小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

左行秀と龍馬  4

2009-11-05 23:03:04 | 小説
 近藤長次郎は、龍馬の「かげの才知」(前掲『土佐人物ものがたり』)あるいは龍馬の「影を生きた男」と評されることがある。薩長間の実務的なとりまとめでは、よく働いたのであった。
 長州藩主毛利敬親父子が薩摩の島津久光父子に宛てた礼状(慶応元年9月8日)に、だから彼の名が出てくる。上杉宗次郎としてである。
「委曲は上杉宗次郎に相咄候間、御聞取可被下候」
 詳しいことは長次郎に話してあるから彼から聞いてください、ということは、長次郎は大藩の長州の藩主とも直接会い、さらに薩摩藩主にも引見されるという身分になっていたということである。
 かっては士分でもなんでもない饅頭屋の息子が、歴史上の舞台でスポットライトをあびているようなものだ。自らの才知と学問でここまで来たのである。そういうことが可能だった時代であるが、上昇志向の急激な実現は、劇薬の副作用のように長次郎をしびれさせた。
 自分を過信しすぎたのである。他の海援隊隊士はみな自分より劣等生に見えていたと思われる。
 抜け駆けのようなイギリス留学計画は、彼自身の強い意志から出たものか、それとも薩摩の小松帯刀らのすすめによるものかは、わからない。わからないけれども、学費をパトロンから得ることは、左行秀の例で慣れっこであった。その学費充当金がリベートという形で供与されようとも、自分に対する報奨金として、さしたる罪悪感はなかったはずである。
「もし一己の利益のためこの同盟の約にそむく者あらば、割腹してその罪を謝すべし」という海援隊の前身亀山社中結成時の規律など、彼はほんとうは納得していなかったかもしれない。一言の弁明もせずに、腹を切った。
 さて左行秀と近藤長次郎は同じ町内のごく近所に住んでいたことは前に書いた。町名は違うが、龍馬の実家もまた彼らの近所にあった。昭和の高知城下に育った私のおぼろげな記憶では、饅頭屋跡地と龍馬の実家は、200メートル強しか離れていないように思われる。
 何が言いたいかというと、左行秀は土佐における龍馬のことも良く知っていた、ということだ。
 その龍馬が、息子のように目をかけて先行投資した長次郎を殺してしまった、と左は「噂」を信じた。 


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