小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

荒木又右衛門の謎  7

2006-12-13 18:21:30 | 小説
 荒木はしかし岡山藩士ではなく、郡山藩士である。ところが、なんという偶然だろう、その郡山藩の剣術指南に河合甚左衛門がいる。又五郎の叔父なのであった。
 さて、池田家対安藤家あるいは大名対旗本衆の抗争に話をもどす。
 又五郎を差し出せという池田家の要請に、安藤四郎右衛門は、では父の半左衛門と交換しようと条件を出した。池田忠雄の使者は安藤邸に国許から護送されてきた半左衛門を同道、父親を渡して子の又五郎を受け取とろうとしたが、それができなかった。はかられたのである。半左衛門の過去のいきさつがあるから、彼は高崎のほうに渡すので代わりにはならぬというのが安藤の言い分だった。ちなみに当日の安藤邸には旗本連中が列座していて、その中には大久保彦左衛門もいた。
 池田家の使者は役目をはたせず藩邸には帰れない。菩提所に行って腹十文字に切って死んだ。
 火に油を注いだようになって、池田忠雄は怒った。彼は本気になって旗本衆と一戦交える覚悟を決めた。困ったのは幕閣である。江戸城下で大名と旗本の戦が勃発すれば、幕府そのものの権威が疑われ、治安維持能力のなさを見せつけることになる。幕閣たちは調停にはたらきかけるが、池田忠雄の怒りはおさまらない。なにせ権現様の外孫であるから、鼻息もあらいのである。しかし、これが彼の命取りになった。
 寛永9年3月の末頃、池田忠雄は疱瘡を患う。幕府から典医が遣わされた。その医者の薬を服用したら、にわかに容態が変わった。4月2日、死んだのである。誰しも感じたはずだ。毒殺だと。
 河合父子の所業は、ついに幕府に権現様の外孫毒殺を決意するところまで、波紋をひろげたのである。


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