小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

左行秀と龍馬  2

2009-11-03 18:05:01 | 小説
 行秀の高知城下における住居(鍛練場)は、水通町(すいどうちょう)にあった。その10軒先に饅頭屋があった。饅頭屋の長男はおそろしく頭のいい少年だった。
 35歳の左行秀は、その10歳の少年の才気を愛し、彼が成長するまで学費を援助している。
 その少年とは、のち海援隊隊士となる近藤長次郎(上杉宗次郎)である。饅頭屋長次郎と呼ばれた。
 彼は土佐藩お抱え絵師の河田小龍に薫陶を受け、外国事情を教わるとともに、日根野道場で剣を学び、やがて上士の若党となって江戸に出た。そして漢学を安積艮斎に、洋学を手塚玄海に、砲術を高島秋帆に学んでいる。
 なんとも知識欲と向上心の強い若者であったが、25歳のときに苗字帯刀を許されている。その彼の学費は行秀から出ていたというのである。行秀にすれば、将来が楽しみな息子のようなものだった。
 しかし、近藤長次郎は慶応2年正月14日、長崎で自刃した。よく知られた事件であるが、自刃というより、海援隊規約によって、詰め腹を切らされた、といったほうがいいかもしれない。
『土佐人物ものがたり』(高知新聞社)の「近藤長次郎」の項の記述を借りよう。

「長次郎は龍馬の命を受け、伊藤俊輔・井上聞多らと談合、英人グラバーからユニオン号の買い取りに成功し、薩摩藩籍のまま長州に貸与した。操船は亀山社中。交渉は難航したが、長次郎のねばり強い才知がこれをのり切った。薩長土の連合は成功した。
 その矢先、長次郎のイギリス洋行計画が表面化した。費用は長州藩の謝礼ともグラバーの申し出ともいわれるが、この個人プレーは亀山社中の盟約に違反していた。長次郎は社中の申し合わせにより、長崎・小曾根家の離れで腹を切った。」

 ユニオン号の購入代金は当初の取り決め額よりはね上がったが、そこに長次郎個人に対するリベートが上乗せされた、と疑われたのでないだろうか。真相はよくわからない。
「術数余りあって至誠足らず、上杉の身を滅ぼす所以なり」と龍馬はひそかに彼を評した。近藤長次郎の切腹は龍馬の留守中のことで、彼を難詰したのも龍馬ではない。しかし、噂は龍馬が詰め腹切らせたとなって一部に流れた。  


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