酢豚のひとりごと

楽しい芝居と映画探しつづけま~す!

『散歩する侵略者』

2011-05-31 22:50:30 | Weblog
「散歩する侵略者」 劇団イキウメ公演  三軒茶屋シアタートラム

作・演出は、東洋大つながりの前川知大。
出演:伊勢佳世・窪田道聡・浜田信也・安井順平他

千秋楽(5月29日)のせいか、立見も出る盛況。
「イキウメ」は東京公演のあと、大阪、北九州でも舞台があり、着々とメジャー路線を歩んでいる。

以下ネタバレあり。
加瀬鳴海(伊勢佳世)の夫真治(窪田道聡)はしばらく行方不明のあと、認識の一部が欠落した状態で戻ってくる。その後は毎日散歩に出かけるのだが・・・。町には概念を失う不思議な病が蔓延。鳴海の姉も発症してしまう。

元警察官で記者の桜井(浜田信也)がその原因をさぐると、信じられない事実が。真治をはじめ三人の肉体に入りこんだ宇宙人が、人間の概念を奪い知識を収集しているのだった。

そして紆余曲折のすえ、数ある概念の中の「愛」へと話が収斂していくという流れは見事。他愛ない話なのだが、納得させられた。
ただラストは少し冗長な感じも。


『豚小屋』

2011-05-28 10:35:34 | 演劇

「豚小屋」  座・高円寺1  
原作:パゾリーニ  構成・演出:川村毅  出演:手塚とおる、河合杏南、笠木誠、福士恵二、大沼百合子他

いつものとおり予備知識なしに出かけたのだが、正直言ってなにもわからず困惑。
豚が人間を食べてしまうという皮肉か、ナチスへのアンチテーゼか、それとも原作者パゾリーニへのオマージュなのか。
いずれにしろ、原作を読んでいるか、パゾリーニについての知識があるかでないと、とてもたちうちできない。

演出の川村毅はチラシでこの企画の目的は、「パゾリーニの探究と解明」だと言う。主人公と作家パゾリーニを重ね合わせて見ようとしたのだが、ブルジョア青年ユーリアン(手塚とおる)からは、明瞭に見えてはこなかった。

帰ってから映画「豚小屋」の記事などを読むと、時代の違う二つの物語が交錯していたらしい。そのことだけでも知って行けばもう少し違った見方が出来たのにと残念。私はユーリアンの物語だけしか見てこなかったようだ。

映像や踊りやハープ演奏に、作者の語りの再生を加えるなど、実験的な演劇を匂わせる。ただセリフに三島由紀夫や吉本隆明を出し、ラストのバックに日本画で見るような吊るされた荒巻鮭の映像を使ったのはどうか。
内容自体がわからなかったので、安易な判断は出来ないが、この芝居は日本的な物を一切排除して成立させた方が、ドライな感じで良かったのではないだろうか。


『鎌塚氏、放り投げる』

2011-05-25 22:29:23 | Weblog


「鎌塚氏、放り投げる」

作・演出:倉持裕  出演:・ともさかりえ・片桐仁・大河内浩・広岡由里子・玉置孝匡・佐藤直子

倉持ワールドもすっかり定着したようだ。根底にあたたかさが感じられるせいか、女性ファンが多い。観劇日が東京千秋楽だったこともあり、笑いも拍手も大きかった。

筋は、没落した伯爵夫婦が、成り上がりの男爵夫婦を自邸に招待。招待する方もされる方もそれぞれに思惑を持つ。伯爵側は体面を保ちながら、なんとか男爵のお金を上手く利用したいと思い、男爵側はお金の力にまかせて、伯爵の屋敷と地位を手に入れようと画策する。
両者の駆け引きに、伯爵家の女中頭と両家の執事が加わってのドタバタが展開される。

伯爵の執事の鎌塚アカシ(三宅弘城)と女中頭の上見ケシキ(ともさかりえ)との中々噛み合わない恋も描かれ、さながらシェークスピア喜劇の趣きもただよわせる。

衣装をはじめとする華やかな色彩、場面転換の見事な舞台装置、息のあった演技など、良質な喜劇であることに依存はないのだが、しいて不満を言うなら笑いに意表を突かれる部分がない。
大爆笑の場内を見ながら、取り巻き観客で劇場を一杯にする力を持つ倉持氏の今後に多少の不安も感じた。

『ゴドーを待ちながら』

2011-05-11 19:02:30 | 演劇


あてもなく人を待つ、そんな芝居「ゴドーを待ちながら」を先月末、新国立劇場で見た。
作:サミュエル・ベケット、演出:森新太郎、出演:橋爪功・石倉三郎他

新聞評などには今回の大震災と重ね合わせ、生と死の問題を深く関係づけた鑑賞もあった。しかし芝居の内容はそう深刻なものではない。

主人公は、いつ来るとも分からないゴドーをただ待ちつづけるヴラジミールと、それに付き合っているエストラゴンの二人。そこには何のために待っているのか、ゴドーはどんな人なのかは語られない。ゴドーという人物が本当にいるかさえ曖昧である。その曖昧さを、二人は楽しんでいるように見える。
少年が伝えに来るゴドーの伝言も雲をつかむようだし、通り過ぎる主従も、退屈さをまぎらわすために、二人が生み出した夢のようでもある。

もうどこかへ行こうよ絶えずいうエストラゴンに対し、ヴラジミールはゴドーが来るのを待つというスタンスはずっと変わらない。やっとラストシーンで二人は、明日ゴドーが来たら救われるとし、もしこなかったら近くの木で首を吊ろうと決める。
しかし明日になれば、また前日までと同じように待ち続ける二人がいるような気もする。

待つことの楽しさと退屈さ。不条理劇として有名なこの芝居に、どこかあたたかさを感じるのは、待つ二人の間にある強い心のつながりであろう。

詳細が語られない分だけ、鑑賞の幅が広がるのが、この芝居の大きな魅力である。