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11月21日のAHCは、久しぶりに田中先生をお迎えしての集会でした。また、日本から2週間の予定で滞在している私の父も共に参加してくれることになり、期待をもって望んだ集会でした。「人は皆、いろいろな考えを持ち、それぞれ違った事を信じている、それでもいいではないか」というノンクリスチャンの父に向け、田中先生は、人が認める・認めない、信じる・信じないに関わらず、揺るがない真理が存在するということを話してくださいました。
お話しの最初は、物事の見方について。私たちは、今、目の前の現象にフォーカスして(囚われて)生活をしています。ですが、目の前にある現象だけにとどまらず、もっと視野を広げることが出来たら、全体の中で今がどんな位置にあるのか、どんな意味を持っているのかをはっきり見ることが出来るようになります。
例えば、黒い斑点がありました。何だろう?とちょっと目を引いてみると、それが犬のダルメシアンの模様の斑点であることがわかりました。さらに、引いてみると、それはネクタイの模様のダルメシアンであったことがわかりました。さらに、下がってみると、そのダルメシアンはある男性の締めているネクタイの模様だったことがわかりました。
私たちが今、目の前の現象に自我をとらわれずに、もっと大きな絵をみることができると、その現象がもっと大きな計画の中にあるということを発見できるのです。今、 私たちが人生の土台としているものはとても大切なものですが、それが全てだと思うと、人生全体の大きな計画が見えなくなってしまいます。自我をとらわれず、もっと大きな絵、大きな計画の中に自分たちの存在を見ることができたら、私たちの人生は、自分の与えられた使命に沿った、もっと希望に満ちたものになるのではないでしょうか。
人生の土台
お金
お金は、物質主義の頂点です。お金の使い方によって人の品性を量ることが出来ますし、また、自分も量られます。何故なら、お金の扱い方にその人の本音が表れるからです。しかし、お金を人生の土台にしてしまうと、自分が持っているお金の量によって、幸・不幸の量が計られ、お金のために自分の身を売る、また、人の命を奪うといったことさえ、発生してしまうからです。つまり、お金が人生の支配者となり、人はお金の奴隷になってしまうのです。
子供
親にとって子供は自分の命よりも大切な存在です。しかし、子供は決して自分の所有物ではなく、神様から預けられた一個人として受け止めないと、我が子を自分の分身のように扱ってしまいます。子供がその期待に応えられなければ親は怒り、落胆し、失望を抱きます。つまり、そのような親は子供を支配するようになり、また子供に支配されることになってしまいます。
人
子供や家族以外にも、異性や友人や会社の上司などの人間関係を人生の土台とすると、様々な問題が発生して来ます。関係が良好な時も良いのですが、いざ関係が壊れると失望し、嫉妬し、相手を憎むようになります。つまり、人生をその相手に支配され、支配する関係になってしまい、結局は、その人間関係の奴隷になってしまうのです。人間関係に支配された生き方に、真の自由はありません。
つまり、
人は自分が最も大切にしているものに支配されてしまうのです。満たされている時は良くても、もし、喪失すれば、失望のどん底に落とされます。もし私たちが本当に そのような状況に陥った時は、お金も様々な人間関係も私たちを守ってはくれません。では、私たちはいったい何を土台にしたら、突然の困難に陥った時も、失望ではなく、希望を保つことができるのでしょうか?
イエス・キリスト
何故、私たち人間が尊い存在だと言えるのでしょうか?それは、人間のことを高価で尊いと価値を認めている存在がいるからです。もし、人間の価値を人間が判断するとしたら、その人間の判断や価値観によって、ある人は尊く、ある人は必要でないということになってしまいます。戦争や民族紛争による悲劇は、全てここから発生しています。
しかし、自分の命を犠牲にして、私たちを束縛するものから買い取り、自由にしてくださった方がおられます。その方は、死んで3日後に蘇り、今も生きておられます。その方が命をかけて守ってくれた私たちの真の自由は、今現在も有効で、私たちが望めば直ぐに与えられます。ご自分の命と引き換えにしてまで私たちを守ってくださったこのお方こそ、神の子イエス•キリストです。私たちを束縛するものから解放してくださった贖い主、イエス•キリストです。この
イエス•キリストを人生の土台にすると、イエス以外の全てのものから解放されるのです!
イエス•キリストって誰?
聖書以外にイエス・キリストが歴史上の記録として記されている文献がいくつかあります。これ等が記された当時は、ローマ帝国の圧制下でしたので、どれもが歴史家としての視点で、非常に慎重且つ客観的(どちらかと言うと冷笑的)に書かれてあります。しかし、どの文献も、以下の3つの点において共通しているのです。
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当時、パレスチナ地域を中心に、イエス・キリストにまつわる大きなMovementがあったこと。
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そのMovementは、当時の権力であるローマ帝国により鎮圧され、イエス・キリストはそのローマ帝国によって処刑されたこと。
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そのMovementはローマ帝国の圧倒的な弾圧にも係わらず、逆に拡大して行ったこと。
では、約2千年前に実在していたイエス•キリストとは、一体何者だったのでしょうか?それを客観的に考察すると、以下の3つしかないことが判ります。
イエス・キリストは詐欺師だった
詐欺師の目的は、お金、地位、権力、女性といったものです。しかし、この目的が脅かされ、身の危険が迫ると必ず逃げ出します。イエスの生涯は、お金とも、地位とも、名声とも全く無縁でした。また、自分の命が脅かされた時も、逃げることをせず、弟子たちを助けようとしました。そして、自らの意志で十字架という極刑についたのです。このようなイエスの言動から、彼が詐欺師でないことは明白です。
イエス・キリストは精神異常者だった
「私は神からの使者だ」と言う人は、何処にも何時の時代にも大勢いますが、イエスのように「自分が神だ」と言った人はいません。もし、私たちの周りで、こう宣言している人がいたとしたら、私たちはその人のことをいったいどう思うでしょうか?精神異常者の特徴を考えると、言動に一貫性が欠け、筋道が通った会話をすることができず、人間関係が構築できないという特徴があります。しかし、聖書に記されているイエスの言動は終始、一貫しており、理論はいつも明確であり、矛盾点を見付けることは出来ません。また人々との会話や対応の様子を見ても、イエスが精神異常者であるという可能性はありません。
イエス・キリストは神の子だった
イエス・キリストが詐欺師でもなく、精神異常者でもないとすると、残る可能性はあと一つしかありません。それは、「
イエスが言っていた事は本当だった」ということです。人間というものは、嘘や虚栄で死ぬことは出来ません。人はもし自分が殺されそうになれば、自分の身を守るために、必死で自分の弁護をするものです。しかし、イエスは不当な裁判に立たされた時も、一切自己弁護をせず、自分が遣わされた使命を最後まで遂行しました。最後の最後まで、イエスは真実を語り続けたのです。
聖書の世界観
私たちが人々に福音を伝える時、何故、人間に救いが必要なのか?そもそも救いとは何なのか?罪とは?神とは?イエス・キリストとは?ということを説明する必要があります。ですが、それらのことは人々にとって容易に理解できることではありません。福音とは確かに「良い知らせ」なのですが、それは耳障りがよく、すぐに人々に受け取ってもらえるような性質のものではないからです。
事実、イエス・キリストの登場は、彼を受け入れる人と受け入れない人の2つに分けました。そしてもう一度、キリストがこの地上に来られる時、世界の人々は完全に2つに分けられることになるのです。このイエス・キリストの救いを受け取るためには、どうしても知っておかなければならないことがあります。それが聖書の世界観です。それは人間の類推を超えた真理です。真理とは、その人が知る・知らない、納得できる・できないと言うことによって左右されるものではないのです。
創造
神は初めに天地を創造されました。全ての創造は素晴らしく、とてもよい状態でした。そして神は、愛し愛されるための対象として人間を創造されました。この宇宙に生命体をさがしている科学者たちがいますが、生命体の根源となるアミノ酸の構造を考えた時、アミノ酸が偶然出来る確率は無です。また、エントロピー増大の法則という絶対的なこの世の法則を考慮すると、アミノ酸が偶然に生じ、それが進化することはあり得ません。人間に比べたら遥かに単純な構造の腕時計やカメラを、誰が偶然にも出来得るなどと考えるでしょうか?まして命は決して偶然に発生することはないのです。
私たちが「悲しい」曲を聴く時、言語や文化の違いに関わらず、人は「悲しい」と感じます。それは、悲しみを表現しようとした作曲家の意図を、私たちがその音色から感じ取ることが出来るからです。それと同様に、人は花を見て、自然に「美しい」と感じます。それは誰かに教えられたからそう感じるのではありません。それは花を美しく創造された創造者の意図が伝わり、私たちは「美しい」と感じることが出来るのです。
私たちは大切な人と共に過ごす時間がずっと続いたらいいのにと思います。愛する人たちと別れなくて済んだらいいのにと願います。何故でしょうか?それは、私たちの中に永遠を切望する思いがあるからです。私たちを創造された方が、永遠の時を私たちと共に過ごすために、私たちの思いの中に永遠の時に対する憧憬を植えつけてくださったのです。聖書は、神が人を愛し、人が神を愛されるために創られたと書いてあります。そして神は人間に自由意志を与えました。私たちは何かに強制されて選ぶのではなく、自分の意志で選ぶのです。そこに、神と人間との自主的な愛の関係が生まれるのです。
堕落
人はよき状態で創造されたのですが、悪魔から誘惑された時に、その自由意志によって、神の主権ではなく、自分の主権の方を選んでしまいました。自らの意志によって、神から離れてしまったのです。そこから罪が入って来ました。天上には星が無数にあるのに、地上の光が邪魔をして、見えなくなってしまった状態と同じです。真理は存在するのに、その真理が罪という遮断物によって遮られてしまったのです。
私たちは神に従う事が最善であることが判っていても、自分の思いが優先して、最善であるはずの道を選ぶ事ができなくなってしまいました。自分の権利を主張し、自分中心に物事を選択をしていった結果、この世の中はどうなったでしょうか?環境汚染は取り返しが利かなくなり、様々な病が蔓延し、人間関係は病み、憎しみと憎悪が膨らみ、その結果、殺人、反乱、戦争を自ら生み出しています。
回復
神は、御自身が創造された人間を愛するが故に、人間をそのまま見捨てることをなさいませんでした。神から離れて、罪の中にいる私たちを愛し続け、その罪の故に苦しみ続け、そのことさえ気付かなくなっている私たちを、罪から救い出そうと計画されたのです。そこで神は、まず人に律法を与えました。人生の生き方の規則です。しかし、人々はどんなに努力しても完全に律法に従うことはできませんでした。それは、人の内に常に隠れた罪があるからです。 律法による行いでは罪から離れることはないと判ったのです。
そこで神は、最後の究極の切り札として、神ご自身の御子であるイエス・キリストこの世に送りました。人間の目には見えない神は、イエスという目に見える方を通して、私たちへの愛を示してくださったのです。罪の無い神の子を人としてこの世に送り、十字架の尊い血潮によって私たちの罪を購い、永遠の命を回復してくださいました。
現在、地球は環境汚染によって瀕死の状態にあり、6千年間続いた人間社会は、少なくとも500年後に存続する可能性は現実的になくなっています。神はすでに2000年前に、イエス•キリストをこの世に送り、人間に回復させる機会を与えてくださいました。神は、「イエス•キリストを救い主として受け入れなさい、神に立ち帰りなさい!」と、これが最後のチャンスであることを呼びかけられておられるのです。
再臨
「然り、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)イエス•キリストは、聖書の最後でこう語られました。今から約2千年前、救い主としてこの世に来られたイエス•キリストは、今度は裁き主として、再び地上にやって来られるのです。そして、悪に染まり、荒れ果てたこの地上の世界は滅ぼされ、イエスを主と呼ぶ私たちを新天地へと引き上げられ、神と共に永遠に住むと、聖書は明言しています。
永遠
神と人が愛し、愛される関係を持ち、イエス・キリストを主権者とする天国が訪れます。私たちが切望する永遠の国で、神と共に生きるのです。これが、聖書に書かれた世界観、神の真理の要点です。私たちの視点が、この世だけに限定されてしまうと、この世の不平等や理不尽さに失望してしまいます。しかし、救い主イエス•キリストを人生の土台として、永遠の観点で現世を見る時、神は何と平等で、愛と義の神であることを理解することができます。そして、永遠に朽ちない希望が与えられるのです!
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今日のAHCの集会の中で一番印象に残ったお話は何かと父に尋ねると、「最後の集大成だね」と、聖書の世界観の話しをあげてくれました。そうです!聖書の真理、イエスの福音。この素晴らしい話しが、他人の話しではなく、父のものであり、多くの人々のものであるということを、父自身にも、また一人でも多くの人々にも知っていただきたいと、心からお祈りしています。(めぐみ)
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