Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

Awakening House Church (8/29/12)

2012年08月30日 | Good News
今回のテーマは、目から鱗のキリストの律法と、7つのメタモフォーセズについて。
なかなか黙示録に戻れませんが、これらは全てつながっていることなので、あしからず...。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アダムとイブの罪 (AHC・8/16/12 Application)

2012年08月29日 | Good News
 アダムとイブの罪の話しは、聖書の一番初めの書:創世記の天地創造の直後に書かれている話しであり、クリスチャンなら馴染みのある話しだと思います。AHCで改めて学び直し、特に創世記3章は、わたしたちの救い主イエス•キリストが最初に預言された大事な箇所であることに気付かされました。

 アダムは神が創造された最初の人でした。神は、彼を愛され、エデンの東に設けた園に住まわせ、アダムにこう命じました。これは、神と人との間に交わされた最初の契約で、「エデン契約」と言われているものです。(創世記 1:28-2:17・以下、聖書箇所は全て創世記です)

 1).地に広がりなさい。
 2).地を管理しなさい。
 3).地上の生物を管理しなしなさい。
 4).園のすべての木から取って食べなさい。
 5).地を耕し守りなさい。
 6).善悪の知識の木は決して食べてはならない。
 7).食べると死んでしまう。
 
 そして神は、アダムに助け手を与えようと、野と空のあらゆる動物を彼のもとに連れて来ましたが、アダムに合う助け手は見つかりませんでした。そこで、神はアダムを眠らせ、彼の脇の一部を抜き取り、女を創造されました。もうひとりの人を見て、アダムはとても喜び、彼女をイブと名付けました。2人は神にかたどって創造されたのです(1:27)。

 こうして人は神のもとで地上の支配権をいただき、自由意志も与えられていました。但し、園の中央にある善悪の知識の木は「神の権威」を示すもので、人の介入は許されない領域でした。 そこに、動物の中でもっとも賢い蛇が登場します(3:1)。蛇がエバに話しかけました。私たちの想像力で考えると、蛇を見ただけでも驚き、恐ろしいと思います。蛇はヘブル語で「蛇」、「光り輝くもの」という意味があります。エバ と対話をした蛇は、 光り輝く、 魅力的な存在だったのかもしれません。

 蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と切り出します。この蛇をしゃべらせているのは、サタンです。神に対する反逆者であるサタン(エゼキエル28章)は、神が人に優れた権限を与えられたのを知り、人を陥れようとしていました。サタンは、神が人とどんな契約を結んだのか、もちろん知っていました。でも、サタンはエバ自身に契約の内容を言わせようとしたのです。

 エバは、彼女が理解している契約を話しました。園の木の果実を食べてもよいが、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」(3:3)と神が言われたからだと答えました。イブの答えが完全に正しいものではないのを聞いて(神は「触れてはいけない」とは言わなかった) 、すかさず、サタンはこう言いました。「決して死ぬことはない。」(3:4)

 サタンは神の言った事を否定し、イブを惑わせようとしました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4) サタンは責任の言い逃れができるように、巧みにうそと真実を話し、エバをだまそうとしたのです。 エバはその木の実を改めて眺めました。いかにも美味しそうで、美しく、賢くなりそうに見える果実でした。エバが果実を手に取ると、確かにサタンの言う通り、エバは死にません。そして、エバはその実を食べてしまいました。

 ヨハネが、世の欲は「肉の欲、目の欲、生活のおごり」であると警告しています(Ⅰヨハネ2:16)。イブが食べた木の実は、この全ての条件を持ち合わせた果実だったのです。イブは自分の欲を抑えきれず、 サタンの誘惑に欺かれてしまったのです。

 エバは自分が食べた実を、一緒にいた夫アダムに渡しました。そして、アダムもその果実を食べてしまいました。ここで見落とせないことは、アダムはエバと一緒にいたということです。エバと蛇とのやり取りを一部始終見て聞いていたわけです。アダムは、神から直接契約を語られていながら、神の言いつけをやぶろうとしているエバを止めも、忠告もしませんでした。アダムはエバの選択に同意し、共に神との契約を破ってしまったのです。

 アダムとエバは目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり、腰にまきました。 園に風が吹く頃、神が、アダムとイブといっしょに過ごすためにやってくると、二人は神を避け、木の間に隠れました。いつもなら神を喜んで待っているはずの二人が、隠れているのです。神は全てをご存知なのに、アダムに「どこにいるのか」と問いかけました。これは聖書に記された、神から人への最初の言葉でした。

 神は、愛するアダムとイブの心が神から離れてしまったことを知っていました。「どこにいるのか?」このアダムに対する問いかけは、私たちの心の所在の問いかけでもあります。神は、私たちの心がいつも神と共にあることを望んで止まないのです。

 神は、アダムに罪の告白を誘発する問いかけをしたのです。アダムは、裸であるので隠れましたと答えました。食べてはいけない木の実を食べたことは明らかですが、アダムの答えは神の望む答えではありませんでした。神はアダムに罪の告白のチャンスを与えるために、もう一度質問をしました。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

 アダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答えました。アダムは罪の告白をしましたが、その責任を神と女に負わせたのです。アダムは、言い逃れをしようとしたのです。神の主権ではなく、自分の主権を選択し、神に対して罪を犯したのです。 神はエバに向かっても問いかけました。神は、彼女の後悔、悔い改めを表す告白を望んでいました。でも、エバは、「蛇がだましたので、食べてしまった」と、責任逃れをして謝罪をしませんでした。

 神が蛇に下された罪の判決はサタンへの判決でもありました。天地創造の時から神の業に介入したサタンが、神様が最も愛する人との関係にも介入してきた、その罪の結果は、サタンにとって破滅的なものとなりました。この判決の中で、人間を罪から救うために、神は既にこの時点において、イエス•キリストによる救済計画を、3:15(原福音/Prot-Evangelium)で預言されています。

 自分の意志で神様の御心に反する罪を犯したアダムとイブにも、当然、罪の判決がくだされました。 女の妊娠、出産の苦しみは増加され、夫を慕い、夫が妻を支配するものとされました。Ⅰテモテ2:13-14でパウロは、男女の秩序関係を語っています。アダムが最初に造られ、エバが造られました。それぞれ違う 役割をもっていましたが、二人とも神にかたどって創造されたのです。

 しかし、この秩序を理解せず、自分の主権を優先する時、人はサタンの誘惑のターゲットになってしまいます。 Ⅱコリント11:3でパウロが語るように、私たちは、エバのようにサタンに欺かれることがないように気をつけなければいけません。サタンは、常に私たちをキリストに対する愛と従順から切り離そうと努力しているからです。

 最後に、神はアダムの罪の報いについて語られました。エバと共犯し、罪を選んでしまった彼の罪は重罪でした。アダムの罪により、人類は完全なる園から追われてしまい、自然界も呪われたものとなりました。そして、人は死と向き合わなければならなくなったのです。

 しかし、神は愛の神です。神の栄光を表す姿に造られたアダムとエバ、そして続く子孫である私たちも、神が愛してやまない存在なのです。ですから、イエス•キリストによって人類を罪から完全に救い、神と人の関係を回復することを、アダムとエバの時から預言されたのです。アダムによってすべての人が死ぬことになりましたが、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです(Ⅰコリント15:20-22)。

 また、ローマ5:12-21で、アダムによってもたらされた罪はすべての人に及んだけれど、イエス•キリストによる恵の賜物とは比較にならない、パウロは語っています。 一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス•キリストの恵の賜物とは、多くの人に豊に注がれるのです。罪が死によって私たちを支配していたように、神の恵みも義によって支配し、私たちの主イエス•キリストを通して永遠の命に導いてくれるのです。神の勝利を賛美します! (めぐみ)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目から鱗の仏教セミナー (8/25/12)

2012年08月25日 | Good News
「GOOD NEWS STATIONってキリスト教会じゃないの?」
「クリスチャンの集会で、何が悲しくて『仏教セミナー?』」
「やっぱり人間には、修行が必要なの?」

のっけから、ハテナマークの嵐を呼ぶようなこのタイトル。しかし、

GOOD NEWS STATIONはこれまでも、今も、これからも熱いキリスト教会です!

では何故、仏教セミナーなどを開催するのか?

多くの日本人は「仏教徒」と自称しながら、「仏教とは何ぞや?」がわかっていない。しかし、クリスチャンも「ただ、何となくクリスチャン」ではないように、「ただ、何となく仏教徒」もいるはずがないのだ。「何となく仏教徒」とは、単に仏教に影響された日本文化に生きているだけで「仏教」の教えに従っているような気になっているだけではないだろうか。確かに日本文化と仏教は密接に関わっている。それ故に、仏教の教えが文化と混ざり合って、本来の教えでないものが教えとして認知されていることは、数限りない。

神様は国々の文化伝統を嫌うことなく、そのユニークさを大切にしてくださっている。しかし、それは文化という純粋なもののことであって、そこに入り込んだ「嘘」に対しては別だ。真理によって目を開くことのできた日本人クリスチャンだからこそ、「日本の文化」をしっかり見極め、「その中の嘘」を切り離して行くよう努めたい、と思う。600年も続いた寺の息子として生まれ、真理に出会って「嘘」と決別したえんぢぇる田中だからこそ語れる「目から鱗の仏教セミナー」なのだ。

元来、日本人は信仰深い国民であり、日本人が今まで真理を求め、信仰し続けて来た仏教=「知られざる神」(使徒17:23)の実態は、実はイエス・キリストにある。「神ご自身が日本人の中より起こし給えし福音によらなければ、日本のリバイバルはない。」とかの内村鑑三先生が100年も前に教えてくださったとおり、日本人の歴史・文化・精神性・宗教心を否定するのではなく、「福音」によってこれらを包括する作業が今こそ必要だ。福音が武士道が完成形であるように(新渡戸稲造)、仏教は、日本人にとっての<旧約>なのである。<旧約>は<新約>=イエス・キリストによってこそ、完成する!

と結論に至るまで、1. 仏陀の教え、2. 仏教の歴史、3. 仏教の変遷、4. 日本の仏教(景教→空海→法然→親鸞)、5. 仏教と福音と体系立てて語ってくださった実に4時間!しかし主は、この場に必要な人を呼び集めてくださった。ノンクリスチャンも、他宗教所属の方も、また日本リバイバルを語る先鋒であり、2時間前にLAに到着したばかりの奥山実牧師までも集められ、そこに降り注ぐように多くの真理が語られ、霊に触れられた。セミナー後も、参加者一人一人が受け取ったものの熱い分かち合いに立ち去りがたく、完全解散はほぼ真夜中。(翌日が日曜日でなければ、もっと延長したと予想)聖霊様の満ち溢れるすばらしい集会でした。主に感謝!ハレルヤ!






近日中にアプリケーションの時を持ちたいと思います。参加ご希望者は、ご連絡ください。(213-324-6942 睦美)



コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目から鱗の仏教セミナー

2012年08月21日 | Good News
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Awakening House Church (8/23/12)

2012年08月21日 | Good News
信仰の成長に福音理解は不可欠です。しかしその理解は、頭の中の知識だけに留まらせず、実生活にアプライできてこそ、ほんとうに成長するものなのです。信仰生活と実生活は切り離せるものではなく、深く結び合わせて働くのです。

信仰の成長は、実生活における問題の解決能力の成長に繋がります。今回は、私MUが実際に遭遇した身近な問題を例にして、問題解決の7ステップを学びました。

<問題>
ある日、ランチミーティングのためMUが運転して教会へ到着する直前、前方右車輪をパンクさせてしまいました。何とか教会駐車場に辿り着き、トランクを開け、スペアタイヤを取り出し、ジャッキなどの器具も用意して、スカートの裾を引きずりながら、オペレーションマニュアルを片手にパンクしたタイヤを外そうと躍起になっているそこに、教会にいた牧師が気配を察して登場。MUの格闘状況を一瞥した牧師は、タイヤ交換の役をすぐに変わり、炎天下1時間ほど費やしてスペアタイヤを付けてくれ、その後、MUはタイヤ屋さんで完全に修理を終えることができました。



これが前後背景でした。これは、「困った時は教会へ!牧師は何でもお手伝い」の宣伝ではありません。であれば、MUの信仰の成長はゼロです。この状況から、解決への重要な7点を教えられました。


 問題は成長の糧となる。
 問題が起こったそのことに意味があり、問題は必ず解決できる。
 問題自体ではなく、問題解決に、目を向ける。

まず最初の3点。MUにとっても、牧師にとっても、パンクは降って湧いたような災難。これがなかったら、ゆっくりランチを取りながらミーティングができたはずなのに、その日の予定はすべてパア。しかし災難だからと言って、見ない振りをしたり、無視しているだけでは、状況は変わりません。問題が「この時」に起こったことには、神様の必然が働いているのです。対処すべきことに、ポジティブな思いを持って実際的に動くことが必要です。

 問題においての、神の領域と自分の領域を分けて整理する。
 具体的な知恵を求める。
 身近なところに解決のヒントはある。

後半3点。どんなに信仰があったとしても、車の前で祈っているだけではパンクは直らないのです。しばしば人は、「時が解決するさ」という安穏な考えを抱きます。しかし現実はNO! 問題は「洗濯物」です。汚れた洗濯物を積んでおいても、決して勝手にキレイになることはありません。祈ってもだめ。洗濯しない限り、片付きません。問題も同じことです。実際に「自分の領域」において進み出さない限り、自然に解決することはありません。

しかし経緯の内には、人の手に負えない「神の領域」もあります。例えば今回の場合、タイヤのナットが非常に固く、錆と一体化していて、なかなか回らなかったそうです。そこで牧師は、扉の蝶番に用いるオイルのようなものを持ち出して注してみて、同時にナットが緩まる方向が一般的な左回りであるように祈りつつ作業したそうです。人の知恵と神の助け。ナットはようやく動くことができました。

 順序と位置を間違えない。

最後の肝心要。問題は解決の出発点や順序を間違えると一向に解決せず、直面している当人にも大きなストレスとなります。今回、牧師がとっととタイヤ交換の役を引き受けたのは、MUが解決の順序を間違え、明らかに今の作業が徒労に終わると見たから。このままではMUがどれだけ一生懸命解決しようとしても効果がなく、結局振り出しに戻ることになって時間とエネルギーだけが無駄に費やされ、MU当人は自分の出発点が違っていたことに気付かないまま、怒りや絶望に飲み込まれる可能性がほぼ100%(牧師の確信)。そして愚かにも人は、「神はいない。私は愛されていない。」と、自分の無知を棚上げして叫ぶようになるのです。しかし、神様はいらっしゃるし、問題は最初のポイントにあるように成長の糧なのです。スタンスを間違わず、そして解決の順序とスタート地点を見極めること。これが問題がスムーズに、そして有意義に片付くステップなのです。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

月面探査宇宙船のアポロ13号のクルーも握った御言葉です。宇宙船の酸素タンクが爆発し、クルーは電気と水、酸素を失い、絶望的な状態に陥りました。しかし、全員クリスチャンだた彼らは祈り、知恵を求め、着陸船を救命ボートに見立てて大気圏突入を決行して無事地球に生還できたのです。NASAにいたどの頭脳も見出せなかった知恵を彼らは得て、問題を解決しました。神様はいらっしゃいます。そして全力で祈り、自分の領域を果たす時、必ず解決の道へと導いてくださるのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12部族への預言 (8/19/12)

2012年08月20日 | Good News
熱波の影響か、はたまた燃え盛るえんぢぇる田中牧師訪米の影響か、熱い暑いロサンゼルスでの超~熱いメッセージでした。





新奏楽者も登場!ハレルヤデビューです礼拝後には八月のお誕生日会をお祝いしました。昼食は初そうめん!いつも食の細い子供にも人気で、ケーキあり、おにぎりあり、メロンに苺あり、大判焼きあり、豪華盛りだくさんメニューを大人も子供も楽しみました。

  



ロサンゼルスで「熱い」体験をご希望の方は、ぜひGOOD NEWS STATIONの礼拝にお出でください。次回のえんぢぇる礼拝メッセージは9月2日です!




メッセージ(音声)はこのバナーをクリック!



GNSのメインページはこちら!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Awakening House Church (8/16/12)

2012年08月14日 | Good News
聖書は「光」で始まり、「光」で終わる

信仰の成長は聖書理解と比例します。何故なら、神と私たちを結ぶものは「言葉」であり、この言葉を理解しなければ、正しい交流は出来ないからです。ですから、聖書を正しく理解するには、聖書全体的を把握し、捉える必要があります。

 さて、創世記は何で始まり、何で終わっているでしょうか?“神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。”創世記は「光と命」で始まり、「闇と死」(ヨセフの死)で終わっています。

 では、聖書全体は、何で始まり、何で終わっているでしょうか?“もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。”(黙示録22:5) そう、聖書は「光」で始まり、「光」で終わってるのです。 


聖書のプロローグ
 
 「初めに、神は天地を創造された。」と完了形で書かれてあり、最後にラフィア(終止符)が打たれていることから、1節は独立した節であり、神の創造は完了(完璧に)されたということが分かります。にも係わらず2節、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」主の創造が完璧であったにもかかわらず、何故地は混沌としていたのでしょうか?これについては、以下の3つの解釈がありまが、AHCでは、Gyap Theoryの立場を取って学んで行きます。


1).Orijinal Creation View 
 神は最初に混沌を創造された後、天地を創造された。(1節は創造第一日目の中に含まれる)

2).Pre Creation View
 神の創造の前から、混沌が存在していた。(混沌からの創造)

3).Gyap Theory
 1節と2節との間に、何かが起こった。(サタンの介入と神の裁き)


 日本語の聖書では全て、2節の冒頭は「地」ではじまっていますが、原語では「Now、さて」という接続詞ではじまっています。また、「混沌であって /was」ではなく、「混沌となった /became」が原語に忠実な訳です。また、通常ヘブル語は、動詞から名詞という順序ですが、ここでそれが逆に書かれているのは、「地の異変に注目せよ!」という意味が込められてます。つまり、「地は混沌となってしまった…しかし!」という語りかけなのです。

 「カオス・混沌」と訳されている「トーフ・ワ・ボーフ」という言葉、(イザヤ34:11、エレミヤ4:23) は、全て神の裁きを表しており、その後の「闇」という言葉も、神の裁きによる結果です。しかし、2節で、神によって「深い淵・テホーム」が、「水・マイム」に回復されている経過が記されています。この水はもはや闇の深淵・テホームではなく、命ある水・マイムへと変えらているのです。

 この、「神の霊が動いていた」の「動く・メラへフェット」という言葉は、「ふるえる」「羽ばたく」「宙に舞う」という、鳥の動作を表現した言葉で、そこには、意志、情熱、愛という能動的な意味が込められています。単に「動く・覆う」と言った無機質な動作のことではないのです。このことは、イエス様が洗礼を受けられた時の光景とオーバーラップします。 イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった”(マタイ3:16) この聖霊が鳩のように降られたという表現こそ、イエスがメシアであることの証明なのです。

 そして3節、神は言われた「光あれ」こうして光があった” 太陽は創造の第4日目ですので、この光は太陽のことではありません。では、この光はいったい何なのでしょうか? それは、「シャカイナグローリー」神の光、神の栄光、神様の臨在とともに発せられる光のこと。この神の光と共に、人間回復の物語が始まるのです! ( AKo)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Awakening House Church (8/9/12)

2012年08月10日 | Good News
信仰による救いと行いの意味

A「働きがなくても、その信仰が義と認められる」(ローマ4:5)
B「行いが伴わないなら、その信仰はそれだけでは死んだもの」(ヤコブ2:17)

聖書は実に40名以上の様々な人の手によって書かれている。新約聖書だけでも、27の書(BOOK)から成り、上記Aの御言葉はパウロさん、Bの御言葉はヤコブさんの書簡に書かれている。しかし、旧約新約合わせて66ものBOOKがあっても、聖書はひとつ。初めから終わりまで一貫してイエス・キリストを語り、何人の手に拠ろうともその内容は完全な調和を成し、真実の愛を伝える神様から私たちへの最高の贈り物だ。

AとB、パッと見て「あれ?」と思ったとしても、「聖書は神の愛の御言葉だ」という真理に立つ時、そこに矛盾も相反もないのがわかる。パウロさんは「信仰義認」を語った。信仰は神様からの恵みであり、信じる他に何もする必要はないのだ。イエス様を信じるだけで、誰でも救われる。このことは、聖書に登場する『クリスチャン第一号』を見るとわかる。『クリスチャン第一号』とは、イエス様が十字架に架けられた時、右側にいた泥棒のこと。十字架上でイエス様を神と知り、自分のことを覚えていてほしい、と嘆願した彼に、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と仰った。イエス様が太鼓判押してくださったからには、彼はまごうことなきクリスチャン。しかし、十字架上で死に瀕する彼には、御言葉を学ぶことも、奉仕することも、賛美することも、何もできない。ただ力尽きて死んでいくだけだ。しかし、何をすることができなくても、彼はクリスチャンとして楽園にいる。それが恵みの福音だ。

一方のヤコブさんが説いたことは、信仰によって行いが変えられていく「生きた信仰」だ。「信じる」ということは、簡単に口にできるような軽いものではない。人間は、心から信じていることに一致した行いをするからだ。信じているものによって、生活、価値観、基準、人生、関係、すべてが変わる。口にするだけは容易いが、真実信じていることには行動が伴う。つまり、「行いが伴わないなら、それは死んだ信仰」ということだ。例えば、「花が好き」と公言しているハナコさん。そんなハナコさんの話をいつも聞いているタロウは、ある日、ハナコさん宅を訪問してびっくり。花瓶には枯れた花束が放置され、鉢植えの花も庭の花もどれもぐったり萎れている。タロウは、別に「花が好き」とか周囲に言うことはないが、家にはいつも花が絶えることはない。さて、ハナコとタロウ、どちらが「花が好き」なのだろうか。言っていることより、やっていることの方が真実を語るのだ。

つまり、イエス・キリストへの真の信仰を持てば、その人の行動は変えられ、人生は変えられる。自然に良い行いをするようになる。礼拝すること、神様を愛し他人を愛すること、御言葉を聞くこと、奉仕すること、これらすべてが無理することなく、喜んでできるようになるのだ。そしてそう在り続けたいと願うようになる。Aは恵みによって救いをいただき、クリスチャンとして新しく生まれる「新生」を指し、Bはその後、イエス様と似た者に変えられていく「聖化」を指す。しかし、世の宗教のように、これが自分の努力でやっていたらダメ。事は進まない。クリスチャンとイエス様の関係は夫婦関係に喩えられるように、努力や能力ではなく愛によって成長する。長年連れ添った夫婦が何とはなしに双方似てくるように、イエス様と絶えず一緒にいて、親しい関係を保つことによって、似た者に変えられていくのだ。そして、かの日には「栄化」という栄光の体に変えられる。これがクリスチャンのクリスチャンたる希望だ。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。(フィリピ2:12)   (Mu)


神の選びと人の意志の表明

A「あながたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)
B「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)

イエス様は弟子たちをお選びになった時、どの弟子にも「わたしについてきなさい」とご自分の方からお選びになりました。また、15章でイエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と話されました。枝が木を選ぶことは出来ません。私たちはイエス様(ぶどうの木)につながっているぶどうの枝であり、つながっていなければ実を結ぶことは出来ません。枝である私たちが実を結ぶのではなく、木であるイエス様が枝である私たちを通して実を結ばせるのです。これは私たちがイエスにつながっていることの大切さを教えてくれています。

 ここを理解すると、「あなたがたがわたしを選んだのでない」という意味が理解出来ます。木があってはじめて枝が伸び、実を結ぶのです。そして良い木は必ず良い実を結ぶように、農夫である天の父が手入れをしてくださいます。でも、つながっていても実を結ばない枝は、農夫が取り除かれます。だから、枝である私たちは、実を結ぶのに必要な栄養を持っているイエス様を求め、そしてつながる必要があるです。

 ヨハネ14章1節「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とは、イエス様が弟子たちから去る(十字架)前に、弟子たちにもう一度信仰の確認をされているのです。それまでに聞いた御言葉、見た業によって、父なる神を、そしてその父が送ったイエスを信じなさいと励ましておられるのです。

 なぜ神様を信じるのでしょう?なぜイエスを信じるのでしょう?14章6節で、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。私たちは人生において、歩むべき道、真理を求めています。命を求めています。そしてイエス様は私たちが求めているもの。それは実にわたしであるとおっしゃっておられます。イエス様を求めれば、天国の父のもとにつながることが出来るからです。

 上に記述したことを元に、AとBを考えてみましょう。イエス様であるぶどうの木に、私たち枝はつながり、栄養をいただいて実を結びます。そのために農夫である天の父が、私たちが良い実を結ぶように、手入れをし、枝の剪定をなさいます。わたしたち枝が、道であり、真理であり、命であるイエス様を信じ、イエス様を求めてつながろうとすると、枝はよりしっかりと木につながれ、豊かな実を結ぶことが出来るのです。

 私たちの人との出会いは、神様が選び、導いてくださっています。たとえば、私と私の親友のAさんは、私が努力してAさんと出会ったのではなく、神様に導かれてAさんと出会いました。私がAさんのことを思う気持ちが、友情という関係に発展させて行きます。このように、Aさんとの関係をこれからどう築いて行くかは、私たちの意志次第です。そして大好きなAさんに何とかして命であり、真理であるイエス様を知って欲しいと願い、イエス様の愛を伝えて行きたいと願います。 誰でも真理につながっていなかったなら、寂しい人生になってしまうからです。だから、たとえ私の苦手な人であっても、やはりイエス様のことを知って欲しい、イエス様とつながって欲しいと願うのです。(Megu)


カナの婚礼の奇跡
観察
1).カナの婚礼は、バプテスマのヨハネの洗礼の記事から7日目に起こった出来事。

2).ヨハネ福音書では、イエス様が最初に行った奇跡。 

3).「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」「婦人よ」とは女性への尊敬を込めた言葉。イエスはマリアを突き離したのではなく、主の立場としてお答えになられた。

4).2-3メトレテス入りの6つの水瓶。1ギャロンのボトル(約3ℓ)180個分。理由も目的も告げらないまま、これだけの分量の水を汲んで運ぶという、人間的に考えると理不尽な重労働にも係わらず、彼らは従った。 

5).悪いワインが良いワインに変わったのではなく、水がワインに変わったという、完全な質的変化の奇跡。


解釈
イエス様が行われた最初の奇跡は、誰から要求されたわけではなく、誰からも感謝されず、誰も気付きもしていないのに、人々の喜びの為に行なわれました。これこそがイエス様が私たちに良いこと、喜びを与えるために地上に来られた、イエス様の御心そのものと言えます。また、この奇跡が7日目に行われたということから、カナの婚礼が、安息日(千年王国)、子羊の婚礼と言う、人間の至上の喜びにもつながっているのではないかと考えられます。

マリヤは結婚式にワインを切らすという失態を誰に話せばよいのかを知っていました。そして、何がなんだかさっぱりわからない言いつけに、召使たちは文句を言わずに従順に従いました。このことにより、奇跡が起こりました。もし、マリアがイエス様を自分の息子として扱っていたら、この奇跡は起こらなかったでしょう。奇跡は、イエスを主と信じている者の上に起こるのです。

水がワインに新しくされた。この「新しい」は、「κ α ι ν σ ζ/カイノス」という言葉が使われています。カイノスとは質的に全く変えられるという「新生」を意味しています。新しい人、新しい言葉、新しい命、新しい契約、新しいエルサレム、これ等は全てカイノスです。


応用
この世に存在している様々な奇跡や霊的現象は、全てイエス様によるものではありません。主イエスの御名によらないで、奇跡と思われる現象が起きたとすれば、それは一時的な悪霊の仕業です。私たちはしっかりと主イエス・キリストに祈り、主が言われることが、たとえその時は訳が分からない、納得できないものであったとしても、その御言葉に従順に従う時に、主の素晴らしい奇跡が起こるのだと言うことを、私たちははっきりと知りましょう。(Ako)
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和魂と日本のリバイバル

2012年08月03日 | Good News
キリストの福音と大和魂?
極東の島国日本と、ミドルイースト砂漠の真ん中のイスラエルの関係?

まったく関連性ないかに見えるこの両者が、実は日本リバイバルの鍵!現代日本人が見失ってしまったかに見える「日本人アイデンティティ」は、日本という国の根底に流れる日本人の血が流れ続ける限り消えることはない。大和魂は、福音によって完全な完成を見る。それこそが日本の霊的覚醒の発端となるのだ。

かつて明治維新から戦中に至る動乱の時代、多くの大和魂を貫いた先人がいた。『武士道 / The Soul of Japan』の著者である新渡戸稲造、日本人による福音伝道を説いた内村鑑三、「神」を和歌に歌った明治天皇、我が身を捨てても国民の安全を第一に要求した昭和天皇、そして多くのユダヤ人を命を賭して助けた戦中の日本人たち。

日本人は、大義のために命を投げ出す覚悟を持っており、決して怯むことなく戦いを戦い抜き、情緒豊かで真の美しさを知っている。「武士道」精神、大和魂は我々日本人のこの血に今も確かに脈づいており、日本人に課された神様からの使命がそこにある!

まったりムード満点の週末始まりの夜、まさに「目覚めよ!」勢いで(いつものように?)田中牧師が語るGVICのFRIDAY WORSHIP NIGHT。「武士道の台木の上に福音をつないだものが、世界最善の産物であり、日本だけではなく、世界をも救い得るものである」という内村鑑三先生のこの言葉の説き明かしと、神様が日本人を用いて導かれた業の数々と共に語られた日本人論は、金曜日の夜にも関わらず集められた一人一人の霊に「日本人による日本人のための教会」形成の思いを刻み付けた。この神様からのメッセージを聞いて、何をするか、いかに動くか、どう生かすか。そのアプリケーションこそが、実際的な「リバイバル」の準備となるだろう。地上で繋がれることは、天でも繋がれるのだから。

世界でも最も美しい国、日本。祖国のため、そこに住む愛する人々のため、私たち一人一人の祈りが主に喜ばれるものになりますように。


ダイジェスト動画はこちら!(完了!)







GNSのメインページはこちら!



コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする