広島に原爆が落とされたのは、何年何月何日でしょうか?
なんと日本人の5人のうち3人が、広島でも4人に1人が答えられない、という調査結果を知りました(2005年 NHK調べ)。
日時を正確に知っている、とか、知らない、ということが問題じゃないのですよね。その日に広島で、長崎で、何が起こったのか、何故起こったのか、そして、どうなったのか。それを知らないことは、まずいんです。
何があったのか。それを知っていくと、その段階で、自ずと、いつのまにか日時くらいは頭に焼きついてしまうと思います。でも、それだけの日本人が、その日時すら知らないと言うことは・・・原爆のことを知らないということにも繋がっているなんじゃないかなって思います。怖いことだと、本当に思います。
もしも今「いつだったっけ。・・・答えられなかったよー」、でもいいんです。でも、だとしたら・・・せっかくですから、今日、覚えて頂けたらなー、と思います。これからの子供たちに、いや、世界中の誰に訊かれても、すぐに教えてあげられるように。
広島への原爆投下は、1945(昭和20)年8月6日のことでした。長崎に投下されたのは、その3日後の8月9日でした。
そして戦争の終了を告げる玉音放送が行われたのは(いわゆる終戦の日は)、そのすぐ後の、8月15日のことでした。
平和記念資料館の地下では、期間を区切って様々な企画展が行われています。今は、「菊池俊吉写真展」が行われています(~7月15日まで)。原爆投下2ヵ月後と、2年後に広島を訪れた写真家の写真展です。これらの写真は戦後長らくアメリカに接収されていましたが(←こういう事にも不条理を感じますよね。当然、証拠隠しです)、そして、30年近く経った1973年に返還されたものです。
原爆がこの上空600mで炸裂(原爆ドームのすぐ側です)。真下にあった島病院の厚さ1mのレンガが、「一瞬」で砕け散った様子だそうです。病院の真上に原爆を、いうのもあまりにも腹立たしいですが(軍施設じゃないですからね)、それを言ったら、そもそも何故、広島に、何故、長崎に、ということになりますが、・・・今日はそこは置いておきます。
写真にもどりますが、日本にも、こういう光景が存在したんですね。今時折テレビで放送される、イラクやアフガニスタンなどの爆撃被害にあっている場所と、そっくりではないですか。こんな光景を前にして、人は・・・どのくらいしたら絶望から立ち直れるのでしょうか。
見渡す限り、吹き飛ばされています。まさに、破壊、です。そして、この何十、何百倍もの威力を持つ原水爆が、今の世界には、何百、何千とあるかと思うと、背筋に冷たい汗が走ります。
写真展では、かなりショッキングな写真もありました。僕の後から入ってきたカップルの女性の方が、突然座り込んでクスンクスンと泣き出してしまいました。もしかしたら彼女は、・・・写真を見てるうちに、写真の世界の中に入ってしまったんじゃないでしょうか。だとしたら。でも・・・こんな光景を前にしたら、泣き崩れるのは正常な感覚だよな、と思います。彼氏がしばらく介抱して、また二人は歩き出していましたので、一安心でしたけれど。
中国新聞のこちらのページの一番上のボックスに、「ヒロシマの記録 菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ~Ⅲ」というリンクがあります。菊池さんの写真がいくつか見れますので、ご興味のある方はどうぞ。僕も数十枚、複写させていただいてきましたが(平和公園内の施設では、基本的にフラッシュを使わなければ撮影は許可されています)、直接載せるのは止めておきます。僕がここに載せることで、ご覧になられた方の具合が万が一にも悪くなられたらまずいですからね。
平和記念公園内には、何度か訪れている平和記念資料館のちょっと奥に、国立原爆死没者追悼平和祈念館という建物がありました。僕は、今回ここを初めて見つけて、初めて入りました。今まで、なんで知らなかったんだろう。
入るとすぐ、「しまってはいけない記憶 -助けを求める声を後にして」という企画展が催されてました。被爆直後に、家族や友人を「助けたくても助けられなかった」という体験が30編ほど寄せられており、うち3編が映像化され、室内でリピート放送されていました。
外国人の方も、沢山見ていました。どこから来た方で、実際に広島の地を踏んで、こういう場所で、こういうものを目にして、いったいどう感じるんだろう、と興味があります。この方々は、ご夫婦のようでしたが、とても真剣に見入っていました。ほんと、ゆっくり話し合ってみたいです。勿論、平和的にですよ。
このような感じの落ち着いたスペースで、被爆者の方の直筆の文章を読むことができます。直筆は、痛かったです。生の言葉と同じで、ずっしりと響いてきます。内容は、すぐ先ほどのリンクからも2編、読むことができます。是非。
とある方の体験談。ページの中ほどに、こう書かれていました。「・二度とよみたくないので誤字もあり よみにくいけど書きなぐっただけですので失礼します」
この方は、瓦礫にはさまれて動けない母親を助けることができず、迫り来る火の手に「このまま母さんと一緒に死のうと思う」と母親に言ったそうです。すると母親が弱々しい声で、「おまえが逃げられるのなら、逃げなさい」とキッパリといい、この方は「ここで逃げたら母さんに永久に会えなくなる、とガックリしました。それから一度、二度、三度と、助けることができないという事しか、母さんに言えなかった。そして最後には『もう行くよ』と言って、道路の方へ逃げていった。猿股だけしかはいていないので、火の粉がふってあつかった」とありました。
この方の体験談は、映像化されていました。
僕は7~8編を読ませていただきました。途中で、涙が止まらなくなり、読めなくなることもありました。身内を、言葉は悪いですけど、・・・見殺しにしなきゃいけない。あまりにも残酷で、無慈悲で、痛烈に悲しい体験談ばかり。でも、これがついこの間、ここで現実にあったことなんですよね。そして、これは、絶対に受け取らなきゃいけないメッセージなんですよね。
建物内には、追悼空間なるものが。ここには、何だかひんやりとした、厳かな空気が流れていました。
中へ入ると、螺旋状に地下へ続く薄暗い廊下になっています。そして、壁のところどころに、原爆に関するメッセージがあります。僕はこの「誤った国策により」という文章に強く共感します。
どの国の、とは明記されてはいません。ですから、日本の、や、アメリカの、という具体的な事ではないでしょう。参戦した世界中の国の「国策」が問題だったわけで、これからも「国策」が問題なのです。そこに住む人々そのものではなくてね。
例えば僕はアメリカが嫌いではありませんが、戦争をするというアメリカの国策は大嫌いです。他の国を思う時も、同様です。そしてまた同様に、日本に対しても、時々憤りを感じることがあります。憲法改正、なんて言葉を聞いた時には、特に。
廊下を抜けると、亡くなった方と同じ数のタイルで作られたという、広く静かな空間が広がっています。ここを訪れたら、是非とも中央の水の湧き出るモニュメントのすぐ側まで進んでみて欲しいです。僕もビックリしたんですが、音が、空気が、ここだけ違うんです。そこに立ってみると、耳がツーンとして、静寂と水の音に包まれるような感じがします。
そして、ホールを出ると、そこには。
壁一面に、原爆で亡くなった方一人一人の、お名前と、顔写真がゆっくりとスクロールされていました。数十万人とも言われている犠牲者は、一人一人の積み重ねであるという、現実を改めて突きつけられます。
またここでも、涙が止まらなくなり。
ここで感じたのは、強い怒りでした。何故、この人が、何故、この子が、という。
ロビーに戻ると、被爆直後の街の様子や、10万編を超える被災者の方の体験談をビデオで見ることができる「体験閲覧室」という部屋があります。
今、僕が見ているのは、当時の動くカラー映像です。「撮影:米軍」とありますが、馬が、荷車が、本当に動いています。人が横切っていきます。作り物でも映画でもなくて、こうして本当の当時の映像を、まさかカラーで見られるとは思っていませんでした。
昭和21年、下村時計店、とあります。天気が良い様ですね。38秒の無音の映像です。時折、やはり馬車や人が通ります。
じっと見ていましたら、
映像の中を行く子供をおんぶした女性が、・・・突然、こっちを振り向いたんです。
変な言い方ですが、僕は62年前の彼女と、今、目が合ったような気がして。
ドキっとしました。
「どうですか、62年後の世界は。大丈夫ですか?」って言われてるような気がして。
どうかな。
・・・どうですかね?おばあちゃん。
僕はー・・・、正直なところ、憂いています。
だって、核爆弾は、あれからずっと、増え続けているんですから。
「彼ら」にとっては、広島や長崎が、その威力の実証にでもなってしまったかのように。
止めなきゃ、です。
戦争はもとより、核は、本物の悪魔です。
不拡散、そして、廃絶へ。
力を合わせましょう。
(広島については、昨年、10月12日のブログにも書いていますので、よろしかったら。)
ではー。