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神を愛する者達、つまり、御計画に従って召された者達には、万事が益となるように共に働くという事を、私は知っています。(8:28)
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本書は、パウロが自分で設立していない教会に宛てた唯一の手紙である。執筆されたのは皇帝クラウディウスが、ユダヤ人追放令を出してから7-8年後。既にその時には多くのユダヤ人クリスチャン達がローマに帰還していたのだが、今度はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、諍いが起こるという事態が発生した。その社会的・神学的対立を解決するためには先ず、正しい福音理解が土台となる。その事を示したのが、本書の第一義的な意味である。(メッセージより抜粋)
“30分deロマ書”レポート
今回のローマ書は、「世界に存在する最も深遠な書」と呼ばれるパウロ神学の総括、福音の完全解明の書簡。パウロ先生が、福音信仰について明快且つ体験的に記した集大成とも言えるもので、とても30分でまとめられるはずもない!と考えるのが普通。これまでにも数多の教会で様々な角度から学びがされてきているだろうが、今回の“30分deロマ書”では、初心に帰って根源的なその実像に迫る。
ロマ書が他のパウロ書簡と違う点がある。これまでに幾度となく読んでいるはずだが、なかなかそういったことに気付かない。書かれた順序で行くと、ロマ書は書簡中でも最も後に位置する。なぜ、最後に書かれたものが最初に来ているのか?単なる人間的都合の順番ではない。新約の順番には神の摂理が働いているのだ。違う点とは、このロマ書だけが、パウロが建てたものではない教会に対して書かれているということ。この意味は実は大きい。
この手紙が書かれた時期は、使徒言行録18章後半から21章前半の記事と並行する第三次宣教旅行中。パウロの晩年であり、状況としては非常にシビアだった。エフェソでの騒動やコリント教会の問題などに直面し、また時間的にも制限され、寒さで身動きできない冬の時期、問題を抱えた教会にどうしても伝えたいことをこの書に書いた。
このロマ書が最初に来ている明らかな理由がある。パウロ神学の集大成であるこの書は、彼が生きた波乱万丈の福音人生の結晶であり、だからこそ新約の最初にこれが置かれた。同時に前述通り、会ったことのない教会に対して書かれているため、私情が交えられていない。そんな未知の、しかし確実に広がっていく教会に対して、正しい福音を示すための使徒的外交文書がこれだ。福音の心臓部として、福音ムーブメントの史実記述に続いて聖書に必要だったのだ。
当時のローマは世界の中心地であり、結果的にはパウロの最後の伝道地となった。この手紙を書いた時点では、パウロは地の果てであるイスパニアに行くことを切望していて、その途中に寄るための援助を求めたのだ。ローマ教会の基礎は、聖霊降誕の時、ローマから来ていた人によって建てられた。伝承ではあるが、その立役者はイエス様と共に十字架を背負ったキレネ人シモンの子供、ルポスと言われ、ロマ書16S章にも名前が出ている。すべてのことは聖霊降誕に始まり、イエス様の十字架に繋がっている。そしてパウロはこの書を書いた後、幻で再びイエス様に会い、ローマに導かれた。
この時期の時代背景は、A.D.49年にローマ皇帝クラウディオス帝が発したユダヤ人追放令によって、ユダヤ人はローマを離れざるを得なかった。その中にパウロと出会ったアキラとプリスキラもいたと使徒に記されている。ユダヤ人クリスチャンもいなくなったローマでは、異邦人が教会を守り続けたが、しばらくして発令が解除されてユダヤ人が帰還すると、ユダヤ人と異邦人の信徒間で争いが起きてしまった。神学的、あるいは社会的対立を解決するためには、正しい福音理解しかない、として書かれたものがロマ書の具体的内容だ。
福音の解明と並行して、本書が書かれた目的は他に3つある。
1. これから献金を携えてエルサレムに向かうから無事を祈ってね。
2. その後イスパニアに行く途中、ローマに寄るから支援をお願いね。
3. ローマ教会には偽教師がたくさんいると聞いているから、よくよく気を付けなさい。
更に特筆すべき点は、9章から11章までの3章に亘ってイスラエルに関する問題、イスラエルの選びについての記載がある。これはロマ書だけの特徴だ。救いはユダヤ人から来るから、支援し、助ける義務があると強調している。
形式としては、口述筆記でされている。この手紙の後、3年後にパウロはローマに旅立ち、その殉教の死を迎えるまで10年もない頃に書かれた。聖書は普遍的だ。パウロ最後と言われるこの書簡は、ローマ教会に宛てたと同様、全世界に対する福音宣言として現代に至っている。
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最後に、ロマ書に記されている「福音の3つの柱」と言うべく新生・聖化・栄化の3つの救いについて、御言葉と共に確認しよう。
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新生(ロマ3:23-26)
人が救われる、つまり神の前に義とされて永遠の命を得るには、自力でできることは何もないということ。どんな人間の良い行いも神の前では通用しない。これはしっかり知っておかなければならない。完全なる神の国には、ほんの一欠片でも罪があるままで入れない。ただ神の恵み、独り子イエス様の十字架によって私たちの罪を清算してくださったことを信じ、イエス様を主とし、聖霊の証印を受けて罪に支配されない救いを得る。
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聖化(ロマ12:01-02)
新しく生まれたクリスチャンとして、すべきことは自分を救ってくださったイエス様を生活の第一とすること。それは、真の意味での礼拝。礼拝は、クリスチャンしかしない。時に心が荒れることがあっても、姿勢として自主的に喜んで礼拝を献げる。それは自分主体でできることではない。原語は、この聖句は受動態の命令形となっている。つまり、自分で自分を変えるのではない。変えてくださるのは、聖霊様であり、神様だ。神様があなたを変えてくださるから、変えて下さりやすいようにしなさい、という自発性の意味をしっかり受け取ること。でないと、律法的自律的になってしまう。聖化は決して強制されるものではない。自発的でないと意味がないのだ。
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栄化(ロマ8:28-30)
イエス様再臨とほぼ同時に天に揚げられ、栄光の体に変えられるという素晴らしい救いを栄化という。今回は有名な8章28節から読み取る。
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神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
これは苦難の神学とも呼ばれる個所だが、最後の「共に働く」まで理解する時、すべてがわかる。全てのことが相互に働いて、全体的なプラスとなる。決して個人の利益だけで受け取ってはならない。人間、この世ではどうしても自分の最善を求めてしまう。しかし、実際はその通りにならないことが多い。それは、自分たちが考える最善が神様の最善ではないからだ。病気のデパートと自称すらされた三浦綾子さんは、その病気が癒されなくても神様の御業を現し続けた。それが今、病に生きる人の希望と励ましとなり、救いに導いている。彼女自身は癒されなかったが、全体から見ると多くの人を癒し、全体の益となっているのだ。これが共に働き益となる、ということだ。パウロもそれを知っていた。そして、その神の愛から誰も引き離すことができないと宣言している。
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それぞれの使命がある。私たちもこの栄化を知った宣言を私たちの人生で大きく叫んでいこう
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。(Report by Mu)