Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

「 神は呼ばれた・・」30分de一巻 Vol-3

2016年08月28日 | Good News
「レビ記」には、実にたくさんの規定が書いてあります。「何でこんなことを神様は、イスラエルの民(現代では私達)に語っているのだろう?」と思いませんか?そう思った方(私も含めて)は、『レビ記』と言う洞窟の中を『自分の経験や知識』と言う懐中電灯で照らして進んでいるようなもの。このメッセージを聴くと、「レビ記」と言う洞窟の中がより深〜く理解できるようになります

今回の「レビ記」は勿論ですが、旧約聖書を読む時にとても重要なポイントが2つあります。それは・・

1. イエス様の光を通して読む
2. 現代に生きる私達たちにどう言う意味があるのかを考えて読む

それでは、イエス様に洞窟の上からの明かりのスイッチを入れていただき、レビ記を読み進めていきましょう

レビ記の「主題」
本書の主題は、神様を礼拝するために必要なこと。つまり『礼拝規定』です。「出エジプト記」は、イスラエルの民がエジプトの神権政治の支配下から脱出する話です。そしてその後の「レビ記」には、エジプトを脱出した後、イスラエルの民が、エジプトでの偶像礼拝から、真の神様である「ヤーウェ」の神様を礼拝するために必要なことが書かれてあります。ヤーウェの神様が自ら、イスラエルの民に礼拝に必要なことを教えてくださった=「神は呼ばれた」。それが本書のタイトルです。その内容は大きく3つに分けることができます。

どうしたら神様に近づくことができるのか?(1-10章)
どうしたら神様と共に歩むことができるのか?(11-24章)
礼拝することによって与えられる祝福の約束(25-27章)

献げ物を通しての神様への礼拝
「礼拝」は、私達が神様に近づくことですが、神様を見ると死んでしまいます。(出エジプト記19:21)そのために、イスラエルの民は、礼拝を献げる祭司が死ぬことのないように身代わりとして動物を献げました。この献げ物(コルバン)を通して、イスラエルの民は神様を礼拝する事が出来たのです。レビ記 1-10章には「どんな時にどんな献げ物をどのように献げるか」ということが書かれています。さて、献げ物には5種類あり、これも出来れば覚えておいてください。

① 全焼の献げ物:神様の怒りを宥めるため
② 穀物の献げ物:神様を第一とするため
③ 和解の献げ物:神様への感謝を表すため
④ 贖罪の献げ物:自分が犯した罪の償いのため
⑤ 賠償の献げ物:献げ物の間違いに対する償い

それでは、現代に生きるクリスチャンにとっての「礼拝(献げ物)」は何か?ここが大切な所です。私たちはもはや本書に記されている動物犠牲を捧げる必要はありません。何故なら、イエス様が私達の罪のために十字架の架かって死んでくださり、復活してくださったからです。(ヘブル7:27)ですから、私達の人生の主権は「イエス様」にあると認めること。それが私達クリスチャンの献身です。また、礼拝で献げられている「献金」は、私たちが神様によって生かされているということの表明献です。(マラキ3:10)その「献身」を通して、私達は神様を礼拝をすることができるのです。(ローマ12:1)

レビ記の4つの柱
あなたたちは自分自身を聖別して聖なる者となりなさい(11:44)
神様に近づくため、神様は、イスラエルの民に聖なる者となりなさいとおっしゃっています。これは、汚れたものから自分自身を分離させることを意味します。しかし、私たち人間は自分の力では、聖なる者になることはできません。そのため、イスラエルの人々も多くの犠牲を献げなければなりませんでした。祭司は、毎日毎日、動物を殺し、火の上で焼くという、終わりのない過酷な任務を遂行しなければなりませんでした。このことが、やがてメシアの到来の願望へとつながるのです。

血はその中の命によって購いをする(17:11)
この聖句は、上の聖句を受けています。生き物の命は血の中にあるからこそ、犠牲を献げるためには、血を流さなければならないのです。この御言葉の実現が、イエス様の十字架の贖い(私たちの罪の身代わり)です。(ヘブル9:12-14)

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(19:18)
この御言葉は、律法の心臓部であり、神様ご自身を現されています。イエス様は弟子達たちに愛することのお手本を示されました。神様と共に生きる私達が、神様と同じように、私達が隣人を愛することを、神様は何よりも望んでいらっしゃいます。

50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする(25:10)
このヨベルの年(安息の年)についての記述は、出エジプトの50日後に十戒が与えられ、イエス様の復活後の50日目に聖霊様が降ってくださったように、神様の働きの後に『解放(安息)』が与えられることを意味しています

7つの祭り(レビ記 23章)
レビ記には、神様がイスラエルの民に定めた7つの祭り(祝祭日)があります。春の祭りが4つ、秋の祭りが3つの計7つです。
このイスラエルの祝祭日は、新約聖書の時代に新たな意味を持ちます。


①過越祭(すぎこしさい)イエス様の十字架の贖い
②除酵祭(じょこうさい「パン種を入れないパンの祭り」)罪なきイエス様の象徴
③初穂の祭りイエス様の復活
④七週祭(ななしゅうさい)ペンテコステ
(長い雨季の後)異邦人の救い

⑤角笛の祭り再臨と裁き
⑥贖罪日(しょくざいび)悔い改めと救い
⑦仮庵祭(かりいおさい)千年王国

このように「レビ記」は、「救いの根幹」が神様によって明確に現されている書巻なのです (Report by Mimita)




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「これらが名である・・」30分de一巻 Vol-2

2016年08月23日 | Good News
出エジプト記は、“モーセが海を割った”とか、“神から十戒を授けられた”等、聖書の中でもひときわスペクタルス性に富み、世間でもよく知られたエピソードが登場する。しかし、興味を持って読み進められるのは、十戒が登場する20章迄で、その後は、読めば読むほど退屈になって来てしまう書簡である。

言うまでもなく、それは本書本来の読み方ではない。実は本書のタイトルは、"エクソダス(脱出)”ではなく、「さて、これらが名である」と言う、一見意味不明なタイトル。これらとは、神に導き出された民(イスラエル12部族)のことで、彼らがエジプト(罪)の奴隷から、海を渡り(洗礼)、カナン(神国)へと失敗を重ねながら歩いて行くその旅行中の出来事と、それを背後で導く神の働きの記録(13:21-22)が本書の内容。エジプト脱出はその一つの過程である。

その内容は、“1〜18章のエジプト脱出”、“19〜24章の神との契約”、“24-4章の幕屋建設”の3つの部分に分けられる。エジプト脱出は"救いの始まり”、神との契約は“救いの内容”、幕屋建設は“救いの目的”。これらは私たちクリスチャンの“新生”、“聖化”、“栄化”を表す。

エジプトの奴隷時代400年、モーセの王宮生活40年、羊飼いの生活40年、モーセがシナイ山にいたのが40日、40夜、イスラエル民族の荒野生活40年、カナンの地偵察に40日、 そのカナン炎上は出エジプトから40年後、それはノアの洪水40日、洪水からソドム・ゴモラの炎上まで400年、ヤコブ埋葬40日から始まり、イエスが復活された40日間、復活から40年後にエルサレム滅亡。

その計画は、イスラエル民の叫びを神が聞かれた所(2:23-25)から始まるが、実はこの出来事は、神がアブラハムにカナンの地を与える約束をした際に既に預言(創世記15:16)されていた。つまり、カナン攻略は単なる占領ではなく、イスラエルの民を用いた神の裁きだったのだ。このように神の計画が定められた一定の期間で、寸分のくるいもなく進行していることが聖書によって知ることが出来る。

ユダヤ人にとって本書は、ユダヤアイデンティティの根幹、民族解放の象徴、それらを記念するのが、彼らが今でも固く守っている過越祭である。一方クリスチャンにとっては、羊の血を鴨居に塗った家だけが助けられ、海を渡って滅びから逃れられたこの出来事は、イエス・キリストによる十字架の明らかな予表である。

私たちは今、神を礼拝しつつ、荒野の中で生活している。それは、やがて定められた時に、主と共に約束の御国へと帰るための旅路である。モーセがイスラエルの民をカナンの地へ導いて行ったように、私たちも今、新しいイスラエル(神の御国)に向かって、イエス・キリストによって荒野を導かれているのである。ハレルヤ




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「 はじめに・・」30分de一巻 Vol-1

2016年08月15日 | Good News
Good News Station 初!の聖書講解メッセージ!!

突然ですが、質問です。
「聖書」はどんな言葉で始まって、どんな言葉で終わるでしょうか?
旧約聖書の創世記1章と新約聖書のヨハネの黙示録22章を開いてみましょう!

答え:聖書は「光」で始まり、「光」で終わります。
聖書の中において「光」は「神様の顕現(はっきりと姿が現れること。また、物事をはっきりとあらわすこと)」すなわち「命」を現しています。

さて、田中啓介牧師の聖書講解メッセージはさすがに大胆
な、何と礼拝一回につき、聖書一巻(…と言うことは、1年3ヶ月と2週間で聖書一冊まるごとわかるっ!!)

…と言うことで始りました、GoodNewsStation第1回講解メッセージ「創世記(はじめに・・)」

ここで二度目の質問。
では、「創世記」の御言葉は、どんな言葉で始まってどんな言葉で終わるでしょうか?
そう、始まりは、「光」ですよね。では終わりは・・「創世記」50章を開いてみましょう!
答え:始めは「光(命)」なのですが、終わりは「闇(ヨハネの死)」なのです。
「光」が神の顕現ならば、「死」は神の顕現と真逆を意味します。それは「闇」..サタンの支配を指しています。

「創世記」の内容は、大きく2つに分けることができます。
1〜11章:全人類の歴史(原歴史)について
12〜50章:ユダヤ人(イスラエル)の歴史について

創世記でいちばん大切な箇所は「3章15節」

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」

この箇所は「原福音」と言われ、神様がこの段階ですでに「イエス・キリストを通して全人類の救いを計画されている」ことを明らかにされています。

「お前と女」とは、「蛇とエバ」を、「お前の子孫と女の子孫」とは、「終末期に現れる反キリストとイエス・キリスト」を意味しています。ガラテヤ信徒への手紙(3:15-16)でパウロさんはこう明言しています。

「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」

「彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」
サタンはイエス様に激痛を与え、苦しめますが、致命的な攻撃はできません。
しかし、イエス様は、十字架の死から復活し、最終的にサタンに滅ぼされます。

このように、神の子、イエス様も苦しみを受けますが、最終的には永遠の勝利を得るように、
聖書の登場人物も、同じように苦しみを受けますが、最終的には、神様の祝福にあずかります。

アブラハムは、サラが子を宿す年齢をすでに過ぎていたにもかかわらず、約束の子イサクを授かり、「イスラエルの父」と呼ばれます。
ヤコブは、策略によってエサウから長子の権利を奪いますが、自分の土地を追われ、おじのラバンの下で不当な扱いを受けます。
ヨセフは、自分が選ばれた者であることを鼻にかけ、兄弟たちから妬まれ、エジプトで不遇の年月を過ごしますが、それでも、神と共に歩みことで人格が練られ、神様から与えられた大きな使命を果たします。

私たちも足りないところやダメなところがたくさんあります。しかし、ヤコブやヨセフのように神様に期待し、依り頼み、神様が私たち一人一人に与えられている祝福に満ちた人生を全うできる事を信じ、今週も歩んでいきましょう。(Report by Mimita


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死後の世界の真実

2016年08月13日 | Good News
心が凍るような相模原の事件。人それぞれ思うことは様々だろうが、クリスチャンとして知っておくべきことがある。それは、“福音を知る機会と能力のなかった人の救い”についてだ。私たちはこの質問に対して、分かりやすく且つ明快に答えることができるだろうか?そのための確認すべき点をいくつか教えられた。

まず、「何故人は死ぬのか?」ということ。そもそも人間は、はじめに創造された時には、死ぬようには創られていなかった。ところが、サタンの誘惑によって罪を持ったが故に人は死ぬことになってしまった。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロ-マ5:12)

残念ながら、障害を持った方々や子供たちにも罪は存在する。人間には生まれもった“原罪”というものがあるからだ。天国には罪を持った人間は一人もいない。哀しみ、憎しみ、苦しみ、疑い、不安・・これらのものが一つでもあったら、そこは天国ではなくなるからだ。こういった人の思いが聖化される唯一の方法、それがイエス・キリストの十字架による贖罪である。それは難しいことでも何でもない。ただ信じ、受け取るだけ。ところがその単純明快さ故に、人はそれを受け取ることが出来ないでいる。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ロ-マ6:23)

それを、人間が納得し易い別の方法で救いに到達しようとしているのが仏教である。しかし、いくら修行を重ねようとも人間の罪はなくならない。彼らは輪廻転生を繰り返し、途方もない年月を修行に費やした末、罪と共に己もなくし、無になるしか方法がないと考えている。だが、その目的地は“天国”ではなく、もはや何も存在していない無の世界“涅槃”なのだ。

このような人間の努力について聖書も記している。何千年間に亘る旧約聖書の記述は、人間の努力では罪の清算は無理だったということの証明なのだ。だからこそ、人間による力ではなく、神ご自身が人間の罪を肩代わりするために、この地上に来てくださり、十字架という究極の方法を通して、罪をその身に被り、死を葬り去ってくださった。この事実を事実として信じ、「イエス様、ありがとう!!」と受け取った人は、誰一人もれることなく天国に行くことができるのである。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです(ロ-マ5:15)

天国に行ける基準は唯一、“イエス・キリストの十字架を信じ、受け入れること”だけ。これが一人でも多くの人々を救うため、救いの窓口を広くするための神の究極の方法であった。この神の真理を、自分の主観・価値観よりも優先出来るか?それがキリストの十字架を受け入れられるかどうかにつながる。聖書解釈に個人的価値観や感情を入れてはならないのだ。

多くのクリスチャンは、「私が愛するイエス様はこうあってほしい!」と思っている。しかし、「こうあってほしい」とは、自分の主観・思いであって、神の思いではない。人の思いで神の思いを変えることはできない。神の思いの方が広く、深く、高く、絶対なのだから。

聖書には“キリストの福音を知る機会と能力のなかった人々の救い”についての具体的な記述はない。その理由は、それは私たちの責任でも、私たちが知る必要もないことだからだ。私たちが知るべきことは、人は創造主である神との交わりの中で生きて行くように創られた霊的な存在であり、“神との関係なしには、人は誰しも生まれながらの障害者”なのだということ。

この世の不条理の原因をいくら追求したところで、問題解決には至らない。しかし、「どうして?」を「何のために?」と、問い直す時、そこに一つの答えを見出す事が出来る。

主の名を呼び求める者はだれでも救われる(ロマ10:13)

イエス・キリストは、救いを求める人のところへは必ず来てくださる。キリストと出会い、どのような御方であることを知った時、私たちは癒され、人生の劇的変化が訪れるのだ!ハレルヤ (2016年8月14日メッセージより Report by Mutsumi Kawamura)


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えんぢぇる流聖書講座 2

2016年08月01日 | Good News
数千年間の長きにわたり、世界中の人々に読み継がれている永遠の古典である聖書を知らずして、世界の文学、美術、音楽を深く理解することは出来ない。創造主なる神が人間に残してくれた命のメッセージが記された聖書を、未だそれを知らない人々に紹介することは、クリスチャンにとっての責任である。

聖書は39巻からなる旧約聖書と、27巻からなる新約聖書の全66巻で構成されている。この「約」という字は契約の約・約束の約という字で、古い契約の聖い書、新しい契約の聖い書という意味である。ところが日本語ではこの契約の 「契」という字が省略されている為、多くの人が翻訳の訳と勘違している。

この契約の意味だが、強者と弱者という明確な力関係がある中で取り決められたものを契約とは言わない 。戦争で勝った戦勝国が、負けた敗戦国に対して要求し、取り決められた事項は契約ではないように、本来契約とは、同等の立場の者同士が、お互いの権利と安全を守るために取り交わされるものである。

それが何故、創造主である神と被造物である人間との間で、契約が取り決められることになったのか?それも二つの段階を経て。そのことが書かれてあるのが旧約聖書と新約聖書であり、このタイトルが示している様に、聖書とは第一義的に「神と人との間に交わされた契約の書」なのである。

この契約によって人間は、本来の立場上、得る事が出来なかった特権を、何の条件もなく得ることが出来るようになった。二段階と言うのは、旧約聖書には、これはしてはいけない248の条項と、これをしなければならないという365の条項の計613の契約条件があり、この約束を守ったら祝福され、それを一つでも破ったら呪われるという、何とも厳しい条件下にあった。

それが、イエス・キリストの十字架による贖罪によって、今まで取り決められていた613の項目を厳守する必要はなくなり、ただキリストを信じ、受け入れることによってのみ神との契約が成立し、人は特権を得る事が出来るようになった。それは、新しい契約によって古い契約が破棄されたという事ではなく、新しい契約によって、古い旧約が包括されたという事。(マタイ5:17)古い契約とは律法、新しい契約は愛、つまり、愛によって律法が包括されたのである。

この新しい契約は、今まで規律を守れなかったこと故に救いから遠ざけられ、神の恩恵を受け入れたくても、受け入れることを拒否され続けて来た、社会の最下層にいた貧しい人々に対して先ず最初に開かれた。現代社会に生きる私達は、よもや自分が社会の最下層に属しているなどとは、誰も思っていないが、実は貧困には二種類あり、それは物質的貧困と、精神的貧困である。今、日本人の多くが、精神的貧困の中にいることを否定できる根拠は何処にもない。

この神の愛による新しい契約は、頭で理解するものではなく、霊で理解するもので、自分は間違っていた、自分は無力だ、このままではダメなんだという問題意識を持った時に始めて開かれ、理解することが可能となる。人が自分の過ちを認め、本当の真理を切に求めた時に、今まで考えられなかった救いと解放が広がってくる。そのためのテキストとなるのが、聖書である。今日は先週に引き続き、聖書を正しく理解するための必要最低限のポイントをご紹介します。

   

自分のフィルター(主観、道徳観、感情)を外す
聖書にはこんなバカな!?理解に苦しむ箇所が少なからずある。何故、聖書には、このような愚かで、残虐で、極悪非道な記録が記されているのか?それは、それが偽らざる人間の歴史・姿だから。その姿は数千年来も今も、ちっとも変わってない!
臭い物に蓋をして真実が語れる訳がない。だから聖書は、人がどう曲解しようと、こんなものおかしいと思われようと、事実は事実として、失敗は失敗として、何一つとして誤摩化すことなく書いてある。聖書は人のために書かれたものだが、人の都合に合わせては書かれてはいない。従って、 自分のことを棚に上げ、聖書に書かれてあることを客観視して読んでいる内は、何時まで経っても聖書を理解することは出来ない。し、当然、救いに至ることもない。

自分を弱い立場に置いて考える
例えばルカ15章の放蕩息子の話しには、お父さん、放蕩息子の弟、真面目な兄の3人が登場するが、この中で一番弱い存在は誰か? 実はこの例え話しの中で一番弱いのは、放蕩息子ではなく、「冗談じゃない!」と怒り狂って家の外にいたままの兄なのだ。そもそもこの話はイエスが罪人と一緒に食事しているのにケチをつけた当時のユダヤの支配層の人々に向かって語られた話しである。つまり、この話しのテーマは、お父さんの無条件の愛と、それに納得出来ないお兄さんの話しであり、この放蕩息子の弟と、真面目な兄との対比は、正にクリスチャンとノンクロスちゃんとの価値観の違いを現している。つまり、この話しの中で一番弱い存在である兄の気持ちに焦点を当てなければ、この話しの主旨を見失うことになる。父(神)の愛に納得がいかないまま、祝福を受けられないままでいる兄の立場になって、この話しを考える必要がある。

神の意図と目的中心に考える
この例え話しには結論が書いてない。何故なら、その答えは読んだ私達に委ねられているからだ。「冗談じゃない!」というこの世の価値観の当たり前と、「死んだと思ってた息子が帰ってきて、それを喜ぶのは当たり前じゃないか」という聖書の当たり前、あなたはどっちの当たり前が本当だと思うか?。
この世の価値観とは真逆な聖書の価値観の中に込められた神の意図は何処にあるのか?そういう意識を持って、聖書を読んでいく事が大切でる。

人々に福音を伝えるということは、牧師が信徒に向かって、やりなさい!と言われてやることではない。携帯にしても話題のレルトランにしても、巷にあるお得な情報は、誰から言われなくても家族や友達には自然に伝えるものである。福音伝道もそれと同じである。福音伝道のエネルギーは、聖書の正しい理解と直結しているのである。共に学んで行きましょう!ハレルヤ!!




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