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いつものように

昨日、49歳最後の日はお葬式だった。

故人には、特に子供の頃とってもお世話になった。 いきあたりばったり、て言うか、にわかに遊びに出かけても、いつも本当の孫のように可愛がってくれた。 そんな彼女だったんだが、もうずっと長いこと、そう、思えばかれこれ15年は会っていなかったと思う。

そんな彼女は、もう直ぐ生誕100年を迎えようとしていたようだ。 一昨日、訃報を聞いて近況を知った。 満で99歳ではあったが、おおむね健常のまま終えたほぼ100年の人生、それは見事に大往生だ。

そして今日、自分はたまたま彼女の半分まで生きたことになる。

人生ってのは何だろうね?

そもそも、子孫を残すこと、すなわちそれは自分の身代わりなんだと思う。 て言うか、次の時代に、自分の代わりに生きて欲しいから子供を作る。 少なくとも自然界ではそうだ。

なので、思うに、親が子供の面倒を見るのはとうぜんで、生物、自然体としての本能な訳で、それは子供から見れば至極あたりまえのことなのだろう。 つまり、子供の存在理由からすれば、親の面倒を見る謂われは無い訳だ。

昨日の葬儀で彼女の大往生を見届けながら思ったこと。 それは、そろそろ自分は遺言状を書いておこうと思った。

自分の人生の終わりが、彼女のように死ぬ直前まで健常とは限らない。 ならば、これから未来を生きていかねばならない子供達に、できる限り要らぬ負担はかけたくない。

代わりに生きて欲しいと願って育てた子供達が、親のことで苦労する姿は見たくない。 もしそんな事態になったなら、それは真に本末転倒というものだろう。

明日もきっといつものように薪を焚いて暮らしている。 自分で決めた生活スタイルなのだからあたりまえのことだ。 この命が続く限り、それは変わらないだろう。 そして明日も、いつものように朝が来て、いつの間にかに夜が来て、必ずまた陽は昇る。 この繰り返しは不変なことだ。

そうやって、ずっと時は流れていくのだろう。

これまでおよそ18億4千万回の心拍数、あと残り何回なんだろう? 50年経った今日、そんなことを考えながら駄文を書いてたりする。

そして、陽が暮れて夜になれば、またいつものように、酒を飲んでいるに違いない。


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いつも駄文にお付合いありがとーございます。
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