 

映画でハカイシャと言われたあれは、未知の怪獣でした。

でも、これは、水です。

僕たちの良く知った、あの海の水です。

そして、映画ではなくて、東京から、わずか数時間で行ける場所で起きた、現実です。

 

消防署です。

屈強の消防隊、レスキュー隊など、いざという時に助けを乞うのは、消防署。

建物の上、アンテナのように見える、「火の用心」と書かれた、火の見櫓(やぐら)の先端にしがみつていた8名の方だけが、助かったそうです。

 

消防車が、取り残されていました。本当なら、町の皆さんを助けにいきたかったでしょうに。

 

その瞬間の、どうしようもない音が聞こえてくるようです。

 

通り沿い、消防署の横には、印刷所がありました。

 

長く廃屋だったわけではなく、四ヶ月前のあの日、あの瞬間までは、まったく普通に稼動していた会社です。

 

足元は、すこし柔らかいです。

海水浴に行ったときの、海底のような感じ・・・より、もう少し柔らかかったです。油断すると、足を取られそうになります。

踏み固められた土ではなく、波で流されてきたものが積もったものだということがわかります。

 

本当に、いろんな物が、落ちています。

 

DVD。「最強格闘技伝説」とありました。

残念ですが、こんな津波には、どんな格闘技の達人も、敵わないですね。

 

なんだろう、と思いながらシャッターを切りました。

 

印刷所の裏には、図書館と博物館がありました。

 

積み上げられた蔵書。

でも、もう読まれることはなさそうです。

 

消防署の裏にありました中央公民館、体育館があった建物です。

津波は、この建物の裏側まで、一気に打ち抜いたのだそうです。

 

海沿いに建っていたわけではありませんし、まさか、こんな高さまで来るとは、本当に思ってもいなかったことと思います。

 

しかし、現実は。

 

どうしたらいいのか。

 

無残です。あまりに、無残です。

それ以上の言葉が見当たりません。

 

通りを挟んで、市役所が見えます(中央の四階建ての窓がる建物)。

 

この市役所の前で、震災発生時に撮影された、約2分の動画があります。津波が襲ってくる、直前の様子です。

陸前高田市役所前ライブ映像

 

こちらの方に伺いました。

津波が来た時、市役所の付近に居た人たちは、四階建ての市役所に避難したグループと、

向かいの三階建ての高さの建物に避難したグループに、分かれたのだそうです(写真、中央より、やや左の建物)。

 

これまでご覧いただいた写真や、先ほどの消防署の画像などでもおわかりいただけるかと思いますが、

津波は、三階建ての建物は、飲み込んだのです。

 

なので、市役所の四階、および屋上に避難された方々は助かり(たしか、三十数名と聞きました)、

向かいの三階建ての建物に避難された方々は、全員、お亡くなりになったのだそうです(こちらも数十名いらっしゃったとのこと)。

 

四階建ての市役所から、向かいの建物は見えたはずです。

見知った方や、同僚たちを抱えたまま、あっというまに水没していく建物を見た方々が、大勢いたはずです。

 

・・・なんという、悲劇でしょう。

 

下にご紹介するのは、南三陸町で撮影されたもので、震災直後に、ニュースで流された画像です。

立地的にすぐそばの陸前高田も、これと、同じような状況だったのではないかと思い、転載させていただきます。

 

信じられない光景です。

写真を見ているだけで、物凄く心細い気持ちになります。

アンテナによじ登り、必死(まさに、必死だったでしょう)でしがみついていた、わずか10名の方が生き残られました。

大津波15メートル、屋上の明暗

 

こちらの防災対策庁舎では、最後の最後まで建物に踏みとどまり、住民の方へ避難を促すアナウンスをされていた女性が被害に遭われてしまいましたね。

 

こちらは、陸前高田の写真です。

無常であることは分かっているつもりですが、それにしても、無情です。

 

言葉少なに、宿へ戻りました。

 

ではー。



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続きを書きます。

 

第一中学校でのお手伝いの後(左側の体育館が、避難所になっています。この時のことは、また改めて後述します)、

市役所や消防署などがある(あった)、町の中心地付近の様子を見ることができました。

ご一緒に、ご覧になって頂ければと思います。

 

第一中学校は、町を見下ろす高台(丘のような場所)にあります。

 

これは、学校の入り口(校門を出てすぐのところ)からは、このように町が見下ろせます。ここまでは、急な坂を二回ほど曲がって学校に上がるのですが、普段は大変だったことでしょうが、それゆえ、この学校は津波を逃れたのですね。

 

町は、まるで、どこかを埋め立てた直後のようです。

全部が田んぼや畑とかだったわけではなく、ここには、町があり、それが全て壊滅し、今は瓦礫などがかなり撤去された状態なのですね。

 

その坂を下りてゆきます。見えているのは、海とはちょうど逆方向の、山方面になります。

 

坂を下りきったところです。右が山方面。被害を逃れています。

左が、海方面です。目の前の家がなくなっているのがお分かりになると思います。

そして、これより右側の低い地域は、その殆どが津波で流されてしまいました。学校の出入り口が、ちょうど明暗を分けたラインでもありましたです。

 

学校の入り口を左折すると、このような景色になります。何もなくなってしまっております。

奥には、被災したクルマが集められていました。

 

街中に向かいます。

壁だけが残った、マンション、でしょうか。まるで、爆弾でも落ちたかようです。

コンクリートの建物が、水の力でここまで破壊されるとは、多くの人が想像してはいなかったのではないでしょうか。

 

道には、あちこちで、まだこのように電柱や、街路樹が倒れたままになっており、歩道を塞いだままになっていました。まだ、自転車は走れません。

暗くなってからでは、歩くのも危ないです。街灯は、一つもありませんから・・・。

写真で見える電柱は、震災後、インフラ整備の為に設置されたものだと思われます。

 

町が見通せてしまいますが、この辺りは、お店やレストラン、ビルなどがあった、町の中心地です。

 

高く積み上げられた瓦礫の奥に、病院が見えました。稼動は、しておりません。

 

瓦礫の高さには、圧倒されます。

これらはごみではなく、あの日まで使われていた、町の人々の、家の、家財の、生活用品が粉々にされたものです。

 

田んぼに横たわったクルマ。

奥には、ショッピングセンター、役所の建物などが見えます。

 

田んぼは、地震による80センチにも及ぶ地盤沈下で地面が下がり、四ヶ月経った今でも、このように海水が溜まったままになっていました。

 

土手のようになってしまっていますが、本来は、このコンクリートの地面の脇が、すぐ田んぼの底だったとのことです。

 

海沿いの道に、取り残されたままのクルマ。

 

捻じ曲げられた、鉄骨。

 

機械を使っても、これだけの鉄骨を、ここまでグニャグニャに曲げるのは難しいのでは、と思います。

津波の恐ろしいパワーに、背筋が凍る思いがします。

このぺしゃんこにされた鉄骨に挟まれ、千切れた木片。

これが、人間の腕だったら、足だったら・・・と想像してしまいました。

 

こんなにも太い鉄柱が、根本からこそぎ切られていました。

これをしたのは、ブルドーザーでも、ショベルカーでもなくて、水なのです。

 

その目の前には、

 

陸前高田キャピタルホテル1000

陸前高田の誇る、海沿いに建つホテルです。

 

無残です。

 

沢山の観光客を迎えたであろう、ロビー。

 

想像できる「壊れる」という壊れ方を超えて、壊されています。

 

ロビーには、震災から40日以上たった日付が。×印は、ご遺体が発見された場所だと聞きました。

 

ホテルの前には、「希望のケヤキ」が植樹されていました。

 

希望の葉が、枝が、捻じ曲げられることなく、大きく手を広げて伸びますように。

 

ではー。



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発音は「がんばっぺ“し”」

と、“し”が、強くなるのだそうです。

 

短期、中期的、どちらでも、情報量が多すぎると、

個別の事がらに対して、印象が薄くなることあります。

 

被災地のお話や写真は、今日は、ちょっと中休みとしましょう。

 

また明日です。

 

ではー。



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続きます。

基本的には、できるだけ時系列で書いて、今回の記録として残しておこうと思っております。

さて、大船渡の宿から陸前高田の市内まで約30分、そこからさらに15分ほど走りますと、「陸前高田市災害ボランティアセンター」に到着です。

 

このように、色々な場所からクルマやバスでボランティアが集まってきているのですね。

 

広島、横浜、札幌ナンバー・・・、一番左のスクーターは東京の板橋区のナンバーでしたが、ここまでこれで来られたのでしょうか。

 

沢山いらっしゃいましたが、それでも、GW以降は、ボランティアに訪れる方の数は右肩下がりだそうです。

震災の後しばらくは、この何倍もの方がいらしていたそうですが・・・。

現地では、人手は、まだまだ必要です。これはもう、年単位で、ずっと必要だと思います。

 

「初回」、「二回目以降」など、登録をする場所が違います。

資格や団体の人数などによって、こちらのセンターの方が、適した仕事を割り振ってくれるのです。

ボランティア内容などを登録しておくことで、二回目以降では、「その作業に関しての経験があります」となるのですね。

 

朝礼のような形で、注意事項などがアナウンスされます。

水分をしっかり摂ること、休憩をとること、今日も暑くなりそうなので熱射病対策をしっかりしてください、作業は15時までですが、今日の気温を考えると14時には上がってください、などといったことが告げられます。

「耳の後ろも要注意ですので」などと、細かいところまで、注意を促してくれます。

テレビカメラは、たまたた取材で入っていたようでした。

 

その後、

「〇〇県から来ましたボランティア△名です!今日は、※※の作業にあたります。よろしくお願いします!」

「〇〇県、××女子大学からきました!△名です!今日は、※※のお手伝いをさせてもらいます!」

などと、団体で来ているチームが、人数や作業内容を申告していきます。アメリカ人の15人ほどのチームも来てました。

「ほかに、ありませんか?」と訊かれ、トミちゃんが輪の中に走って行き、「東京から歌を歌いに来ました!三人で来ました。よろしくお願い致します。」といった挨拶をしますと、皆さんから「頑張ってください!」と拍手が起きました。なんか、仲間に入れていただいたようで、・・・素直に、嬉しかったです。

今の被災地で、音楽とか、歌とか、果たして必要とされているのか。

「勘違いだ」とか、「うるさいなあ」とかって言われるんじゃないか。

そんな不安が、ずっとあったのは事実です。

今回、そこまでは前もって告知されていた保育所、中学校、工場の皆さんの前、ということでしたが(それでも不安はありましたが)、

最後の四ヶ所目のライブの場所が、あちらに行ってから急に決まった避難所の体育館ということもあり、

こういう思いは、最後の最後まで、ありました。

 

結果的には、音楽や歌の力を、改めてこちらが強烈に実感することになったのですが。

 

このように、保険に入ります。

そもそも、ボランティアが現地で怪我をしたり、病気になるのは、できるだけ避けなければいけませんよね。

ここは被災地。余震も続いているのだし、今日、明日だって、何があるかわからないから、しっかり気をつけよう、と三人とも改めて気を引き締めました。

 

では、出発です。

川沿いを走りましたが、ここも何もなくなってしまっています。

あの日、この川を津波が逆流し、海から6キロも奥地まで、壊滅的な被害を受けたのだそうです。

御神木が、残っていました。

 

陸前高田の市内に向かうにしがたって、瓦礫が高くなってきます。

 

そして、痛々しい瓦礫の中から、

 

気仙中学校が現れました。

この日の午後、演奏を聴いてもらうのは、この気仙中学校の生徒さんたちなのです。

 

学校は、完全に水没してしまっていました。

ただ、生徒、先生は奇跡的にも、全員が無事だったとのことで、今は矢作中学校という高台にある校舎で、授業を受けているのだそうです。

 

しかし、この校舎の様子には、本当に言葉がありませんでした。

ここが、あの高さまで、一面海になったのだと思うと。

 

津波で流されてしまった今泉保育所の子どもたちが身を寄せている、長部保育所に到着です。

 

なんと、園長先生がわざわざ出迎えてくださいました。恐縮でした。

「今日はよろしくお願いします」と、ご丁寧なご挨拶を頂きましたが、

いえいえ、こちらこそ何卒よろしくお願い致します、です。

 

演奏するのは、こちらの遊戯室です。

 

遊戯室には、このように物資が積まれておりました。

窓には、地震で割れてもガラスが散らないようにでしょう、テープが貼られていました。

 

ピアノ、お借りします。カワイでしたよ。

 

演奏を終え、機材を積み、外に出ますと。

ちょっと、大きく載せるのは止めたのですが、

このペットボトルの中身は、・・・全てハエです。

今月に入ったあたりから、被災地では、ハエが大量発生し、問題になっているのです。

「被災地 ハエ」などと検索していただければと思います。

ペットボトルには、砂糖、お酢、お酒などを配合した液体を入れるのだそうですが、

酷いときには一日で一杯になるそうです。

 

演奏の模様などは、トミちゃんのサイトに、曲目などもありますので、そちらをご覧頂ければと思います。

ライブの内容などに関しては、僕からは、また改めて。

でも、ひとつだけ。

・・・当日も書きましたが、園児のみんなの「たなばたさま(ささのはーさーらさらー、のあの歌です)」は、本当に深く心に残りました。

また、振り付けだと思っていたのは、手話だったそうです。素晴らしいことですよね。

 

さて、先生や子どもたちにご挨拶をして、中学校に向けて出発です。

「きをつけてかえってください!」って、沢山の子どもたちが言って・・・いや、あの声の大きさだと、“叫んで”送り出してくれました。

 

高台にある保育所を出発し、わずか5分も走りますと、このような光景になります。

 

住宅の土台はありますが、建物は全て無くなってしまっています。

 

この学校も、校舎の窓は全て割られ、体育館もご覧のように壊滅していました。

 

祠に上がる参道が、途中で崩れてしまっています。あそこまで、津波が来たのでしょうか。

 

バス停だったようです。後ろの建物は、なんだったのでしょうか。

 

走れども走れども、道の左右は、こういう風景です。

このあたりは、海岸から数キロは内地です。海が見える場所ではまったくありません。

まさか、だったことでしょう。

 

大きなお家に、スプレーで書かれた「3/21済」の文字がありました。

全てが現実に起こった事なのだということを、強く突きつけられます。

 

それでは、続きはまた、です。

 

ではー。



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