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古代社会において十字架刑は、ローマ帝国以外でも行なわれていたが、旧約聖書に十字架が一度も登場しないのは、逆に新約における十字架の登場を示唆していたとも言える。ともかく、そういった歴史的史実について、私達がいくら机の上で考えようが、ネットで調べようが、現実の十字架に近付く事などは出来ない。かと言って、全く知りませんでしたで済まされる事ではない。
私たちがイエス様の十字架を見上げる時、それに至らざるを得なかった過程と、十字架上で成された救いの御業を真摯に受け取るためにも、実際の十字架刑が、いったいどの様なものであったのかを知ることは必要なのである。(
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「死ぬ寸前に何を話すか?」それによって、その人の生き様が見えるような気がします。
1)「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)
◎全人類に対する執り成し
2)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
◎信仰義認宣言
3)「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)
◎愛する者への執り成し
4)「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)
◎詩篇22章2節の言葉。罪によって神様との関係が絶たれてしまった全人類の悲惨な状況に対してイエス様が代弁してくださっている
5)「渇く」(ヨハネ19:28)
◎真に絶望した(渇いている)人でなければ、神様と出会うことが出来ない事が示唆されている
6)「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)
◎ギリシア語で「テテレスタイ(完済)」と言う会計用語。私達人類の全ての罪(借金)が帳消しにされた「完済された」と言うこと
7)「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
◎イエス様がご自身の使命を全うされ、神様の御元に帰る宣言。(4)では「神よ」と言っているが、ここでは、「父よ」と言っている。イエス様と神様との関係が「父と子」であることを明確に表現している
この出来事を見ていたローマの百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神様を賛美しました。十字架刑はこの世の中で最も残酷な処刑方法です。その十字架刑に処されなければならなかったのは、イエス様ではなく、この私自身でした。
しかし、私の代わりに罪のない正しい神の子が十字架に架かってくださいました。何のために?「愛している私のために」です。そして、それは、私のためだけでなく、あなたのため、全人類のために、です。これこそ「驚くばかりの恵み」です。
田中先生がよく言われる、焼き魚か、煮魚か、油でカラッと揚げるのか、蒸すのか。どうにかして相手の方に福音を知らせたいと思えば、十字架を語るのにも何通りもの語り口を私は持っていたいと思うのです。
またクリスチャンに対しても、イエス様の十字架の贖いの理解が一番大切で、それが私たちの霊的な成長、また健康を守り育てるものだと思っています。そのような時に田中師の十字架メッセージは喜びと期待でワクワクしました。
十字架上でのイエス様の7つの言葉。この一つ一つにイエス様の愛の深さ、救いの凄さを思いました。最初のイエス様の全人類に対する罪のとりなし。一番最初に、私たちのためにとりなすイエス様。そして、その次に右側にいる強盗の救い。
普段、イエス様の愛を一丁前に伝えようとしていますが、どこまでいってもイエス様の愛に私は泣いてひれ伏すのだろうな、と思いました。そして、イエス様の愛は私の理解できるものではないほど大きいと改めて思いました。
5番目の乾く。今回はこの言葉が私にとっては大きなポイントでした。宣教において、(人生)私たちの知恵や努力では踏ん張りきれないことがある。祈るのも、聖書を読むことも難しい困難に陥るときもある。しかし主は私の信仰を励まし、ねぎらい(3番目の言葉)、力なく感情は諦めてしまうほど弱っている時、主のみわざ、奇跡を見せられると思いました。
主に飢え渇くとは、砕かれた心、魂であると心に響きます。主のなさることは素晴らしい!自分の努力や働きではなくて、主が素晴らしいということ、それが心から分かるのは、主に飢え渇く者に与えられている特権かと思います。
大きな理由があることを初めて知った。
中でも十字架にかけられた罪人の一人に対して
一緒にパラダイスにいるといわれたところには
聖書も知らずにいた罪びとでも信じるだけで救われる(信仰義人)
そのことがこの場所で示され、
わたしは乾くといった箇所では
本当に飢え乾いている(救いを求めている)人だけが救われるという事、
そして十字架の死によって救いが完成したという事
私たちが救われるためには
唯一十字架の血によるあがないしかない事が本当によくわかった。
又、あがないの意味が奴隷を買い戻すという事で、
奴隷社会になじみがない日本人にとってこの言葉が分かりずらかったが、
奴隷をお金を出して買い取り、奴隷の状況から連れ出し、自由にする。
という意味と知り、イエス様の贖いの意味がよく分かった。
十字架=重罪人に与えられる最も残酷・残忍な処刑・極限刑
十字架に至らざるを得なかった過程=旧約聖書
結果としての十字架と復活=新約聖書
十字架のイエスキリストは心臓破裂で亡くなった=人間の罪はイエス様の心臓を破裂させてしまうような罪
”7つの言葉“
⑴「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34
☆人間、人類全てにたいする罪のとりなし。 敵に対するとりなし。
⑵ 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ルカ23:43
☆罪人に対するとりなし。
信仰のみ、悔い改めのみによる救い! 信仰義認宣言!
イエスを真ん中とする3つの十字架=全界の縮図
⑶「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です。」ヨハネ19:26-27
☆残された弟子、母にたいするねぎらい、とりなし
究極の愛の実践
⑷ 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」マタイ 27:46、マルコ15:34
詩篇22章の引用 十字架の預言
「子孫は神に仕え このことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。(詩22:31-32)
☆人類の苦悩の叫びを代弁してくださったイエスキリストの究極のとりなし。全人類に対するとりなし。
☆本来私達一人一人がかかるべき十字架の身代わりになってくださった “悪の根源は聖書に対する無知!”
⑸「わたしは渇く」ヨハネ19:28
「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く」詩22:16
☆自分の罪に絶望し、イエス様にすがる事のできる者のみ救いに到達する。
“本当に渇く人のみ、福音・救いにあずかる“
⑹「成し遂げられた」ヨハネ19:30 「完了した」(別訳)テテレスタイ=完済した、支払い済み。 (テロス=名詞、完了、終末)完了形=終わった!罪無し!
☆全ての人類の罪の完済→私達がこれを受け取るか?拒絶するか?「真理はわたしたちを自由にする」
⑺「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」ルカ23:46、
(「イエスは再び大声で叫び」マタイ27:50、マルコ15:37)
「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」詩31:6 神、主よ(詩篇) → 父よ (ルカ)
罪の裁きのため全地が暗くなり、イエス様と父なる神の断絶の後
“父よ”と呼びかけられている言葉で、イエス様と父なる神の回復を知る。
☆人類救済の業を成し遂げられた、勝利宣言&証!
《イエス様がゴルゴダの丘に横木を担いで引かれて行く途中で話された事の意味》
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ルカ23:28-31
十字架の40年後にエルサレム神殿の崩壊が起こる事を示唆している。ローマ軍を使って神の裁きが起こる事。 (バビロン捕囚、ローマ軍による神殿崩壊 )
黙示録に、“大バビロンによる崩壊”がのちに起こると預言されている。イエス様は、危惧されるべきはご自分の事ではなく、私達人間の方である!とおっしゃっている。
本当は罪人である私達がかかるべき十字架に身代わりとなってイエス様がかかってくださり、「完了した!」と罪の清算を完全にしてくださった。そして、父なる神との回復により勝利を宣言してくださって、父の右の座に着かれ今も私達のためにとりなしをしてくださっているイエス様が生きておられる事。完了した!と言われた言葉を日々受け取り続ける事の大切さを思った。時にまだ罪をおかしてしまう自分を責めたり、行いによって認められようとしてしまう。「イエス様の十字架で充分である」ことを軽んじては決してならない。ましてや、クリスチャン同士で揉めたりしている場合ではなく、自分の関わる一人一人との間に十字架を置き、全ての人の霊が救われるべき存在であることを真剣に考えなければならない。
最近、思いがけない形で、若くして友人が亡くなったり、病気になったりと地上の命の危機が訪れることが起こり、未だ時間があると思ってはならないと痛切に感じた。全世界の縮図がゴルゴダに立てられた3つの十字架であり、イエス様を真ん中に右側=救われる、左側=救われないとはっきり2つしかない。悲しいがグレーはないのである。私の後悔ではなく、クリスチャンとしてイエス様を伝える事の重要さをしっかりと受け取り、行動して行く!十字架を仰いで日々過ごして行く。行動を変えて行く決意を日々新たにしたい。
次の十字架メッセージが楽しみです。復活祭まであと3週間という時に十字架の学びが出来ることを感謝します。
手首位置で打たれ、手と腕の神経麻痺、肩は脱臼し足は45度で打たれる。出血多量で死なせない為。死因は心臓破裂。人間の罪はイエス様の心臓を破裂させるくらい。
1)ルカ23:34:「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
⭐️人間に対するとりなし、全人類に対する罪のとりなし。
2)ルカ:「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」
⭐️罪人に対するとりなし。右の人はイエス様を受け入れた。(悔い改め) 神学的には3つの十字架が正しい。
3)ヨハネ19:26-27: 愛する者へのとりなし(究極の実践の愛)母マリアの事を弟子ヨハネに対してのねぎらいの言葉
3)マタイ27:46、マルコ15:34:「我が神、我が神 どうして私をお見捨てになったのですか?」
⭐️全人類への究極のとりなし。
5)ヨハネ19:28:本当に渇く人だけ神様を追い求める事が出来る。自分 の罪に絶望して自分の力だけに頼らない。ここの御言葉が分かっている様で分かってなく心に残りました。詩篇22からももっと理解を深めたいと思いました。
6)ヨハネ19:36:「成し遂げられた」
原語はテロスー完了(終末)、テテレスタイ。一点の曇りも無くあなたの罪は精算された。人間救済が完結した。
7)ルカ23:46:「父よ、我が霊を御手に委ねます。) 父よと言っているのは、イエス様と神が断絶があった。
勝利の宣言
この7つの御言葉からイエス様の十字架をもっと深く正確に知らなければならないと思いました。
イエス様は私達に言われた。「私の為に泣くのでは無く、エルサレムに対する神の裁きの為に泣きなさい。」と。イエス様の溢れる愛に心から感謝です。
有難うございます。
今回は「三番目の愛する者へのとりなし」イエス様は究極の苦しみ、痛みの中で、家族、友人をいたわったこと。自分の気持ちや自分の状況よりも、他を思いやり優しい言葉をかけられるということが語られました。わたしは今までそんなことは全くできていなかった、しかし、これからはこのイエス様の究極の優しさを持つ者となりたい! 主を証しする者として、イエス様がわたしにそれを望んでおられると受け取りました。(難しいけれど)
そして「四番目 全人類の苦悩の叫びを代弁する祈り」先生が「悪の根源は聖書に対する無知だよ」と言われました。本当にその通り。そしてそのことに世の民は全く気がつかず、立派に生きている。イエス様の十字架上での7つの言葉は、今を生きる伝道者として重要なメッセージなのだと改めて心に迫りました。
わたしの友人が突然亡くなりました。彼女は何度もセルチャーチに来てくれた友人です。来るたびに心を開き、「信じるならキリスト教」「抵抗ないよ!すごくいいなって思う」といつも言っていた彼女。しかしわたしは’一度も彼女を信仰告白へ導くことをしませんでした。(理由はいろいろあるけれど、それはサロンパスと一緒)
五番目の「わたしは乾く」
神様を知らない方がどんなに自分に満足していても、どんなに満たされていると思っていても、実は満たされていないとわたしは知っています。そして、神様以外に私たちを満たしてくださる方はおられないのです。
本来、人間は神様がいなければ満たされず、神を欲する者であることを思うとき、セルは創造主を待ち望む、主を求める思いに気がつく場所である。セルを頑張るしかない。わたしは肉も霊もすべて頑張るしかない。それが今の気持ちです。
イエス様が復活されておっしゃった言葉。「わたしのために泣くな」イエス様こそ、私たちを危惧されている。これから起こること、見ることに私たちは主の言葉と共に歩いていく。背中を押されました。感謝します。