小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

左行秀と龍馬  3

2009-11-04 22:49:53 | 小説
 たとえば司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(産経新聞連載)以前に、龍馬ブームを起こした明治年間の坂崎紫瀾の新聞小説『汗血千里駒』(土曜新聞連載)は、龍馬の実伝として読者に受けとめられたが、坂崎は、長次郎を難詰する龍馬を描写している。「けだし孔明涙をふるうて馬謖を斬ると同一の心事」などと書いている。たぶん坂崎は「噂」を真実だと思いこんだのである。
 あるいは長次郎の商売相手だったグラバーの回想を聞き出して筆録した維新史編纂委員の中原邦平によれば、長次郎が茶屋で遊んでいるところに龍馬があらわれて彼を咎めたことになっている。どうやらグラバーは龍馬の名を出していないのに、中原が勝手に「海援隊」を「龍馬」に置き換えたらしい。これも「噂」が流布していたせいであろう。
 龍馬は、慶応2年1月10日には京都をめざして、下関を出航していた。長州の三吉慎蔵、そして土佐の池内蔵太、新宮馬之助らと一緒だった。
 16日に神戸に着いている。風潮不順で日数がかかっているが、要するに近藤長次郎が自刃した14日は、龍馬はまだ航海途上だったのである。瀬戸内の船の中にいたのだ。
 龍馬が長次郎の事件を知るのは、京都に着いてしばらくしてからであった。松浦玲氏の『坂本龍馬』(岩波新書)に詳しい記述がある。長くなるが引用しておこう。

「龍馬滞在中の京都の薩摩藩邸に上杉宗次郎自殺の報が届く。桂久武日記の二月十日で見ると、小松家抱えの錦戸広樹が野村宗七書簡を持参したのである。その書状が西郷に廻り、次いで桂のところへ来た。桂は『誠ニ遺憾之次第也』と日記に記し、翌十一日には小松邸へ出向いて詳しく話を聞いた。使者に立った錦戸も、野村書簡では尽せない事情を知っていたのだろう。自殺の原因は桜島丸=乙丑丸についての違約を長崎の薩摩藩士に咎められて腹を切ったというものと、秘かにイギリスに留学する手筈のところを社中に知られて詰腹を切らされたというものがあり、桂久武が小松家まで出向いて聞いた詳細がどういうものだったか残念ながらこれ以上はわからない」

 しかし、龍馬はその詳細を聞かされたと思う。そのうえで「術数余り有って至誠足らず」と手帳に書きつけたのであろう。なんとなく中味の想像がつく評言だ。
 松浦氏が「桜島丸=乙丑丸」と書いているのはユニオン号のことである。薩摩名義になったときに桜島丸、その代金を長州が払えば、長州は乙丑丸と名付けようとした。ユニオン号については船名だけでなく、薩長間でなにかと話がこじれたのである。


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