酢豚のひとりごと

楽しい芝居と映画探しつづけま~す!

「天使と悪魔」

2009-06-30 16:17:56 | 映画
多少賞味期限を過ぎているが、映画『天使と悪魔』を見た。
あまり期待していなかったが、予想以上に面白かった。前作の『ダ・ヴィンチ・コード』を見ているおかげで、筋も人間関係もわかりやすかった。

前半、主演のトム・ハンクスの謎ときが後手後手にまわり、教会の間を走りまわっているだけで、馬鹿らしく感じられるところもあったが、最後のどんでん返しへの布石と考えれば許せる。

たわいのない話ではあるが、宗教でも科学でも盲信者が現れれば、こんな事態もおこるかもしれない。

たまたま今読んでいる坂口安吾は『安吾巷談』の「麻薬・自殺・宗教」で、宗教について、「人が宗教を求める動機も(中略)意志力を失った人間の敗北の姿であることには変わりはない」と言っている。
日本ではそれほど違和感なく受け入れられる言葉だが、映画に出てくるようなキリスト教の熱烈な信者が聞いたらどう思うのだろうと考えてしまった。

トム・ハンクスに今一つ精彩がなかったのは、前作のオドレイ・トトウの方が相性が良かったせいか。

坂口安吾4

2009-06-20 12:29:33 | 東洋大学
東洋大学エクステンション講座「坂口安吾と現代」の4回目。

今回は〈安吾における放浪の意味ー「吹雪物語」を中心にー〉 講師は東洋大学文学部教授 朝比奈美知子先生

お話は安吾の初期の作品からその放浪嗜好をさぐることから始まった。
中心となる『吹雪物語』については、フランスのネルヴァルの『オーレリア』を比較文学論的に取り上げられた。二つの文章の創作の動機には「狂気の理性による制御」と「女性の探求」という二点に共通性があり、安吾はネルヴァルから着想を得たと考えられる。そして「吹雪物語」の主人公の野々宮と卓一は似たところもあるが、夢が現実を殺してしまった野々宮と理性の実現を目指す卓一とは違っていると指摘された。

最後に『吹雪物語』は安吾が書きながら自分を見い出すような作品、言い換えれば安吾自身が作品の中で放浪しているのだと結論づけられた。

                 ☆
私の感想
『吹雪物語』は正直言って登場人物の描き分けが出来ていない小説ではないか。登場人物が男も女もみんな坂口安吾なのである。
男女の関係や生き方にそれぞれが、悩んでいるようでもあり、実際はそうでもないようであり、ぐだぐだと話はつづく。
ただ安吾の凄いのは、それでも最後まで読ませられてしまう情熱と文章力である。
その意味で朝比奈先生の安吾自身が作品を書きながら放浪しているという指摘に共感した。


「桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版」

2009-06-17 17:48:51 | 演劇
コクーン歌舞伎『桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版』を見た。

四世鶴屋南北の名作『桜姫東文章』を長塚圭史が書き変えた現代劇。
演出:串田和美 出演:中村勘三郎・大竹しのぶ・白井晃・笹野高史・古田新太・秋山菜津子他。

南米とおぼしき土地を舞台に、信仰、革命、様々な愛、殺戮などを盛り込んで、長塚ワールドがダイナミックに展開する。
マリア(桜姫)もセルゲイ(清玄)もゴンザレス(権助)もココージオも浮き沈みしながら「土手の下」と呼ばれる貧民街へと流れてくる。
その中で「生きる」という現代的なメッセージとともに、堕ちた人間の居直りみたいなものが感じられ、見終わった後には爽快感もある。変わった面白さのある舞台になった。

世の中には幸福と不幸を分かち合うもう一人の自分がいるという。その自分ともう一人の自分が行き交い、行きすぎてからちょっと振り返りそして別れていくラストシーンには情感がある。
音楽も有効に使われているが、演出がかっての舞台の名作『上海バンスキング』の串田和美であればこれも納得。

満足した舞台であったがしいて難点を探すなら、勘三郎の台詞回しがこの芝居では違和感があること、川に人が流されるところで笑いをとる場面は三谷幸喜の『決闘!高田馬場』のアイディアやスピードで負けていることか。

坂口安吾3

2009-06-13 19:31:42 | 東洋大学
金曜日に東洋大学エクステンション講座「坂口安吾と現代」の3回目に参加。

「安吾の第二芸術論」と題して、東洋大学文学部教授 谷地快一先生の講義。

お話はまず、藤原公経の
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり
の歌を例に、その後ろの七七が切り離されて出来た俳句というものの特性に触れられた。

その後桑原武夫の第二芸術論が生れるまでの時代背景の話があった。ここでは秋櫻子のホトトギス脱退に始まる新興俳句運動について、「痛々しい挑戦」であったとの指摘が印象に残った。

桑原武夫の「第二芸術論」は例句として取り上げられた句に対する読みの問題で、桑原に四季の変化から美学、無常、思想へとつながる俳句の特性を読み取る視点が欠けていたとの指摘があった。

最後に坂口安吾の「第二芸術論について」は、桑原武夫が日本文化全体の批判に俳句や短歌を使ったのは適切でなかったことを、結果的に明らかしたことになったのではないかと話された。
          
               ☆☆☆
坂口安吾の「第二芸術論について」は、本人の弁によれば桑原武夫の「第二芸術論」を読まずに書いたという。「よくぬけぬけと」という感じだが、安吾らしいところかもしれない。

坂口安吾2

2009-06-05 19:50:23 | 東洋大学
今日も東洋大学のエクステンション講座に参加した。

『坂口安吾と現代』講座の第二回目で、題は「安吾の推理小説」。講師は藤本典裕東洋大学文学部教授。

先生の話はミステリーの楽しみ方から、安吾の推理小説へ。

安吾は何故推理小説を書くことになったのか。
江戸川乱歩から書くことを勧められたこと、元々推理小説が好きだったこともあったが、一番大きな理由は当時の推理小説について、①トリック偏重で人間の心理が描かれていない、②超人探偵への批判など、読者と作者の間のゲームが成立しないことに安吾が大きな不満を持っていたことがある。
その結果1947年に『不連続殺人事件』が生まれた。
この小説の登場人物である矢代寸平(小説家)と巨勢博士(探偵)に安吾の投影が見られることや、一見無能にもみえる巨勢博士の探偵像についても話があった。
そして最後にこの小説で見られる数多い「無意味な殺人」は一人の死に対する敬意が感じられない点で、大多数の無意味な死を生んだ戦争の影響があるのではないかとの指摘をされた。

講義前に私も慌てて『不連続殺人事件』を読んだが、登場人物が多過ぎる上、場面により本名とあだ名が交錯したりして、人物像が整理出来ない内に読み終わってしまった。犯人を明かされても、あっそうかという程度が正直な感想。安吾の狙いが今日の講義でわかったので、ゆっくり再読したい。