教会での聖書メッセージの多くは、聖書に基づいた演繹法(真理の聖典の基付いて、これは正しい、これは正しくないと判断する方法)である。しかしこの方法は、聖書を知っている人にしか通用しないので、もう一つの方法である帰納法(世の中の様々な現象の中から一つの真理を導き出す方法)による聖書解釈は、ノンクスチャンの人たちへのアプローチという意味において非常に有益である。
諸悪の根源は聖書の無理解・曲解にあると言って過言ではなく、聖書理解を誤ると、全てが根底から崩れて行ってしまう。従って、聖書を正しく解釈する上においては、道徳観や個人的価値観、感情、また、あやふやなマスメディアからの情報等を持ち込むことなく、聖書解釈の原則に添って、 キリストの十字架と復活、そして再臨まで、正しく人々に伝える必要がある。そしてそれを応用するためには、いくつかの基本的なポイントを踏まえておく必要がある。
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聖書が語っていないことを論じてはいけない。
ペテロが天国への鍵を主から授かったことは、聖書(マタイ16:19)に明記されているが、その権威がローマ法王に継承されたとは、聖書の何処にも書いてないし、それを示唆する箇所もない。聖書に書かれていないことを主張するのなら、それは聖書を語っていることにはならない。
聖書に書かれてないこと=神が語っていないことではない。
聖書には、三位一体、聖化、携挙という言葉はない。だが、聖書全体を読めば、それらが聖書の教えであることは明白である。また、聖書や賛美歌集の製本や、日曜学校について聖書は記していないが、それらのことが神の教えを否定することにはつながらない。
聖書中のどの記述も、文脈から切り離して解釈してはならない。
長い鎖国とキリスト教禁教令から解きはなたれ、新しい日本の夜明けを謳っていた明治政府は、キリスト教を排除すべきだと断定した。その根拠はマタイ10章34-37節であった。だが、Ⅰテモテ5章8節の御言葉にあるように、聖書が家族愛を否定していないことは明らかである。聖書解釈とは、これらの一見相反する御言葉は矛盾ではないことを、論理立てて説明出来ることである。
聖書は一生かかっても、これで終わり!ということがない泉のような書物である。人が本気で聖書を学ぼうと思ったら、学ぶべきことは、後から後から泉のように沸いて来るのだ。だからこそ、学び甲斐があるし、そこに聖霊の力は加わるので、疲れることがない。
そして、聖書で学んだ事は、この世が終わっても、私たちの魂の資質として、決して消え去ることはない。聖霊の助けをいただきつつ、共に聖書を学んで行きましょう!ハレルヤ!
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諸悪の根源は聖書の無理解・曲解にあると言って過言ではなく、聖書理解を誤ると、全てが根底から崩れて行ってしまう。従って、聖書を正しく解釈する上においては、道徳観や個人的価値観、感情、また、あやふやなマスメディアからの情報等を持ち込むことなく、聖書解釈の原則に添って、 キリストの十字架と復活、そして再臨まで、正しく人々に伝える必要がある。そしてそれを応用するためには、いくつかの基本的なポイントを踏まえておく必要がある。
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ペテロが天国への鍵を主から授かったことは、聖書(マタイ16:19)に明記されているが、その権威がローマ法王に継承されたとは、聖書の何処にも書いてないし、それを示唆する箇所もない。聖書に書かれていないことを主張するのなら、それは聖書を語っていることにはならない。
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聖書には、三位一体、聖化、携挙という言葉はない。だが、聖書全体を読めば、それらが聖書の教えであることは明白である。また、聖書や賛美歌集の製本や、日曜学校について聖書は記していないが、それらのことが神の教えを否定することにはつながらない。
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長い鎖国とキリスト教禁教令から解きはなたれ、新しい日本の夜明けを謳っていた明治政府は、キリスト教を排除すべきだと断定した。その根拠はマタイ10章34-37節であった。だが、Ⅰテモテ5章8節の御言葉にあるように、聖書が家族愛を否定していないことは明らかである。聖書解釈とは、これらの一見相反する御言葉は矛盾ではないことを、論理立てて説明出来ることである。
聖書は一生かかっても、これで終わり!ということがない泉のような書物である。人が本気で聖書を学ぼうと思ったら、学ぶべきことは、後から後から泉のように沸いて来るのだ。だからこそ、学び甲斐があるし、そこに聖霊の力は加わるので、疲れることがない。
そして、聖書で学んだ事は、この世が終わっても、私たちの魂の資質として、決して消え去ることはない。聖霊の助けをいただきつつ、共に聖書を学んで行きましょう!ハレルヤ!
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