毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
解釈
9月26日の竜虎の母さんのブログの記事に広瀬量平という人の作曲した「海はなかった」という合唱曲の詞が載せられていた。岩間芳樹という人の作詞らしいが、私は全く初めて読んだ詞だった。その詞の解釈を友人のみたぽんさんがコメントとして載せられていたが、それがとても面白くて、私もついつい調子に乗って、自分なりのその詞の解釈を載せてしまった。
夏の終わりの浜辺を歩く、をとめとわらべ。
二人の手は触れ合うでもなく離れるでもなく・・・
浜に残る二人の足跡は、ともにすごした夏の思い出。
ふと見れば砂の上に一枚の羽、
をとめとわらべはそれを手に取り、
去っていった二人の夏の墓標にその羽をそっと置く。
楽しかった夏よ、さようなら・・・
やがて来る秋を二人で迎えるためにどの花を手折ろうか・・・
などと、作詞者の意図とは全くかけ離れた解釈かもしれないものを臆面もなく載せてしまったのだが、今日になってそれがとても興味深いことだと気づいた。
詩とは作者が自らの感動を素直に歌い上げたものである。表現形式がどうであれ、使う言語が何であれ、詩の中心にあるものは感動である。その感動を伝える手段として身振り手振り、表情などを使うこともできるだろうが、そうした動物的な表現方法には飽き足らず、直接相手の心に伝えようと言葉を使うのが人間の特長であろう。しかし、その言葉というものは、はなはだ当てにならない道具である。ある人がある思いを込めて一つの言葉を使う。その言葉に込められた思いが、その言葉の向けられた相手がその言葉に持っている思いと完全に一致することはほぼ不可能であろう。人それぞれがその背後に積み重ねてきたものが違う以上、それは当然であろうが、普段の私たちはそうは思っていない。自分の発する言葉の意味がそのまま相手に伝わるものと勝手に思い込んでいる。例えば、「これおいしいね」と食べ物を指して言うときは、自分の特殊な好みを基に言っているのではなく、世間一般誰でもおいしいと言うだろうなという類推から「おいしい」という言葉を使っている。そういった最大公約数的な意味を基にしているから日常の会話は成り立っているし、それが暗黙の了解事項なのであろう。
しかし、詩の場合、一つ一つの言葉に込められた意味には、詩人それぞれの独自の思いが込められている。独善的とまで言わないまでも、かなり拡大解釈したような言葉遣いがされている場合も多い。詩人がそうした言葉を使いながら、自らの感動を表現しようとするとき、自分の持っている語彙の中からその感動を表現するのに最適と思われる言葉、できるだけ明晰な言葉を自分なりに選択してはいるだろうが、感動という形のないものを表現する以上、その言葉に込められた意味をうまく読む者に伝えるのはなかなか難しい。逆に言えば、詩人が自らの思いを最大限伝えられる言葉を選んで書き上げた詩にふれるたとき、読む者は作者の感動を追体験でき、それが優れた詩と呼ばれるのではないだろうか。
だが、そんな詩は稀である。多くは言葉の選択があやふやであったり、的外れであったりする。そうした、言葉の吟味が十分なされていないような詩では、それをどう解釈しようがそれは読む者の自由であることになる。解釈が読む人それぞれによって異なれば、かえって広がりを持つ場合もあるのかもしれない。(まあ、そうした効果をはじめから狙った詩もあるだろうが)
「海はなかった」の場合、言葉一つ一つの意味はそれなりに分かっても、それを集めて全体的に読んだ場合、今ひとつイメージがわいてこない。言葉の組み合わせに明晰さが足りないせいではないかと思うのだが、そのために勝手に詞の描く場面を思い浮かべられるのがいい。この詞が合唱曲に付けられたのもそのあたりの理由なのかもしれない。一人一人が自由にイメージを膨らませながら歌い上げる、そうした重層的な合唱曲にしようと思って作られた詞なのかもしれない、ひょっとしたら。
夏の終わりの浜辺を歩く、をとめとわらべ。
二人の手は触れ合うでもなく離れるでもなく・・・
浜に残る二人の足跡は、ともにすごした夏の思い出。
ふと見れば砂の上に一枚の羽、
をとめとわらべはそれを手に取り、
去っていった二人の夏の墓標にその羽をそっと置く。
楽しかった夏よ、さようなら・・・
やがて来る秋を二人で迎えるためにどの花を手折ろうか・・・
などと、作詞者の意図とは全くかけ離れた解釈かもしれないものを臆面もなく載せてしまったのだが、今日になってそれがとても興味深いことだと気づいた。
詩とは作者が自らの感動を素直に歌い上げたものである。表現形式がどうであれ、使う言語が何であれ、詩の中心にあるものは感動である。その感動を伝える手段として身振り手振り、表情などを使うこともできるだろうが、そうした動物的な表現方法には飽き足らず、直接相手の心に伝えようと言葉を使うのが人間の特長であろう。しかし、その言葉というものは、はなはだ当てにならない道具である。ある人がある思いを込めて一つの言葉を使う。その言葉に込められた思いが、その言葉の向けられた相手がその言葉に持っている思いと完全に一致することはほぼ不可能であろう。人それぞれがその背後に積み重ねてきたものが違う以上、それは当然であろうが、普段の私たちはそうは思っていない。自分の発する言葉の意味がそのまま相手に伝わるものと勝手に思い込んでいる。例えば、「これおいしいね」と食べ物を指して言うときは、自分の特殊な好みを基に言っているのではなく、世間一般誰でもおいしいと言うだろうなという類推から「おいしい」という言葉を使っている。そういった最大公約数的な意味を基にしているから日常の会話は成り立っているし、それが暗黙の了解事項なのであろう。
しかし、詩の場合、一つ一つの言葉に込められた意味には、詩人それぞれの独自の思いが込められている。独善的とまで言わないまでも、かなり拡大解釈したような言葉遣いがされている場合も多い。詩人がそうした言葉を使いながら、自らの感動を表現しようとするとき、自分の持っている語彙の中からその感動を表現するのに最適と思われる言葉、できるだけ明晰な言葉を自分なりに選択してはいるだろうが、感動という形のないものを表現する以上、その言葉に込められた意味をうまく読む者に伝えるのはなかなか難しい。逆に言えば、詩人が自らの思いを最大限伝えられる言葉を選んで書き上げた詩にふれるたとき、読む者は作者の感動を追体験でき、それが優れた詩と呼ばれるのではないだろうか。
だが、そんな詩は稀である。多くは言葉の選択があやふやであったり、的外れであったりする。そうした、言葉の吟味が十分なされていないような詩では、それをどう解釈しようがそれは読む者の自由であることになる。解釈が読む人それぞれによって異なれば、かえって広がりを持つ場合もあるのかもしれない。(まあ、そうした効果をはじめから狙った詩もあるだろうが)
「海はなかった」の場合、言葉一つ一つの意味はそれなりに分かっても、それを集めて全体的に読んだ場合、今ひとつイメージがわいてこない。言葉の組み合わせに明晰さが足りないせいではないかと思うのだが、そのために勝手に詞の描く場面を思い浮かべられるのがいい。この詞が合唱曲に付けられたのもそのあたりの理由なのかもしれない。一人一人が自由にイメージを膨らませながら歌い上げる、そうした重層的な合唱曲にしようと思って作られた詞なのかもしれない、ひょっとしたら。
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